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理感一致 caption6

この記事をもって最後の最後とさせて頂きたい。
もう、これ以上の心身の耐性力が
辛うじての残っている程度しかない。

例えば
ファンになりたい人は何人いてもいいはず。
作家さんに1人とかアーティストさんに3人とか
デザイナーで1人とか、どの分野の人のファンでいても
いいと思うのだけれど、この人のファンになりなさい。と
強制されたら誰しもが嫌悪感に陥ってしまうと思う。

お気に入りの人には何をどう言われても
受け入れられるのに
生理的に受け付けなくなってしまっている人からは
何をどう言われてもで腹立たしさしかないもので…
質疑応答の場では何事もなく無事に終了したのにも
関わらず会場から出た途端にに撫然が沸々と湧き起こる事がある。簡単に要約してしまうと
個人的な見解に対して質問をしているのに出典先や
引用のみ返答してしまう人。基礎概念の元になっているものを訪ねているのに個人的見解ばかりを述べてしまう人との隔たりによる撫然が起きてしまう。
更に表現方法を変えるとクローズクエスチョンをしているのに経緯を話し出す人だったりオープンクエスチョンを
しているのに出展元のみを返答するといった感じである。
話しをしている本人は抽象度を上げて話しているつもり
なのだけれど使用している言語は関係代名詞だったりする。ここで起こるすれ違いの殆どが何を前提に話しているのかという登壇者と質問者の間での趣旨の方向性の
再確認不足による事だったりする。
社内で良く見かける光景が
先輩や上司の方から何かを確認された時に
「だと思うんですけど」と返答するスタッフがいる。
この時に先輩や上司は「だと思うでは困る」としか
その場では言いようがない。何故ならば
もしその場で「だと思うと言う事は確認不足と言う事を
間接的に公言している事と同じ事であって仕事に対する
意識が不十分という事だよ。」と伝えてしまうと
「そんなつもりはありません!」と逆上してしまい
お互いの傷を悪化させてしまいかねないから
傷を最小限に食い止める為に「だと思うでは困る」としか
言いようがなくなってしまう現実がある。

日本ではゲップよりオナラの方が失礼と言う習慣性が
あるけれど外国でオナラよりゲップの方が失礼に値したりする。日本でも自分の言い分ばかりを捲し立てる様に話したり押し付けがましい様子だったとりと兎角、自分の事しか喋らない人に対して「もううんざりだ。いい加減にしてくれ。」と言う意味で「ゲップがでる。」と表現する事がある。

よく価値観の押し付けとか正義と正義のぶつかり合いが
争いの原因という言われ方をしているのだけれど
概念と言う言葉は良く聞くのだけれど観念という言葉は
死語となってしまっている昨今があると感じる。

参照①…観念に対しての4象限

参照②…トラブル対策相関図

参照②の図の①の所に観念と言う言葉を入れて
④の所に概念を入れみると見えてくるものが出てくる。

そうすると
固定観念と固定概念とでは見えない大きな隔たりが
出てくる。
別の表現方法に変えてみると
貞操観念と貞操概念とでは、気持ち的にも
とんでもない大きな隔たりが見えてしまってきてしまう。

でもしかし
観念の部分の最大のメリットはファンになりやすい部分である事に対して概念は普遍的なコア部分に当たる。
さらに別の表現をすると
外見、いわゆるビジュアルに引かれる人と概見に重要性を
感じている人とでは憧れる場所に違いが出てきてしまう。でもその違いを受け入れてあげる事が少しずつでも出来れる様になれば尊重に変わっていくのではないかと考えている今日この頃とこの年月。

だからこそ
性格の不一致というより
個人的にはデリカシーの不適合といっている。

※ここに記述した事は私的な個人的見解であり
自主的に行っている投稿であって
所属している組織とは何の関係も一切ありませんので
予めご了承ください。


「おやすみパトラッシュ…僕はもう疲れたよ。」
そしてネロとパトラッシュが、この世から去った後
風車からの出火は整備不良によるものが原因だったと判明した。

〜要〜
厚生労働省の管轄は必要最低限
支障をきたす事のない生活習慣性を送る事を
身に付ける所であり、カリキュラムを必要とする指導を
行わない保育機関。文部科学省の管轄は発達段階に応じて
コンテンツ毎にカリキュラムによる指導要項の元
技術力やリテラシーを含めたスキルアップの指導を
施して良い教育機関。公的機関や民営機関や私立などに
よって異なる。2022.2.15追記

