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「ある引退」市口大和(鹿屋体育大学クラブ)~Yahoo!ニュース個人掲載記事

 東京五輪の体操競技が終わり、団体銀メダルを獲得した男子団体チームが、各メディアを席巻していた8月4日、一人の体操選手が現役を終えた。 2020、2021年と全日本種目別選手権あん馬を連覇していた市口大和(鹿屋体育大学クラブ)だ。
 市口選手は、この春、鹿屋体育大学を卒業していた。本来ならば、就職している年齢だが春先には東京五輪の選考レースがあり、その先には、10月に北九州市で開催される世界選手権が控えていたため、鹿屋に残り現役を続行していた。

 今年の世界選手権は、五輪直後(本来なら翌年にあたる)のため、団体総合、個人総合が行われず、種目別だけの大会となる。現在、あん馬では全日本チャンピオンである市口選手には、出場の可能性があったのだ。
 しかし、そこには、「東京五輪種目別メダリスト優先」というハードルがあった。東京五輪のあん馬種目別決勝には、日本から亀山耕平、萱和磨の2人が出場。そして、萱選手が「執念」を感じさせる演技で銅メダルを勝ち取った。萱選手のメダル獲得は本当に素晴らしかった。が、その瞬間、市口選手の世界選手権出場の夢は絶たれたのだ。

 2021年6月28日。
 鹿屋体育大学を訪ねると、市口はそこで黙々と自らのあん馬に磨きをかけていた。もとより、「旋回の美しさは世界一」とも言われている選手だが、その市口が、「まだまだ」「もっともっと」と貪欲に、あん馬の練習を重ねていた。
 出られるかどうかわからない世界選手権のために。 もしも出番が回ってきたときに「やっておけばよかった」と後悔したくないから。 市口が、あん馬で頭角を現したのは、2019年の全日本インカレだった。4歳から体操を始め、中学からは名門・清風。高校生のときには団体でのインターハイ優勝も経験しているが、個人ではそこまで突出した選手ではなかった。
 あん馬は、もともと好きな種目ではあったが、本格的にあん馬に絞って練習するようになったのは大学2年生の春からだという。高3の春に肩を傷め、大学1年の夏には手術もした。それでも、6種目やれるところまでは体が戻らず、「あん馬ならできる」とスペシャリストの道を選んだ。

 鹿屋体育大学の同期には、すでに全日本種目別あん馬を制していた杉野正尭(現・徳洲会体操クラブ/鹿屋体育大学大学院)がいたが、「小学生のころ(円馬のころ)から腰の伸びた旋回を目指し続けてきた」という市口の旋回の美しさは、杉野にも劣っていなかった。 しかし、なかなか結果には結びつかず、大学3年の全日本インカレ前には、「インカレで勝てなかったから辞めよう」とも考えていたという。そう思うくらい、当時の市口は、自分に自信がなかった。「体操を続けている意味はあるのかな」そんな思いにもとらわれることがあったという。
 そんな思いで望んだ全日本インカレで、ついに市口は種目別あん馬で優勝する。得点は15.100。2位の選手には0.5の差をつけての圧勝だった。
 2020年。大学4年生になり、最後の1年をやり切ろう! と思った矢先に、新型コロナにより春先の大会はすべて延期になった。このときも、市口は引退を考えたという。しかし、そこで村田憲亮監督から、「お前のあん馬なら世界を目指せる」と言われ、踏みとどまった。延期になった全日本種目別選手権で優勝すれば、2021年の世界選手権への道が拓ける可能性があったからだ。

 その時点では、全日本種目別選手権が本当に開催されるかは、わからなかった。コロナ次第では延期のうえ最終的には中止になる可能性もあった。
 が、市口はそこに懸けたのだ。そして、2020年12月13日、無事開催された全日本種目別選手権で彼は本当にチャンピオンになった。得点は15.233。D得点は6.4でトップではなかったが、この高いD得点でもEが8.833と抜群に高い。「移動しているときの体線の美しさ。技の後処理まで体と脚が伸びているところが、僕のあん馬の強み」という市口の真骨頂が発揮できた演技だった。
 正直、この優勝まで、市口は「世界を目指せる」という村田監督の言葉にも半信半疑だった。それでも、「最後に親にいい演技見せて終わりたい」という気持ちが強く、種目別選手権までは頑張ってきたという。しかし、いざ全日本の金メダルを得たときに、「本当に世界で勝負できるかも」という自信が芽生えた。そして、2021年の全日本種目別選手権を目指す決意をしたのだ。

 2021年6月6日。東京五輪日本代表の最終予選となった全日本種目別選手権で、市口は優勝する。D得点6.6、E得点は驚異の9.166! 15.766は、まさに世界大会でも優勝争いのできる高得点だった。
 「このときの演技は、自分でもよかったかな、と思う。今までは試合では緊張で体が固まりがちだったが、このときは親も見にきてくれていたので、恩返しできる演技をしたいとだけ思って、楽しんで演技しよう、緊張も楽しもうと思えた。」
 6月に市口は、世界選手権に向けての思いをこう語っていた。「全日本種目別でできたあの演技ができれば、世界でもメダルがとれる、という自信はある。世界選手権という舞台では緊張すると思うが、自分は、もう全日本種目別決勝で重荷は下ろせたので楽しめると思う。親にも種目別優勝で十分喜んでもらえたので。」 そして、「まあ、出られるかわからないんですけどね」と、笑顔でつけ加えた。
 市口に、体操の魅力とはなにか? と聞いてみた。「あん馬に関しては、少しずつ完成に近づいていく感じがいい。新しい技を入れて、はじめは通せないのがだんだん通せるようになっていく、そこがいいんです。」
 世界選手権に出られても、出られずに終わったとしても、体操で何を得ることができたと思うか、と聞くと、「時間はかかりましたが、あきらめずにやり続ければ、達成できる。ということです。」 という明快な答えが返ってきた。

 「世界選手権出場」を目指して、最後の努力を重ねた日々があった分、悔しい思いも残念な思いもあるとは思う。それでも、彼が見せてくれたあの美しい旋回は、多くの体操ファンの記憶に残るに違いない。
 団体銀、個人金、種目別でもメダルを獲得した日本の体操男子チームは、本当に素晴らしかった。が、彼らのあの強さは、五輪という舞台には上がれなくても、彼らを常に脅かし続けている、日本の多くの体操選手達によって育まれていることを多くの人に知ってもらえたらと思う。
 市口大和選手も、その一人だった。
※Yahoo!ニュース個人 2021年8月5日公開記事

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