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理感一致 caption3

必ず私とは逢えなくなる。
遅いか早いかの違いだけで今までの自分はそこにはいない

何かを練習している時、出来なかった事が
出来る様になった時は嬉しい。
でも私の場合は喜びの余韻に浸っているままでは
許される事はなかった。
ましてや、まだ自分の中で完璧と思えていないのにも
関わらず、次の新しい課題の手本を
圧倒的な技術力をもって目の前でお披露目される。
「凄い。」としか言い様がなく、でも
恐怖心から萎縮していまう様な緊張感とか
煽り立てられて焦らせられる様な事はなかった。
そう言った経験も必需性?必要性?として
どれだけ体験したか分からない程の理不尽な事もあったけれど、それよりは早く新しい課題の練習がしたくてたまらない流行る気持ちにかりたれらてしまう感情の方が先立つ感じだった。でもそれと同時に並行して
今、出来る様になったばかりの課題を手解きを受けた事以外での部分に対して何故、出来る様になったのかを
具体的にしなさい。と言う課題もこなさなければならなかった。勿論、ペース配分は自分で決めるしかない。
中には新しい課題が与えてられた事の嬉しさのあまり
具体的にするる事の課題が頭の中からスッカリ抜け落ちてしまう人もいれば、頭の中では具体的する事の課題を
やらなくてはいけない事は分かっているけれど
新しい課題に早く着手したい気持ちの方が勝ってしまう為に結局は手をつけず終いになってしまった人もいた。

私自身は試験も試合も正直に言ってしまえば大嫌い。
でも、今の自分の現在地が分からなくなってしまうから
確認の為に仕方なく試験や試合をしているのである。

かならず私とは会えなくなる。

最近、「アドバイス」についての内容の話になった事があった。私は基本アドバイスはしない事にしている。
相手に聞かれてから初めて答えていい人かどうかを判断する様な感じである。
何故ならば下記の図の中の①に指図④にアドバイスと
言う言葉を入れて見ると見えてくる事があると思う。

私にとってアドバイスをするには構造による
機能が必要と考えているからに他ならないからである。

例えば
「感情が人を動かす」と言う言葉があるのだけれど
今、自分の目の前に居る人だけを一喜一憂させている人がいる。それはとても大事な事の一つだとも思っているのだけれど、如何せん何かちょっと違う気がする人もいて
目の前の人を憤慨させておいて自分だけ笑っていたり
本人にしか分からない誰かの受け売りの言葉だけや振り真似を横流しにした様にしか見受けられないものだったり
相手の笑い所をリサーチもせずに自分の価値観だけを
唐突にお披露目をし始めて相手に心外感や不快感を
与えてしまっている事に気づかずにいるといった具合の人を多々?…に出くわしてしまう。相手の感情をどうにかしようと躍起になっている様な感じである。

相手に対してのみ「仕方ない」or「しょうがない」or「所詮、そんなもん」と言う言葉を多用する人に対して
私は自分自身にか、基本その言葉を使う事はなく
相手にその言葉を発する事は不躾な事と考えていた様な
ニュアンスの違いといったらいいのだろうか。

どうしても両極間の2元論に、しなくてはならないのであるならば感動か絶望でしか人は動かせない。という感じに近く双方の間には振り幅があり感動させ切る事も絶望させきる事もそう簡単に出来る事ではないと考えていたから。
心身二元論は今現在の近代的文明であっても決着がついた事がない。と言う事を教わった時には妙にに腑に落ちてしまった。
表現方法をかえると…
「自制心が効く」状態と「自制心が効かない」状態が人にはあって、自制心が効いている状態の時の事を「理性」と
いい、自制心が効かない状態の時の事を「衝動」と言ったりする。だだし衝動の中には「暴君」という負の状態の
時も存在してしまうのは否めない。その暴君の中でも
言葉が暴れる人や身体が暴れる人は嫌だけれども
とても分かりやすいのに対して、まるで鬼滅の刃の童磨の様に一見、優しそうに振る舞いながら「絆す」「煽てる」
「皮肉」「媚びる」と言った様な型として暴君が現れてしまう現状が実在してしまう。本人は至って無意識からくる習慣性だから何も不思議に感じていない。
相手がどの位、熟知していて知識としてだけではなく
体現できるのかを確認もせずに自分の価値観だけで相手を決めつけて心配する様な真似やベンチマークする方も
私個人の中では暴君の一部と考えている。

話しを最初にもどすと…

結果、自制心で自分の感情を抑え込んでいるのも
自制心が、まるで効かない感情状態にある事も
どちらの発端も同じ自分自身の感情からくるものでしかなかった。というのが私自身の体験からくる結論だった。

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