映画『徒桜』 感想

こんにちは。れすです。
テアトル新宿に足を運んでから、気が付けば一月が過ぎていました。ネタバレも憚れるような空気を感じていたため、なかなか感想を書けていなかったのですが、Twitterで仲良くさせて頂いている方々の観賞報告に触発されたので感想文を書きます(本ブログは特段ネタバレに配慮しません。未鑑賞の方はまずはチケット購入のボタンを押しましょう。映画を鑑賞済みの前提での感想文なので、見ていないと文意を取れない箇所が多々あると思います)。

ぼくはTrySailさんのオタクをやっている身の上なので「麻倉ももさんがご出演されるらしいし、牧のうどんの可愛い店員さん観に行こ〜」という軽い気持ちで観賞しました。しかし、中盤以降の急転直下な展開に頭をガツンと殴られ、退場時にはすごいものを背負わされてしまったと重たい足取りだったと思います。「考えさせられる内容だった」で感想を終えてしまうのももったいない作品であることは間違いないので、ぼくが考え、感じたことをいくつかのトピックに分けて言語化しておこうと思います。

Story

ある日、真理は明に連れられて明の友人たちと花見をすることになる。
そして、満開の桜の木の下、真理は一平と出会う。

一平、真理、浩太、明の4人は高校最後の夏休みを過ごしていた。
桜の木の下での出会いから真理は一平に恋心をいだいており、この夏休みで告白することを決意する。
そして、浩太も心を寄せている人と数年ぶりに偶然再会したのだった。

そして、夏休みの最後、4人は来年の春にまた花見をしようと約束をする。

高校生たちの恋愛、部活、受験。
彼らのなんでもない日常をたった一つの波紋がすべてを変えてしまう…

徒桜オフィシャルサイトより引用)
畑中晋太郎, 徒桜, 配給:SAB-on, 2021.

徒桜では、大きく2つの恋模様が展開されます。
1つ目が物語の主軸となる、一平と明(めい)という幼馴染の二人に桜の下で出会った真理を加えた三角関係。もう一つが浩太が密かに恋心を寄せるアサミさんとの物語。観賞後に大きな衝撃を受けるのは、一平と明・真理の物語でしょう。一平に好意を寄せながらも腐れ縁ともいえる幼馴染という関係からごまかしてしまう明と、それを横目に一平と付き合うことになる真理。真理と付き合っているはずの一平は記憶が混濁し、明を彼女と間違えるようになる、といったストーリーです。

一平の記憶の混濁はどこからどこまでなのか

鑑賞後に一番最初に浮かんだ疑問がこれです。振り返ってみれば、一平の病の原因は冒頭のバク宙で頭を打ったことでしょう。何気ない高校生活のおふざけが今回の事件を引き起こしたと考えると背筋の凍るものがあります。

記憶の混濁が見られることに最初に違和感を覚えたシーンは、花火のシーンです。ぼーっとしていたという一言で片付けられてしまいましたが、この時点で一平の様子がおかしくなる兆候が現れていました。明確に記憶の混濁がみられるようになったのは、カフェのシーンです。付き合っているはずの真理ではなく、明に対して付き合っていると発言し、その場にいた真理、浩太、明の3人も同じ認識に至りました。

この二つのシーンは物語を転換させる重要なシーンです。プロットとしては、花火でどこか様子がおかしい一平を描いた直後に、一平が真理に告白するシーンが置かれています。ここで気になるのは「一平は告白をした相手を正しく真理(明ではなく)だと認識していたのか」です。冒頭の出会いがなければ、一平は明に告白していたはずです。一平の想いは明に向いていたが、認識が混濁し真理に告白したのではないかと疑問を持ちました。

一方でラストシーンでは一平は真理の名前を告げて、ありがとうを伝えています。カフェのシーンまで症状が出ていないのであれば、真理を真理と認識して付き合っていたとも考えられます。

ぼくが観賞した11/2の上映後には、高畑監督らによるクロストークが開催されました。その中で高畑監督が「作るのならば、正解のない脚本が好き」という趣旨の発言をされていました。この言葉を受けて、本当のところはぼくら自身が考えなければならないものなのかもしれないと思いました。もっと言えばこの曖昧さこそが徒桜が表現したい主題の一つであり、明確な答えは存在せず、考えること自体に意味があるのではないかと考えています。

浩太の物語の位置づけ

一平と明・真理の物語があまりに衝撃的で、凄まじい重さを持っていたため、浩太の物語の位置づけも気になったポイントでした。極端な話をすれば浩太が不在でも作品としては成立していたように思えました。

浩太側のストーリーを書き出すと
・浩太はブライダルの専門学校にいくか、大学は出ておくかの進路に悩んでいた
・アサミさんからは「未来のために今を我慢するのではなく、その日を摘め(カルペディエム)」というアドバイスをもらう(ないし、人生はタイミングという趣旨の忠告)
・アサミさんに最後に会えた「急ぎ?」という問いに「後でも大丈夫」という旨の返信をし、結果としてプレゼントを渡すことができなかった
・クリスマスプレゼントという言い訳で渡そうとするもアサミさんが亡くなっていることを聞かされる

一平と明・真理の物語のクライマックスに向けて今の大切さを浩太側で描いておくことで、「未来のために自殺」することを考えなしに否定できなくする役割があったのではないかと考えているのですが、いまいちしっくりきていないのでぜひ他の方の意見も聞いてみたい点です。(ぼくは登場人物がその世界に確かに生きていることを感じさせてくれる表現が大好きなので、上述の役割のためだけのために登場させたのであれば登場人物を便利に使いすぎているなと感じる)

ぼくが考えたこと

最後にぼく個人の「考えさせられる内容だった」を書いておこうと思います。問題のラストシーンで、ぼくは確かに「お願いだからナースコールのボタンを押してくれ」と強く祈りました。それと同時に押さない選択は真理と一平の二人にしかわからないのだとも思っていました。

そして映画館からの帰り道に頭を整理し、ぼくが「押してほしい」と願った気持ちは、それが社会的な「正解」であることに起因していることに気づきました。ナースコールを押さず、一平が旅立ってしまえば「未来の」自分が後悔する、その死を背負わないといけない、誰かに責められる、そういった理性からの祈りでした。もう大人になってしまったぼくは押さない選択ができないのです。クロストークで高畑監督が仰った「福岡に住む女子高生の女の子のまっすぐさがあって成立する話」だというのはまさに言い得て妙だなと思いました。

他作品の話になってしまうのですが、映画『天気の子』/新海誠を見たときにぼくは線路を走る帆高くんを応援することができませんでした。何なら小栗旬さん演じる須賀さんの「大人になれよ、少年」の言にこそ共感していました。鑑賞後に友人と感想戦をしていたところ「須賀さんはかっこ悪かった。子どもだけが知る真実を、それを知らなくとも応援できる大人になりたい」ということを言われ、ひどく恥ずかしくなったことを覚えています。そしてそれは喉に刺さった魚の骨のように、この2年頭の片隅に住み続けている言葉です。

一平と真理のラストシーンを見たときに、須賀さんの「大人になったら優先順位を変えられなくなるんだよ」という言葉を思い出していました。きっと真理はあの時、順位を変えられたのです。でもぼくはそれを肯定できなかった。子どもだけが信じるものとその選択を応援できる大人になりたいと思っているのに、できなかった。大人になるってかなしいね。

これがぼくが「考えさせられる内容だった」です。おわり。

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