〜追憶〜
有形資産と無形資産とが存在する。
アイデアなどの知的財産に値する無形資産に関して
すでに近代ではないのかもしれないけれど軽んじすぎていいるのが日本の特徴だと私は思っている。
私はよく、好きなものは譲らないでしょ。と聞かれるのだけれど「譲ります。」と私は答える。
誰しも横領は悪い事で犯罪になる事は
知っているからやらないけれど着服は大の大人が言葉すら思い出せない程になっているのではないかと多分に感じる事がある。着服する事に憧れている若者もいてしまう悲しい現実も然り。誰しも大事に思う人には喜んで欲しいと
思うのだけれど、喜んでもらいたい一心の余りの盲目から
着服がエスカレートしてしまいその結果、大事に思う人を1番辛い目に合わせてしまったり悲しませてしまったり手柄を独り占めしてしまったり誰かを蹴落としたりと言った横暴な自分になってしまっている事に気がつかないままの自分になりたくなかった。根気のない私からすれば組織の中で長く勤め続ける事はとても凄い事だと感じる。でも古株になると着服している事に気づかなくなってしまう自分がいると思うと居た堪れなくなる。着服がエスカレートしていった事に気づかないまま犯罪になってしまったのがインサイダー取引というものだと思う。最初は「一寸ぐらい、い〜じゃん」と言う言葉から始まる事が殆どだと感じる。私は個人的に「親しき中に礼儀あり」と言う日本の諺は着服に対しての礼節を重んじる言葉として解釈している。そして自分への約束事として
大事な人を喜ばせる事より悲しませない為にも着服はしない。と決めいる。でも完璧に出来ていない自分がいるから
常に着服に当たらないかと神経質なまでに過剰適応しようとする自分が存在する。2022.2.16追記
譲ると言っても自分で貸せた自分への約束事まで譲ったつもりは全くない。2022.3.3 加筆

〜追憶の裏ストーリー〜
上記の内容を見ると余りに綺麗事と捉える方もいる事と
存じます。妹はどう思っていたのかは分かりませんが
私は自分の家でさえも、居心地や居場所とか「ここに居ていいんだ」と感じた事がありません。物心ついた時には
母は既に父が仕事に出た途端に手の上げ方や下げ方まで
何から何まで口うるさく、すぐに癇癪を起こすは
何処でも怒鳴り散らす人でした。母からすれば
確かに私が母の言うとおりに出来る様にならないので
悪いのは致し方なく、近くに親戚もいなければ祖父母も
居なかった為に他に行く場所がなく、仕方ないから自分の家と言う建物に帰るしかないと言う感覚でしか持ち合わせないまま14〜15歳を迎えその頃には生きている自分を
余り好ましく思ってなかった。そして月日は経ち
結婚をしたものの2人目の子供が産まれたあたりから
今は亡き夫の母より酷いのではないかと感じる程の癇癪激化が毎日を襲う。やはり自分の家とは感じる事がない。
そして2人の娘が思春期に入り父親をさける時期に入った。成人する迄位の間は父親を煙たがるけれど思春期の
一過性のものだから見守ってあげて欲しいと伝えたのだけれど、それが気に食わないと更に癇癪が悪化する。
外から家に戻ると更に緊張の萎縮が始まる。こんなの家族でも何ともないと、このままだと娘達も自分も人としてすら生きていけないと感じて離婚した。父と母は生きていたものの帰る実家もなく、直ぐに別居が出来ないまま半年後
前夫は自死を遂げた。私の中には居場所や居心地を知らないまま育って結婚した結果、前夫を自死まで追い込んだ
張本人と言う十字架の闇は消える事がない。
2022.2.17追記 私に近づかないで欲しい。

〜自分への戒め〜
幼少期の頃、ゴレンジャーになりたかった。
こっそりとゴレンジャーになる為の練習をした。
練習していた時はゴレンジャーになれた気分だった。
でもゴレンジャーになれた事はなかった。
何歳になってもゴレンジャーになれなかった
でもある時にふと気がついた、所詮2次元の動画だけの
世界だったんだな。と…
でも動画による疑似体験が普段のストレスから解放してくれた事も否めかった自分が存在していた。
20222.17追記 台本とレジュメでは用途が違う。

