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ゆるす必要はない、あなたを愛しているから

数あるダスカロスのエピソードのなかで、意外に感じてしまったものがあります。今日はそのなかの一つをご紹介します。

 キプロスで、ダスカロスの近所に無愛想な夫婦が暮らしていた。彼らはいつも他人を責めては問題を起こしていた。彼らは貧乏で、時には食料を買うお金さえ必要だった。ダスカロスはそのことを知り、匿名で封筒にお金を入れて、その家の正面玄関のドアの下に差し入れていた。ある時、彼らは誰かが自分たちに盗みを働いていると言いはじめ、それがダスカロスだと非難した。警察が呼ばれ、ダスカロスの家に夫婦と警官がやって来た。ダスカロスは盗んでいなかっただけでなく、夫婦が飢えているときにドアの下にお金を入れていたのは自分だということを説明し、それがいつだったかも伝えた。これは彼らにとって大きなショックだったようで、彼らは警官とともに帰っていった。彼らはその後、自分たちの訴えがダスカロスを傷つけたことに罪悪感を抱き、彼を訪ねてきた。ダスカロスが言うには、彼は自分のエゴイズムをとっくに抹殺してしまったので、実際は傷ついていなかったのだ。
 それでも彼らはダスカロスの前に膝をついて、「私たちをゆるしてください」と言った。
 「その必要はないよ」とダスカロスは答えた。「あなたたちを愛しているから」
 彼らは、「私たちもあなたを愛しています」と答えた。
 「あなたたちを愛しているが」とダスカロスは再び続け、「でも、もう今後、私たちは関わりを持つことがないようにしよう」と言った。

「私たちは関わりを持つことがないようにしよう」という言葉を聞いたときは、ふと、なんとなく寂しいような物悲しいような感情が生じました。私のその時の感覚では、人間的な「情」が感じられず、ダスカロスような愛情深い人がなぜこのような言葉を発したのだろう、と疑問に思いました。

ただその前の「愛しているから、ゆるす必要がない」という一節の言葉に込められた意味を深く味わってみると、確かにそうかも、いや、むしろこちらのほうが真実をよく言い表しているのではないかと思えてきました。

この話はこう続きます。

 ダスカロスがこの話を語ったとき、彼にはこのような関係を断つ権利があると続けて言った。キリストも自分の教えでそのように伝えている。ダスカロスは言い足した。「そのような人々を忘れてもいいが、悪い感情を持ってはいけない。彼らを忘れることは良いことなのだ。彼らを愛していれば、ゆるしの必要はなくなる」。これが慈悲(憐れみ)である。キリストは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイによる福音書9-13)と言った。慈悲とは愛を意味する。自分のエゴイズムを殺すと、相手が自分のゆるしを乞わなくてもいいと感じる。それは、彼らが許してほしいと思っていてもなのだ。もちろん、相手のためを思って、あなたをゆるすということは伝えるが、もしゆるしを求めにくるべきだとあなたが相手に感じたのであれば、それは慈悲でも愛でもない。

―ダニエル・ジョセフ著『クジラと泳ぐ』より

忘却は慈悲である。

自分の過去生を思い出せないということは、神からの慈悲なのだよ、とダスカロスはどこかで言っていました。あまりに辛い記憶がその人の今生でつまづきとならないように、注意深く目のつかないところに隠されている。それは人生という旅を続ける子に注ぐ親の愛なのだ、と。

愛しているから、忘れていい。

家族のなか、社会のなか、職場でも、国でも、隣人と触れない世界はありません。このエピソードのように、困窮しているご近所さんに対してこっそり封筒にお金を入れて援助の手を差し伸べたもにもかかわらず逆に訴えられてしまった、といった話は、国家間のレベルでも耳にしたり目にしたりすることがあります。

互いに主張を譲らなければ平行線をたどることになります。また、無理解から憎しみの感情をもったところで、時に周囲の人々を巻き込み破滅をもたらす争いに発展したりします。

だから、そうならないように、互いに忘れる。
忘れて、一切、関わらない。

愛をもって忘却・離反するなら、しばらく時間が経ったときに、だんだんと隣人である相手の良さがわかってくることがあります。もちろん忘れるからといって、意固地になって永遠の別れなんだと決め込む必要はないのだと思います。むしろ互いに近づきすぎて、理解できなかったことでも、一切合切忘れてしまうくらい遠く離れたところではじめて、大切な何かが見える。

人間って、めんどくさいけれど、そういう愛の生き物なのかな…
と、そんな風に思います。

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