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ゴスペラーズ『八月の鯨』から着想した掌編


「もう8月なの、早っ」
同僚が職場のカレンダーを一枚剥がしながらつぶやいた。

歳を取るごとに1年が早く感じるのは、心理学的に何かの法則があるんだと聞いた。
確かに、だんだん1年が早く経っていくように思える。
脳内のキャパには限界がある。どんどん新しいことを詰め込んでいけば、体感の「1年」も短くなっていくんだろう。

それでも消せない記憶があり、毎年この時期になると、ある思い出が僕の頭を占領する。

優しかったあの人のこと。
良いところなんてまるで見当たらない僕のことを、それでも愛してくれた人。
あんな人、他のどこにもいなかった。
けれど愛されていたから、慢心していた。
どんな我儘をぶつけても、或いは愛を伝えなくても、僕の側にいる限り、それは許されているのだと思っていた。
いつでも優しく微笑んでいたから。
優しすぎて、きっと言いたいことも抑え込んでいたんだと思う。
抑えきれなかったぶん、あの人から零れたのは、涙だった。
…それを見て気付いたその時には、もう遅かった。
何もかも許される、なんて、そんな筈がないのに。

僕だって、あの頃から変わったこともある。
余裕があれば、帰りは一駅手前で降りて歩く。心身共に余裕がある時に限って。
週に何度か自炊する。…こともある。
紙巻き煙草から電子煙草に切り替えた。
煙草そのものをやめられないのは変われなかった。
変われないことのほうが、正直多い。

真夜中。
にもかかわらず、じっとりと暑くて目が覚めてしまった。
「あの日」も、こんな湿気を纏った暑さだった。
思わずベランダに出る。
僕が「あの日」に僕を引き戻す。
電子煙草を吸い込んでも、僕の頭の中にありありと浮かぶあの日の記憶。
涙を零したあの人と、紙巻き煙草に火を点けられないまま黙り込んだ僕。
あのとき、なんて言えばよかったんだろう。
どうしたらよかったんだろう。
考えたところで、もうどうしようもないのに。

あの人に見放されたのであろうその後も、僕は悪足掻きをした。
それがますます墓穴を掘った。
もう何をしても最悪な結果にしかならないのではないか。
それならいっそのこと何もしないで、忘れたふりでもするか。
そう思って友人と気晴らしをしても、心の中にはゲリラ雷雨の前のような暗雲が立ち込めていた。

あれから、色のない季節を徒らにやり過ごすだけ。
いっそ、深い深い海の底に沈んでしまいたい。
ごめんもありがとうも愛してるも伝えられない僕ができることなんて、海の底に棲む魚の餌になるくらいだろう。

こんな想いも、なんとかって法則が正しければ、いつか次第に薄れてゆくのだろうか。

なんて。

いまの僕は、夜の闇にも溶けきれないまま、ただこうして不毛な後悔に沈むことしかできない。

あの人は、僕が苦悩していると人伝てに聞いて「いい気味」と思っているだろうか。
あの人は、あの人の友人達と僕の悪口でも言っているのだろうか。
あの人は…

…と、無意識のうちにあの人を責め、自分を正当化しようとしていた。
そんな自分がほとほと嫌になる。
そんなだから嫌われるんだろう。見放されるんだろう。

もはや僕のことなんて、頭の中からすっかり消去してしまったかもしれないな。

今もまだ、こんなに好きなのに。

なんて伝えたとしても、もうあの人が笑うことは決してない。

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ゴスペラーズ
八月の鯨

8月4日といえば、というわけで、これを抑えておかないわけにはいかなかった。
歌詞の内容になるべく忠実に、と思いながらもなかなかうまくいかない…。終わりかたもなんだか切れ味がよろしくない。バッドエンドだから仕方ないってことにするか。
兎にも角にも、物語の主人公にはなんとなく煙草を持たせたかった。(あ、念の為言っておきますがフィクションです)
ところで「八月の鯨」って同名の映画があるそうなんだけれど恥ずかしながら観たことがなくて…どうしてこのタイトルを曲名に付けたんだろうな。
それとこの曲、確かMVがあるはずだけどApple Musicにはなかった…。

ひとまずこんな感じで御勘弁を。

ちなみに文中の法則は「ジャネの法則」っていうらしいですよ。
1年が早く経つように感じる、といえばマッキーのカヴァーの「うん」もあるね。あれも良い曲。

「良い曲」で終わらせないでちゃんと貼りますね。

そういえば今度浪漫飛行しかないトリビュートアルバムが出るんだった。同じ曲でも人によって解釈が変わるって面白いね。

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