「名取伝説」の始まり
古びた体育館の4分の1面。
それが彼らに与えられたスペース。
隣では、バレー部やバトミントン部が大きな声を出しながら練習している。ときにはボールも飛び込んでくる。
スプリングマットはもちろんない。
タンブリングを練習するのは、1本のタンブリング板の上のみ。
団体メンバーは1人ずつ(必要に応じては2人で)、その板の上で、自分のパートの通しをやっていた。
彼らは、今年のインターハイに出場する名取高校新体操部だ。
団体での出場はじつに11年ぶりのことだという。
団体でのインターハイ出場から遠ざかって久しかった名取高校を、今年インターハイの舞台に押し上げたのが、この春、名取高校に赴任した本多和宏監督だ。
現役時代も、「異端の新体操選手」として知る人ぞ知る存在だったという本多は、宮城県で教職についてから、選手育成に手腕を発揮してきた。はじめは野呂和希(現・盛岡市立高校監督)の後継となった白石東中学校で、そして、その後、聖和学園高校で、彼は創部2年目のチームを「選抜準優勝」に導くというミラクルを起こしている。
聖和学園を離れてからは、新体操部のない公立中学でバトミントン部顧問を務めながら、白石のキューブ新体操で指導にあたり、昨年、話題沸騰だった「3つ子×2組団体」を育てている。
その本多が、ついに、新体操部のある高校=名取高校に赴任というニュースは、4月1日に異動が公布されるやいなや明るい話題として、新体操界に広まっていた。
これで、宮城県の新体操は活気づくだろうな、と期待はしていたが、さすがに4月に赴任して3か月足らずで迎える東北大会で団体3位以内に入ってインターハイに駒を進めることは、まだ難しいだろう。そう言う声も多かった。
なにしろ東北には、青森山田、盛岡市立の2校がある。
実質、3位を狙うしかないが、そこにも会津工業がいる。会津工業も決して弱いチームではない。そこに食い込むことはかなり困難ではないかと思われた。
しかし、結果的には、0.025差で名取高校は会津工業を下し、インターハイ出場を決めた。会津工業のミスにも救われた面もあるとはいえ、それでも、自分達の最善を尽くしたからこそついてきた結果には違いなかった。
「創部2年目で全国2位」を成し遂げた指揮官は、「赴任3か月でインターハイ出場」も、成し遂げてしまったのだ。
いったいどんなマジックを使ったのか?
と思うが、そこにはなんの種も仕掛けもない。
ただ、「そこにあるもので工夫して戦った」だけなのだ。
そして、もちろん。
本多の指導は厳しい。
新体操に対する美意識の高さには定評があるだけに、たとえ相手が高校始めの選手であっても、本多は容赦しない。
すぐにできないことはわかっている。
彼らは、本多の要求にすぐに応えられるような訓練をしてきていない。
筋力も柔軟性もセンスも。すぐに「打てば響く」ようにならないことは仕方のないことだ、とは本多だってわかっているはずだ。
選手たちは、彼らなりに、「宮城県伝説の指導者」である本多に指導を受けられていることにやりがいも感じているのはわかるし、必死についていこうとしていることもわかる。
ただ、思うようにはできないことが多いだけなのだ。
だから、本多は「容赦しない」つまり、「あきらめない」のだ。
言い続けていれば、彼らなりに変化していくはずだということを信じているのだ。
タンブリング板での練習をひととおり終えると、タンブリング板をばらし、フロアマット敷きが始まった。しかし、それも男子新体操用としては薄すぎるぺらぺらのスポンジマットを下敷きにして、上にフロアマットを敷いただけのものだ。ここでは、タンブリングはできない。
だから、タンブリングは板の上で練習しておき、フロアを敷いてからは、動きの練習をする。そういう方法でしか、彼らは練習できないのだ。
「でも、聖和のときよりはかなり恵まれてます。」
さらりと本多は言う。
「あのころは、外で練習することも多かったから。」
外で練習していても、全国2位になった。
だったら、屋根のある体育館で練習できるこの環境なら、日本一だって目指せるはず。おそらく彼は本気でそう思っている。
フロアマットで、彼らが練習を始めたのを見て、驚いた。
それぞれの動きをばらして見たときに比べて、ずい分、よく見えるのだ。
細かいことを言うならば、もちろん、粗はある。
それでも、「いい演技」に見える。
そのくらいには、彼らは動けるし、やれていた。
そして、作品にやはり力がある。
だから、選手達の能力が100%以上に引き出せるのだ。
聞けば、この作品は、曲こそは変えているが、聖和学園が選抜で2位になったときの作品をほぼ踏襲しているのだと言う。
あのときも、戦力が充実していたわけではなかった。
練習環境にも恵まれていなかった。
それでもやれるものを! それでも上を目指せるものを!
と考え抜いて作り上げた作品だけに、今の名取高校チームにも、力を与えられる作品になると、本多は考えたようだ。
それに、「今のチームに合わせた構成を考えている時間はなかった」という事情もある。
この日も、4時に練習が始まったが、7時20分には定時制の授業が始まるため、体育館から出なければならない。授業が7時間目まである日は、練習の始まりがもっと遅くなる。それでも終わりは7時20分。
この限られた時間の中で、どうやっていくのがもっとも効率よいのか、それはまだ「手さぐりで試行錯誤中」なのだという。
私が名取高校を訪ねた7月11日、本多がこの学校に赴任してから3か月半が経とうとしていた。
環境のことも、選手たちの能力や練習ぶりに対しても、思い通りにはいかないことが多いことも、本多は十分にわかっていた時期だろう。
だが、とにかく彼はあきらめない。
「なんとかできる方法」を考える。
そういう指導者だということは、よくわかった。
本多和宏は、現役の最後は国士舘大学の個人選手だったが、高校は会津工業。もとは福島県の出身だ。
男子新体操にとっては「会津」は、すこし独特な地のような気が私はしているが、今年になって、大河ドラマ「八重の桜」を熱心に見るようになって、なんとなくその「独特さ」の源がわかるような気がしてきた。
彼らは、人と違うことを恐れない。
武士の時代なら、「会津らしさ」を尊び、それを守るためには命も投げ出した土地柄だ。
今の時代なら、それがおそらく「自分らしさ」なのだろう。
本多が「異端の新体操選手」だったゆえんもおそらくそこにある。
人と違うことをおそれず、自分の信じた道を進んでいるならば、「あきらめる」必要もない。「言い訳する」必要もない。
老人と子どもしかいない、と言われた鶴ケ城でスペンサー銃をかついで戦った八重のように。
今ある戦力で、最大限の知恵をしぼって戦うまで、なんだろう。
会津の血なのか、本多和宏のパーソナリティーなのかはわからないが、そんな指導者が、高校指導の現場に戻ってきたことで、これからの男子新体操が面白くなることは間違いない。
今年のインターハイは、宮城県の男子新体操の新しい時代の幕開けにきっとなる。
いや、それは宮城県に限らない。
今、現在、「上を目指せる環境ではない」と思っている学校、チーム、選手たちにとっても、きっと希望になるチームが、今、誕生し、これから育っていくのだ。
彼らの全国デビュー戦は、2013年8月4日。
試技順は、17番だ。
<「新体操研究所」Back Numberより>2013年7月14日
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