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万津人0010:中尾大樹

現在の活動について

万津では2019年に、一般社団法人REPORT SASEBO(リポートサセボ)という、いわゆる非営利の、まちづくりのための法人を立ててるんですけど、基本的にはその活動がメインですね。僕が万津でやってることっていうのは、全部その活動の一環ですよ、と。

ひとつは、7年前位からやっている、このカフェ。〈RE PORT(リポート)〉という名前のお店で。佐世保をどうリポートしていくかとか、港を、どう「Re」していくかみたいなことを思って立ち上げました。

それと、昨年〈RE SORT(リゾート)〉というサウナがあるホテルを、同じエリア、万津の中の、古いマンションをリノベーションして作って。3部屋だけで、マンションには別の住民もいる、みたいな。同じコンセプトの中で、カフェとホテルが、わかりやすい事業としてふたつあります。

それと、〈万津6区(よろづろっく)〉という任意団体があるんですけど、そこの立ち上げに関わっていて、事務的なお世話とか、地元の調整とかを。今動いていることだと、「佐世保朝市」をリブートさせることだったり、自治会が所有している「万津町公会堂」をどう開いていくか、みたいなことだったり……。

自治会の運営ともタッチしてるのが、うちのまちづくりの特徴かな、と。地元の人たちが、なんでも受け入れてくれる面白い人たちなので、その人たちの困り事、自治会の人あるいは住民としての課題みたいなものを解決しながら、商売人の集まってる街でもあるので、そことどう結びつけていくか。まあ、僕たちが面白がりながらも、社会にポジティブな変化を生めるようなことができるかってことをやっているのが、万津町での主な活動になります。

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市職員としてとらえる、万津町での活動

市の仕事ってすごく広いので、「ゆりかごから墓場まで」というか、人が生まれてから死ぬまで、何かしらの部署と何かしらの関わりがあると思ってるんですね。まあ、戸籍なんかだって、最初から最後までログが残されるわけですし。そういう意味では、民間の、いわゆる営利的な活動も含めて、人々の生活というか、その全部に関わっていると言えるのかな、と思うんですが。

自分は、今まで戸籍住民課っていう、その、住民票出したりとか、戸籍を管理したりとかっていう窓口に6年いて。で、その後、企画部門、政策経営課っていうとこにいて、そこは「なんでも屋」みたいなお仕事なので、ま、市長が「これやって」って言った時に、どこの課でもやってくれないようなやつを、とりあえず拾いに行く、みたいな、いろんなことをやってた仕事があり。今は文化国際課っていうとこにいるんですが、そこでいくと、がっつりこの万津の活動とか、REPORTの活動と一致してるっていうのは、ほぼ無いですね。

でも、万津の活動って、このちっちゃいエリアの中で、大きい意味での「市役所」的ないろんなことが起きてると思うんですね。朝市の問題だと、観光課さんも関係してるかもしれないし、朝市の経営的な話であれば、えーっと何だっけ、商工労働課。いや、部署の名前がよく変わるんですよ(笑)。住民の自治だったりとか、町内会の運営とか、回覧板を配るとか、そういう仕事はコミュニティの部署だし。

そういうところが、なんかこの、ちっちゃいエリアの中で一気通貫してるところが、面白いなって思ってたりすることのひとつですね。うん、「万津の中で全部できる」みたいなところが、面白いって思ってるところかもしれないです。

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なんかつまんねえ街、だった佐世保

生まれはもう、全く(万津町と)関係なくて、こっから南に8キロぐらい行った大塔っていうエリアなんですね。あの辺りの、なんか変なとこなんですよ、家が。脇崎の交差点を国道から右に上っていく、坂道。あの坂道の途中に家があるんですよ。

いわゆるこの万津も含めた中心市街地っていうか、街中みたいなところは、たまに来たりはしてて。「『まち』に行く」っていうゾーンなんですね、大塔って。もっと離れると「『佐世保』に行く」って言うらしいんですけど、あの、佐世保市内にありながらも。まだ初売りが生きてた頃(※ 毎年1月2日に四ヶ町・三ヶ町商店街などで行われていた佐世保市の風物詩。多くの店が未明・早朝から営業を開始する)に青春時代を送ってたので、1月1日の夜からみんなで繰り出して、ギター買いに行ったりとか。晴れの場として、たまに行くみたいなのが『まち』でした。