〜フラストレーション〜
良いフラストレーションと悪いフラストレーションが
あると思う。良いフラストレーションなら誰しも嬉しいと
思うのだけれど悪いフラストレーションの場合は
必ずどこかに吐口を見つけて心身のバランスを保とうとしてしまうのが悲しい人の性だと思う。
少ないに越した事はないけれど、あるのが人であって
良い訳ではないけれど自分より強いものに向かうならまだしも無意識に言い返して来ないであろう相手や、やり返して来ないであろう相手や自己顕示を満たしてくれそうな相手を選んではフラストレーションの吐口にしてしまう悲しい現実がある。もしそれが自分に矛先が向いてしまったのであるならば自傷行為として現れてしまう。

抑圧は第3者からのプレッシャー
鬱積は自分が自身へのプレッシャーで
現れたフラストレーションの言動は
他者目線では同じにしかみえず
内訳は本人にしか分からない。

知恵と智慧では同音異語でその反対の異音同語もある。
メリットだけを語る人も怪しく感じるけれど
デメリットばかりを論う人も怪しい。

知れて良かったのか知らずに居た方が良かったのか…

フラストレーション発動相関図


私は個人的に「親しき中に礼儀あり」と言う日本の諺は着服に対しての礼節を重んじる言葉として解釈している。
着服の中でも良い知恵ばかりならよいのだけれど
そうとは限らない事例として詭弁・欺瞞・誇称・老獪etc 
は自重or自律しないかぎり昨今は誰も何も教えてはくれない。過ぎたるは及ばざるが如しで行き過ぎれば警察に連行されるが、そうでない場所は知らなかったでは済まされない表沙汰にならない人的被害がある。

少人数でもコミュニティが出来ると、そこに共通の認識が出来上がりそれが秩序となったゲシュタルトが排他的作用として働いてしまう事が多分に起きてしまう事も。

共通の敵を作ると結束力が上がると言われているけれど
そのコミュニティによってではあるが
共通の敵を自分以外の他者とする方針のコミュニティでは
常に部内戦や部内抗争や排他的言動が後を絶たないのに対して自分の中にある弱さや不甲斐なさを敵としている方針のコミュニティでは常に今、自分が身に付ける、あるべき姿をお互いに模索して共闘・協働しては智慧として昇華させている様に感じる。

あっ…何か偉そうなこと言っちゃった。ごめんね。

同じ人であると括ろうとすると今現在の価値観の自分を底辺として相手を見てしまうと起こる弊害が排他的弊害で
同じ人とは括らずに固体として別の習慣や価値基準の違いがある別固体や職業病とすると、視点の違いを面白がれたりするから不思議である。

例えばオープンクエスチョンをすると上手く話しが出来ない場合でもクローズドクエスチョンの2者択一に切り替えて名詞を選ぶ内容にするか形容詞を選ぶ内容にするか
動詞を選ぶ内容にするかetcによって通り一辺倒な考え方に凝り固まる事も緩和される。

フラストレーションの正体をコーピングしているうちに
どうでも良くなって来た。コーピングが出来る様になると
8割の事が解決するって本当だった。

私はストレスが溜まると他者への被害を最小限にする為に
友達を布団として、ひたすら冬眠してしまう。
追記2022.2.19  最近10代後半の子と一緒に作業していた時に名称の名前が思い出せずに聞きた所、口をへの字にして黙りを決め込んだ。?と不思議に思って他の人とのやり取りをみていたら誘導尋問に引っかからない様にと
身構えて返事をしない様にしていたのだった。

あ"〜また相手のフラストレーションの起爆剤のスイッチを
押さずにいられない自分のフラストレーションを抑えられずに更に悪化させる人がでてくるんだよな。ため息…

〜ダビンチコード〜
思いつくまま今、感じている事を記述していこうと思う。
私の身近な方々の話が余りにも纏まっていて的確すぎる立派な方が多い為に支離滅裂に見えたり纏りのない内容になる事を予めご了承下さい。
多分、まだ比較的に悩み事が浅い内はそうでもないけれど
深刻になるにつれて自分と似たような境地の人じゃなければ誰に何を話しても分かるはずがない。いけないと分かっていても、いきり立ってしまう事がある。でもそれは、どんな立場の人でも職種や役職の方であっても同じだった。
その反面、無意識的にいけないと分かっていても
この人なら今の自分を理解してくれるに違いないと言う
直感めいたものから縋ってしまいたくなる人がいる事も否めない。いきり立つ気持ちや縋りたくなる思いを何処まで
見境なく鬱憤として発散させてしまうかは相手との関係性によってしまうのが嫉妬心なのかも知れない。
たとえそれが醜いと分かっていても…たとえ仲良くしたいはずなのに醜い姿の自分でしか居られない人とは一緒にいないと自分への約束事としている。そうは言っても学校のクラスや雇われいる身での職場の人や住んでいる地域のご近所づきあいも自分では選べる様でいて選べない部分もあるから厄介である。だからこそ深入りし過ぎない事にしている私がいる。

