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そんな暇はない・虚離

私の通っていた小中学校では複式学級と言うのがあった。
その当時の市内に養護施設がなかったからなのか、よく分からないけれど学校の中に1〜6年生までが一緒のクラスという知的障害児の
学びの教室が1クラスだけあった。
入学した時から、当たり前の様に知的障害の子が学校にいたので、雰囲気の違いは感じるものの、これといって何の疑問もなかった。
と、いうより知的障害と言う概念が無かった私には他の全校生徒となんら変わらない子としか思っていなかった。
小学校5年生になってからだった様に思う。
その時の担任の先生が複式学級の担任を受け持っていた事もあってなのか、主要5科目の授業は無理なんだけれど、音楽・体育・図工や道徳(私が小学生だった時には学校の時間割の中に道徳という時間があった。)と言った時間に、複式学級の同じ学年の子が一緒に授業を受けていたりした。
最初、担任の先生から複式学級の子が一緒に授業をするにあたって、1人の人として見てあげる事、難しいと感じてしまう事などの、
話しをして下さり、何かか困っている様子をみかけたら手を貸してあげて下さい。
もし複式学級の子が、他の人にやってはいけない事をしたのを見たら、皆んなにも叱っている様に先生も複式学級の子をキチンと叱ります。と言って受け入れが始まった様に思います。

私の母も、元看護師だった事もあってか、
訳も分からないまた、そんな事をしこたま教わったり、障害を抱えている人を見かけた時に後ろ指さす様な真似だけは、尋常とは思えないほど厳禁とされて育った。

前置きが少し長くなってしまったのだけれど、前回の自社のレクリエーションの一環としてワークショップを予約して下さった企業様とのワークショップも何とか無事に終了した後、しばらくしてから今度は障害福祉支援就労の企業様からの予約を頂いた。

その企業様では、知的障害者方が飲食店さんなどに布のお手拭き(おしぼり)を納品している企業様でした。
ぶきっちょさんは健常者の方にもいらっしゃるけれど、健常者の人にとって布おしぼりを畳む事を難しいと感じる事は殆どないと思うのですが、その福祉支援就労で働いているスタッフさん達にとって、布おしぼりを畳むという行為じたいを覚えるまでが大変な事で、角と角をキチンと合わせて綺麗に布おしぼりを畳むとなると、更に難易度が高くなってしまう程の方達が働いていらっしゃる所でした。
打ち合わせとしては、前回と同様に
ワークショップの前に福祉支援就労所の上長様のご挨拶を入れて欲しい事と、後はご家族の付き添いが1名のスタッフさんに付き1人つきます。という位で後は、何時ものやり方で
ワークショップを進めて下さい。と言うものでした。
最初は何時ものやり方はともかくとして、
私のしている、何時もの話し方の説明でいいのだろうか?と少し不安になっていた。
その時、私が所属していた企業様での、お客様の中には、普通に障害のあるお子様を持つご家族連れの方や、お腹に管が通っていて、シリンジから流動食を召し上がるお客様や
キンジストロフィーなど様な車椅子のお客様も普通にご来店されていたりしたので私にとっては何の違和感もない事でした。

福祉支援就労の方のワークショップ開催当日
いつも通り準備を整えて、お客様を待ちしていました。
お客様がバスで到着されて、お出迎えをすると、いくら私は見慣れているといっても、
20名様程の団体の障害がある方と、その付き添いの方のご家族を前に流石に怯んでしまいました。
でもそれはほんの一瞬の出来事で、ご参加下さった年齢も様々な知的障害者の方達はとても明るく、不十分な発音ながらも「こんにちは〜」や「おねがいします。」と私に声をかけて下さり、その何よりも笑顔の屈託のなさに私は、とても安堵してしまった。
福祉支援就労所の上長様の話しも終わり、
ワークショップが始まった。
最初に作業手順や道具の使い方などの説明を私からさせて頂いた後、いざ実習に入ると
イレギュラーどころの話しではなく、付き添いの方と2人1組で作業しているとはいえ、
5分として同じ場所に居られな子や、他の人と同じ様に出来ずに泣き出してしまう子、
お気に入りの洋服を着て来た事を見せに来てくれたり、他の事で遊びだしてしまったりと、テンヤワンヤとなってしまった。
でも付き添いの方の多大なお力添えに助けられながらワークショップは進んでいく。
でも何故か、このテンヤワンヤが心地いい。

でもそんな中、一般の健常者の方のワークショップの方にやりづらさを感じていた私がいた。
何故だろう…
付き添いの方からも、やれ高学歴だのエリートコースだの出世街道だの年収だのと言った事は微塵も感じない。
それはエリートさんを否定している訳ではなく、そんな暇はないと言う位に、親子さんが何か悪い事をした訳でもないけれど、
健常者に産んであげられなかった事を責めている自分を抱えてながらも、親よりも短い一生を終えてしまうかもしれないという事実や
自分が先に死んでしまったとしても、日常を自分の身の回りの事を自分で出来る様にしてあげる事が最大の親の役目としての強さの中に、ささやかでも出来る様になった事が増えた事に目尻を緩ませている付き添いの方の姿を横目に、知的障害者の方は自由奔放にワークショップを楽しんでいる。
それは健常者の方の身勝手さとは全く違い、
今、自分の中の感性を思う存分に発揮しているだけと言う位に屈託がない。
だからと言って問題がない訳ではない。
思春期特有の課題すらある。
でもこの屈託のなさに私の心は洗われてしまった。
そうか…この子達には駆け引きとか、腹の探り合いとか、鎌を掛けるとかがないない分
一般の健常者の方と違ってのやりづらさを感じない事に気がついた。

贅沢な悩み以前の事が
今、目の前で繰り広げられている。



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