本当の意味で暮らしてた場所っていうのが、大塔付近。学校も、黒髪小、大塔小、日宇中、南高って、全部徒歩で行けるぐらいのところなので、僕の中の佐世保っていうか、地元っていうと、あのロードサイド。国道がバーンってあって、どこにでもある店があって、みたいなのが、僕の中の佐世保。ただまあ、ちょっと山がちだなとか、学校が全部山の方にあるな、とかいうのはあったけど、ま、それも当たり前じゃないですか。自分にとっては、生まれてから18歳までそれしか見たことがないから、まあ「なんかつまんねえ街だな」と思ってた感じは覚えてます。

中学の頃に若干いじめられてた時期があって、で、そん時に心理学を勉強したおっさんと出会ったことがあったんですよ。たまたま。で、なんか大人とか社会とかに対しての、こう、不信感みたいなのがすごい強かった時に、すごいいろいろ話聞いてくれたんですよ。何時間か話し込んで、あ、なんかこんなに自分の話を、子供の話を聞いてくれる大人がいるんや、みたいなのに、当時、結構感銘を受けて、で、「どんな勉強してきたんですか、あなたみたいになりたい」みたいな話をしたら、「心理学やってたんだよ」っていうところから、なんか「俺、絶対心理学やるんだ」っていうのだけ決めて。担任の先生から、まあ、中尾くんはなんか学力的にとか、ノリ的にこの辺じゃない?みたいなのをいくつかあげてもらって、まあ、消去法で青学(青山学院大学)かな、みたいな。

東京での生活

やっぱこう、腐れた生活をしてましたね(笑)。親元離れて自由だし、で、当時は2年神奈川県、2年渋谷だったんですよ、キャンパスが。「あれ、牛臭いな」みたいなところの寮に住んでて。そこで集まった田舎者たちと、なんかひたすらゲームやってるみたいな、バンドやったり、ゲームやったり、お酒飲んだり。そういうただれた生活をまあずっとしていて。 気づけば、ああ、もう就職しなきゃ、みたいな。金髪だった人たち、仲間がみんなどんどん黒くなっていき、「ああ、どうしたもんかな」と思った時に、ちょっと1年引き延ばそうと思って、バイトして、もう1年ぐらいいようかなって思ったのと、まあ、公務員とかになれば、人様に顔が向けれるかな、というか。

建築とかデザインとか、なんかまあ、今でもちょっと追っかけてるかもしれないような領域のことって、やっぱり憧れもあって。なんですけど、生まれた時から東京生まれ、ヒップホップ育ちみたいな人たちとか、美術館・博物館にちっちゃいころから親しんでる人たちとか。僕、大学入ってすぐ金髪にしたんですけど、もうそんなのは彼ら終わってるんですよね、それこそ中学ぐらいの時に。なんかこう周回遅れの感じが自分の中ですごい嫌で。

で、もう今回の人生は一回諦めて、まあ今期はちょっと公務員とかになって、大人しく(笑)。東京もうはなんか肌に合わないなと思って、遊ぶにはいいけど、お金持ってないときつそうだし、満員電車とかね。絶対この街では生きていけないなって勝手に思って、で、もう九州に帰ろうって思って、九州の公務員試験受けるっていうのを1年遅れぐらいでやった、と。まあ、楽しくもあったけど、なんかすごいコンプレックスも同時に感じたし、っていうのが、東京の4年ちょっとでした。

帰郷して気づいた佐世保のまちの面白さ

九州に帰ると言っても、佐世保に帰ってくるつもりはなくて、親が勝手に願書出してた、みたいな感じだったんですよ。就職で帰ってきてからは、あんまり親とうまくいかないので、もうなんか、家から離れたいなと思って。別の家借りて住もうと思って、高校の先輩と白南風町に安いボロアパート、3Kで4万円、3万円だったか、みたいなところがあって、そこをシェアして借りたんですね。

そこに住んでからは、ご飯も作れないし、僕、家事とか全然ダメなんで、全部街中で晩御飯食べたりとかしてて、いろんなお店を知ったり、街の雰囲気とかを知ったりとかしていくにつれ、「あ、なんか割とこう、スペシャルな、他の街にはない風景がある街なのかな」って思ったり。仕事柄、出張で他の自治体とかに行ったりする中でも、同じ人口規模くらいの町でもこんなに違うんだ、というところとかは面白いなと思うようになりました。

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万津町との関わり

えっと、お店を始めるにあたって、港というワード、〈RE PORT〉っていう名前はもう決まってたんですよ。なんかこう、いろんな人と会ったり、話を聞くにつけ、昔はもっと面白かった、特に60年代とか面白かったぞ、みたいな話は、いろんな人が言うんですよね。だから実際、面白かったんだろうな、と。戦後アメリカも入ってきたりとか、いろんなカルチャーがミックスされて、多分その時代面白かったんだろうな、と。