子供達を見ていたら面白い事に気がついた。
それは知っていて意味まで理解できているストライクゾーンの言語が少なく言語化が出来ずにいるだけで大人以上に
子供目線で大人を忖度した眼差しを持っていた事だった。
何気ない子供達と話しをしていると「ウチの親って〜」と
子供同士で話し友達同士の親を比べては羨ましいとお互いに言い合い最終的には「内の親のこう言う所が面倒臭いんだけど、それを言うと後で面倒事になるから黙ってるんだよね」と親の知らない所で口には出さないだけで決断している事がある。かつての自分がそうだった様に。
学生の自分の頃の周りのクラスメイトなどの嫉妬心を目の当たりにする度に歳を重ねる毎に、そんな事は治ってくるのだろうかと思っていたら以外にも子供達より良いとは言えず、まるでその方の14〜15歳の頃のままの姿を観ている様に思うと感じ事の方が多い。
子供達は学校の中での学年とクラスと言う単位の中で現れているだけで、それが年齢を重ねて役職や職種や部署や担当、年齢別に対してのイメージからの先入観などの違いがあるだけで早く産まれたか遅く産まれたかの違いだけで何も変わりがない様にも思えてしまう。それを包容力と言っていいのかすら分からない私の個人的な見解でしかないけれど。

折をみてはお釈迦様?だったかな…に監視されていなければ菩薩といていられない?鬼子母神の話しを思い出したりする。

私は第2次babyブームに産まれた時の子供だったから
やたらと人口が多い。でも、その第2次babyブームの子供達が進学した事が悪と言っている訳ではなくて選択肢が増えた事によって以外にも第3次babyブームが来なかったと思っているのが私の親世代や官僚の方々なのではないかとも感じている。でも20代〜30代の方々の中には学校の時の様に皆んなと一緒に学年が上がる様に身近な友人の結婚ラッシュのブームに乗れずにいる自分のジレンマを隠せずにいる人もいる。結婚は法的年齢を達していれば何歳でも出来るけれど出産となると身体的期間が限られてしまうのは否めない。話したい事の内容がちょっとズレちゃったので方向を変えると…第2次babyブームの私達の世代は子供が多すぎて選ばれなくてならない世代だったともいえる。どちらかと言うと指導者は篩にかけろと言う側の如くスパルタは当たり前だった。味方をかえると少子化となった昨今、少なくなってしまった子供達の奪い合いとなってしまった目の色を変えてしまった大人達がいる。まるで大岡越前の私が親と名乗りでて来た2人の親がお代官様の前で泣き叫ぶ子供の腕を左右から引っ張り合いをする様である。

上の子が高校3年時
中学生の頃から、まだ漠然とはしていたものの大学に行きたいと言っていた上の子。でもその当時、母子家庭で
手取りの給料は18万程だった。その頃、高校1年生だった下の子も含めて学校迄の交通費や駐輪場の月の使用料などを含めると月18万の給料ではやっていく事が出来ずに
ダブルワークをしていた。高校卒業と同時に就職してくれれば確かに親としてはラクなのだけれど親の都合で母子家庭になっておいて親の都合だけで、どうしても進学させて欲しいという学ばせて欲しいという子供の気持ちを私が無下にしていいものかと葛藤の連続だった。その時、働かせて頂いていた昼間の会社はダブルワークを禁止していた訳でないのだけれど、どうも取締役が相当の焼き餅焼きだった様で上の子が大学受験をするにあたって奨学金と大学の入学料を貸し付けてくれる所を調べている時に、私の子供に新聞配達でも何でもさせて苦学生にしなければダメだなどと、延々とお説教を始めたのだった。自分で私に払っている給料の金額を分かっていて、どうやったって私の頂いている給料では大学の学費を捻出できない事を分かっていて、最終的には「まっ、俺は親が金払ってくれて大学いかせて貰ったけどね。」と言う始末である。

最近やたらと話しをするだけで疲れしまう人を多く感じる。それを同じくカルチャーとしている人同士なら楽しめるのかも知れないけれど…
論破する事に達成感を感じている人と表現したら良いのか
やたらと相手が話した事に対して何の根拠もなく反対語だけで対抗して根負けさせた方が勝者とする様な
本来のディベートを取り違えていると表現したらよいのか
それともスワピッンクとピボットを取り違えていると表現したら良いのか、それとも論点ずらしや容姿や生まれ国など自分ではどうする事も出来ない事に対して自己顕示欲を振りかざすトーンポリシングと表現していいのが分からない様な、何とも虫の良すぎる状況や状態の時がある。
口癖の様に口から突いて出てくる言葉が「勝者がルール」
だった。間違っている訳ではないけれど一抹の疑問を感じていたので暫く辛いながらも様子を見ていた。確かに、そのコミュニティ内では1番の技術力と威圧感があった事は確かだったのだけれど自分が面倒臭いと感じた事に対しての方向性が何故がセルフサービスと称して他の人から見ればマインドサービスでしかない言動になってしまうであった。貴方は信用していた人から一見して裏切られたと思う行為があった時、条件反射的に逆上してしまうタイプですか?それとも「何か別の事情が急に起こったのかも知れない。」と思える程の信頼性を持てる相手であると確証できるタイプですか?肉を切らせて骨を断つとは身近にいる第3者ではなく自身の身を切らせる事でしか養われない感触性があるのではないかと感じる。でも昨今は人・モノ・金と肝心な事が欠落した状態で半分は嘘の言葉だけが独り歩きをしている中、評価と影響に対して賃金が発生してしまう。自腹を切って自分が学びたい事を学びに行っても
所属している取締役の嫉妬心によって何も犯罪になる様な事はしていなくても給料を差し止めされてしまうのだから
怖いものだ。でもその本人はハングリー精神を養ってやったんだと、きっと言い張るだろう。そんな中にいると何も評価されなる事なく何気ない日常の恩恵を素直に感じ事が出来る感覚が、薄っすらとでも残っていた人としての自分に出会えただけでも良かったのかな。と思ってる。
追記 2022.2.22 辛うじて心は失っても生きながらえたのは親権は私にあったけれど持家の法的権利の優先順位から2人の子供名義で相続されて子供達に住まわせて頂いている状態で家賃がかからなかった事と役所への手続きや年金の手続きをしていた時に年金事務所の窓口の方に何故、別居してなかったの?と尋ねるられて具体的な理由によっては18歳までだったかな?になったら受給資格は消失してしまうけれど本来なら受給資格がなく貰えないはずだった遺族年金が2ヶ月に1回受給される事になったから。それ迄頭の中では色々な事を諦めていたが年金事務所の方の思わぬ質問の機転のお陰で難を緩和して頂いたから。
後は只ひたすらに子供達を成人式を迎えて、例え至らなくとも社会人に迄は育てなきゃいけないという使命感の気力だけだったから。でも使命感の気力だけとなってしまった自身の身を振り返ってみても心身共に、とても危険な状態だったと今更ながらに戦慄してしまう。

〜コミニュケーションエラー〜
この言葉を聞いた時、偶然にも医療従事者の方が一般公開して下さる講習会の案内を目にした。参加資格はどなたでもOKだった。私は受講料を納めて参加させて頂いた。
始めて行く所だから怖く無かった訳ではなく不安と緊張はあったものの、私の様な分際でとも思いつつも、こんな時
居場所や居心地を感じる事が少ない状態で育った私は
他の人より鈍感なのが功を奏してしまう所がある。
数名の他分野の医療従事者の方とジャーナリストの方々による伝え方についての講習会だった。私からしてみれば
どちらも方法性の違いはあるものの伝え方のプロのでしかない。なのに何故と言う気持ちが私の中に芽生えた。
そしてその講習会では過大な嘘は禁止だけれども、ここでの内容は公開してOKと言う内容のものだった。
一般公開されていたので勿論、同業他分野の医療従事者の方も参加されていた。中でも印象的だった事が医療従事者の方が自分達の伝え方を悔やんでいた事だった。
本当なら患者さんの不摂生を叱りたいはずなのに。でもこのままでは病気や怪我をする前に知って欲しい事が伝わらないと言う想いからのものだった。率直な私の個人的な
感想からすると表情は穏やかだけれど発している言語だけを聞いていると一般の方にはキツく聞こえてしまう。でも
怒っている訳では全くなく、しかも偏見や差別をまるで感じなかった。言葉は少しキツくても私には何故が違和感が無かった。言葉がキツく感じてしまうのは結論から話すブレインストーミングの対話方式だったからなのかもしれない。ディベートにしてもブレストにしても結論が先と言う話し方は慣れないと中々、怒られている気分になってしまう。そんな事を個人的に感じながら登壇者の方々が
パワーポイントなどのスライドをつかってお題目毎に
講習をしてくださった。勉強をしてこなかった私にとって
どれも為になる事ばかりで楽しかった。でも詰め込み過ぎて頭から湯気が出る様な事もなく無事に講習会が終わったものの何かが喉の奥でつっかえる様な感覚を感じてた。
何で相当数の勉強期間や高額な学費を払って国家資格を取得した医療従事者の方が一般の方に伝わらないと感じてしまうのかは謎のままだった。喉につっかえたまま講習会を終えた数日後、講習会の内容を振り返っていた所
つっかえている事が途端に腑に落ちた。それは医療従事者の方々は毎日イレギュラーがルーティンで患者さんを安心させる為に自分の感情を殺す特別な訓練をしているとは言え毎日がイレギュラーだと起こってしまった事態を収束させる事が先決でチョットやそっとじゃ驚かなくなってしまっている事も相まって一般の方とは時間の概念が間反対だった事だった。上手くいかないと感じた時は、焦ったく思っても理由から先に話すと素直に受け入れてくれる事がある。OJTならなおさら。そして少しずつでも結論から先に話す事の必要を理解してもらえる様になれば試合中に理由を話してたら球技なら相手に点数を取られてしまうし格闘技なら何発なぐられちゃうの?と仕事中は競技中なんだよと言う事を理解して貰える様になれるとも思う。
追記 2022.2.22