でも、それって現在でも、ポテンシャルとか、素材としては、地勢的にも同じだし、街並みとか人の気質とかは、基本的に同じはずなのに、今ももっと面白くなるはずなんやないかな、っていうのがあって。それをもう1回復活させようとか、まあ、その復活させる様をログを残してリポートできたらいいなみたいなことで、リポートって名前で、2008年頃から自主的にイベントをやってたんですけど。で、イベントができるようなお店を、ってことで、決めたからにはやっぱ港の近くというか、やっぱ佐世保を象徴できるような場所でやりたいなって時に、いろんな場所を探し回る中で、イメージに合う、ここを見つけた。

その後、〈万津6区〉的な展開したきっかけは、この地域にお店を出した人たちが、同じようなタイミングで増えたんですよね。 だから、同期っぽいお店が多いんですよ、〈させぼ五番街〉ができた、ちょっと後ぐらいにできたお店っていうのがすごく多くて。

で、準備してる時から、お互い応援するみたいな。ちょっとしたカルチャーというか、助け合いみたいなのがあって。で、えっと、そうだ、熊本で震災があった時に、嫁が熊本出身っていうのもあって、なんかやりたいって嫁が言い出して、じゃあやろうぜっつって、チャリティ的な。売上を熊本に寄付するみたいなことで、「万津マーケット」っていうのをやったんです。〈RE PORT〉にいろんな店舗に集まってもらって。それをやった時に、楽しいな、みたいなのがあったのが、ひとつ、きっかけかもしれないです。

万津町での印象深い思い出

印象深い思い出……。なんかこう、辛いことも結構あって、今でも噛みしめるほどの「めっちゃよかった!」みたいなことは、実はあんまりないかもしれなくて……。でも、餅つきをみんなでイベントの時にしたのとかは、結構楽しかったですね。自治会の方も一緒に関わってくれて。辛かったけど、面白かったというか、他にないことをできてるなって思ったかもしんないです。

商業者がイケてるイベントをやって、なんかイケてる人たちが集まりました、みたいなことは多分世の中たくさんあると思うんですけど、自治会で元々餅つきっていうのを行事としてやってたんだけどなかなかできなくなってきてて、それをこっちで預かって、商業的なイベントの中に組み込んで、自治会の人たちも呼んでやった、みたいなのは、ちょっと面白かったかもしれない。

結構万津町って、割と住んでる外国人も多かったりとか、働きに来てる海外の人とかも多かったりするんですけど、そういう人たちも招き入れるっていうカルチャーが元々自治会にあって、そういう人たちも参加してくれて。老いも若きも、アメリカ人も、ベトナム人も、フィリピーナもおじいちゃんも若い子も女の子もなんか餅ついてる、みたいなのは「あ、いい風景だな」って思いました。それが今まであった中では、1番印象深いことかもしれません。

自分が住みたいと思える街とか、エリアとか、仲間とかを、ただ作ってるだけなんですよ。帰ってきたくて戻ったわけでもないし、でも別にそこから能動的に外に出て、もう一回再チャレンジするほどのなんかもないし、やむにやまれず自分の居場所みたいなものをちょっとずつ作ってる感覚があって。なので、なんか理想の状況があって、そこに向かってるっていう感じでもないんですよ。ちょっとずつこう、居場所を拡大してる、みたいなだけで。

あ、もう一人こういう人がこのチームにいると、なんかもっと俺が生きやすくなりそうとか、楽しくなりそうとか、そういうことをしているだけ。割とリアクション芸なところがあって、降ってきたものを、どうせやんなきゃいけないなら、ちょっとでもいい方にしたいなとか、別案件で降ってきたのを一緒にやっちゃえば、なんか楽しそうとか、そういうのが好き、みたいなのはあるかもしれない。

何かと何かが結びつく時って、めっちゃ楽しくないですか。そういう意味では、なんかその「地元をどうにかしたい」みたいなことというよりは、結びついていくストーリーみたいなのが面白いっていうのを、客観的に、外から見てる、みたいな感覚の方が強い。そして、単純に自分が何か動いた時に、そこに付随して何かが生まれてくる。その新しいコミュニケーションだったりとか、人との出会いとかが、多分、心情的に好きなタイプだと思うんですね。

で、それがたまたま住んでる、たまたま帰ってこなきゃいけなくなったまちと、偶然にも何かが繋がっていくみたいな。僕の人生と、この佐世保が、なんかリンクしていってる気がする、というのが、面白いって思うんですよね。


取材・文:岡本 一成(長崎県立大学)
写真:永田 崚(tajuramozoph)
編集:はしもとゆうき(kumam)


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