〜暗中模索〜
上手いに越した事はないけれど
一旦、上手い下手は横に置いておいて
私はハンドメイドが大好きで趣味として楽しんでいる。
1つ作品が完成する度に自画自賛したり自己満足の世界に
1人で浸っていたりする。お料理に関しては一緒に暮らしている下の子と旦那様が餌食になる部分もあるけれど…苦笑。でも…それを自給自足とは言いたくない。何故ならば、たとえ地産地消をメインにしたとしても、それでも調達しきれない素材を伴う材料もある中で、その材料を生産・製造して下さっている方のお陰でハンドメイドを楽しむ事が出来る訳であって、それを感謝できる自分でありたい姿を忘れなくないから。

何故だか不思議なんだけれど致命傷ばかりを狙って攻撃してくる人って追い詰めるだけ追い詰めておいて反撃によるトドメの1撃をやりかえされる所で寸止めしてケラケラ笑ってたりするんだよなぁ。本当のプロは決して致命傷を狙わない。

小学校低学年の頃だっただろうか。
直ぐに母の目の届く範疇と思考の範疇を越えてしまう私は目の上のタンコブな子供だった。兎に角、突如に怒鳴られる。ある日、父が休みの日に私は母から恒例の如く怒鳴られていた。延々とお説教が続く中で母は小学校低学年の私に「お母さんの立場や気持ちになってみなさい!」と捲し立ててくる。怒鳴られている私は俯いて黙り込んだまま頭の中で「お母さんになった事ない…」と思っていた所で
母は父に「この子はこうやって何時も言う事を聞かない」と報告をした。すると一部始終を見ていた父は母に向かって「まだ親にもなれない子供に親の気持ちを分かれと言う方が無理があるだろ。そんな事をするものじゃない!」と
母を一喝した。私は救われた気持ちになったと同時に
その時は言語化できるだけの言葉を知らなかったから表現する事が出来なかったけれど、その時の状況とを含めて父の言葉からは、突いて出てくる言葉からの発想を含めて止めなさい。と言う意味で私は捉えてたのだけれど
母は言い回しを変えなさいと解釈してしまったの如く
発想を変える事なく言い回しだけを変えただけで次第と私に対する風当たりだけが強くなっていく一方になった。
それを私はは情動のスタグフレーション化現象と今現在
勝手に名付けている。

貴方は「気を遣え」・「自分が同じ事をやられたらどう思う?」の言語発言は自己保身の時に出てくる言葉ですか?それとも他者保身の時に出てくる言葉ですか?

たとえ僅かであったとしても手伝えるなら「大丈夫?」と尋ねるけれど手伝えないにも関わらず私は「大丈夫?」とは個人的には言わない様にしている。何故ならば
手伝えないのに「大丈夫?」と言う事は相手に対して侮辱行為に当たるから。

突発的言動は2手3手先に関わって下さっている方へ
かかる負担を考えたら、とても出てこない。

出典元と引用元を公の場で明らかに出来るだろうか…
プラスの意味なら開示できるはずなんだけれど
負の引用元に関しては真似した意思が自分にあるならば
開示出来きないと感じる。

信頼はやっとの想いでできるのに失うのは、ほんの一瞬。
一度、失った信用は自分が思っている以上の3倍〜5倍の
寡黙なまでの努力をして初めて光明の兆しが見えるかどうかであると個人的に肝に命じている。追記2022.2.24


〜汚名返上〜
いつからだろう…
本来、ハリネズミのジレンマだったはずなのだけれど
何がどう伝わってしまったのか
いつの間にかヤマアラシのジレンマに変わってしまい
やたらと毛針が飛んでくる様になってしまい
痛くてたまらない。

私の仲間の指導者達が指導する上で決してやらない事と
誤った指導法から出てしまっている被害に胸を痛めて居る事を、いま私が理解している事の範囲を書き出してみようと思う。

まず理解して欲しい事の要点として
実態のないものに対しての恐れを不安
実態が理解出来ているものに対しての恐れを恐怖
と、キチンと定義付けされていると言う事。

その人の普段の言動は
日常の大半を過ごす場所やコミュニティ内の身近な人から、どんな風に扱われているが、そのまま代金を支払う相手や逆らえないであろう相手に反映・露呈されてしまうと言う事。

私は既に古い人間なので、出て行くなら家の敷居は二度と跨ぐな。と言う部分を持ち合わせている。
複数の支店などを持つ企業様なら転勤や移動によって
もと居た支店や支所に戻って来る事がある。
それとは違って一度、退職したOB・OGの出戻りがやたらと多い企業様があった。若い時は仕事に対しての基礎体力が身につくまでの辛さに耐えきれずに退職したり脱走したりするのだけれど、いざ他の企業様に転職をしてみると
あれだけ嫌だったはずの会社なのに前職の良さが浮き彫りになってしまい前社に戻りたくなってしまう事が多いにして起こる。それはともかく、OB・OGが出戻って来ると
上層部としては改めて業務を指導する必要もなく即戦力になるので都合の良い部分もあるのは否めない。だだ、出戻って来るだけならば嫌ではないのだけれど問題なのは、そのOB・OGが出戻って来た途端にふんぞり帰って司令塔として現場を指揮し始めてしまうからだった。その方が退社後に新しく入って来た人や、その後に補填業務をこなしながら続けて下さった方達はつたないながらも現場を滞りない様、必死で回して下さって来たのにも関わらず、いともあっさり、今まで何をやって来たと言わんばかりの立場に追いやられてしまうのであった。他の後輩や続けて業務に当たってくれた人の中からは「出戻って来るのが嫌だと言っている訳ではなくて研修生から1からやり直しのはずなのに出戻って来た早々に自分が元やっていた司令塔の立場に君臨してる事に対して嫌悪感が拭えない」と言う不満が溜まっていってしまったのだった。上層部が許可して出戻って来ているので、その旨を上層部に伝える事も出来ないでいたのだった。
そんなある時、取締役からお客様への商品への提供方法が
報告もなしに変わってしまっている事に対して「いつからこんな提供の仕方しているんだ!」と激怒された事があった。誰に聞いても「いつの間にかこうなってました」と言う。自分のやりたいやり方を上司の許可もなく自分に対して逆らえない後輩や新人に教えて初めてしまい自分のやりたいやり方を取締役に見つからずに浸透させてしまっていたのだった。「その提供方法は、この会社では行なっていません」と指摘すると何故か、その場にいない人の名前を出して来て○○さんから教わりました。と言い出したり、ずっと前からこうでしたよ。と言う。ずっと前とはいつからですか?と尋ねると私がこの店舗に来た時にはこうなっていました。と言い出す。その人がその店舗に来る前に私がそこにいたのにも関わらず。業務連絡として何も上司からは言われてないのですが、貴方が変えたのですね。と問いかけると、そんな事ない!と怒り出す始末だった。

相手を怒らせて本気にさせるという事は確かに存在するのだけれど真意を弁えている指導者はクライアントさんの意思の中の深意を見極めて喝を入れる事はあるが自分の願望を相手に叶えさせる為に相手の自尊心に瞋恚させる様な真似をする事はまずない。追記2022.2.26

〜インディアンの教え〜
子供達はこうして生き方を学びます
・批判ばかり受けて育った子は避難ばかりします。
・ひやかしを受けて育った子は、はにかみ屋になります。
・心が寛大な人の中で育った子は我慢強くなります。
・敵意に満ちた中で育った子は誰とでも戦います。
・ねたみを受けて育った子は
 いつも悪い事をしている様な気持ちになります。
・褒められる中で育った子は何時も感謝する事を知ります
・思いやりのある中で育った子は信仰心を持ちます。
・仲間の愛の中で育った子は世界に愛を見つけます。
・励ましを受けて育った子は自信を持ちます。
・公明正大な中で育った子は正義心を持ちます。
・人に認めて貰える中で育った子は自分を大事にします。
  書籍 インディアンの教え 著者 加藤諦三より出典引用

仕事上の上司や部下、先輩と後輩の間柄でも
年齢性別に関係なく変わる事はないのではないだろうか…

慇懃無礼の対義語として横柄親切がある。
慇懃無礼の英語はsmarmyらしい。
そして類語の中には良く耳にする小手先と言う言葉と
初耳の事も多く馴染みはないけれど「おためごかし」と
言う日本語も存在している。

インディアンの子育て4訓
 1.乳児はしっかり肌を離すな
 2.  幼児は肌を離せ、手を離すな
 3.少年は手を離せ、目を離すな
 4.青年は目を離せ、心を離すな  

癇癪の中には激昂・激怒・逆上と状態別に分ける事が出来ると感じている。だけれども照れ隠しの場合も人によっては一見して癇癪という動作に見える事がある。恥ずかしくても落ち込んだ時の様に俯いてしまう振る舞い方になってしまう人もいる。見た目だけでは判断しきれない本人のみぞ知る心境の違いを見分けるには
どうしたらいいのだろうか…

自戒を込めて…    追記 2022.2.27
安易な発想のアファメーションであってはならない。
注) 誘導尋問、強制、強要、同調圧力etc…によって
  相手にアファメーションをさせてしまう様な言動は
  脅迫まがいの行為に当たってしまい成りかねない
  ハイリスクの危険性を伴うのでやってはいけない。
  アファメーションに関して関心をお持ちの方は
著 苫米地英人  著書「アファメーション」
著 田島大輔 監修 苫米地英人  著書「マインドの教科書」
を個人的にではありますが、お薦めさせて頂いております。過ぎたるは及ばざるが如し全てを台無しにしてしまっては元も子も無くなってしまう。追記2022.3.AM5:36


〜隣の芝生〜
私の親は団塊の世代。
その頃は、まだきっと長子を厳しく育てて
後は下の子達を世話をさせる。という風習が根強くあったのではないかと感じている。多分、私も例外にもれず
その風習に当たってしまった長女だ。勿論、違う形での
子育てをされて来た方もいるとは思うけれど
私の母の性分も重なってとてもスパルタだった。
何処かで自制心で自分の感情を抑え込んでいる状態も
自制心が、まるで効かない感情的な状態も自分の感情によるものである。と記述した事がある思うのだけれど…
その頃は、そんな言語力が無かった私には伝える術はなかったけれど、私が何かをすると妹は見様見真似だ身振り手振り言い回しをひたすら真似をする。教えてなくても真似をする。すると母がぶっ飛んで来て「アンタがやるから真似をするんでしょ!」と怒鳴れる。私の中では強制して
教えた事もない。妹は自分の意思で真似をしたはずなのに
私が怒られる。頭の中ではいつも「妹ならいいのかよ。」
思っていたけれど、それを言葉として発してしまえば
母のタイプ的にとても面倒な事になるので、ひたすら
黙っていた。何かにつけて「お姉ちゃんなのに」「お姉ちゃん何だから」と言う言葉が付き纏う。そんな母を反面教師として自分が親になって1番最初に産まれた子が女の子だったら「お姉ちゃん何だから」と「お姉ちゃんなのに」
「お姉ちゃんがやるから下の子が真似をする」と言う言葉を禁句すると自分に誓いを立てていた。でも、妹が真似をしてもいい事ばかりの姿を家では強制される為に次第に家の外へ憧れの対象を見つける様になった。

いつ頃だったか忘れてしまったのだけれど
ある時から禁句と禁区がある様に感じると思う様になった。今ではパーソナルスペースと言う言葉がある事を知ったから言える事なのだと思う。言葉遣いによるパーソナルスペースと態度によるパーソナルスペースが変な人がいる。表現の仕方を変えると習慣性の違いとも呼べるし
その方の性分とも言えるし職業病がプライベートでも抜けてないとも表現できるのかもしれない。

ある訳がないけれど
もし仮に事業主様が、何時も自分は従業員に骨を折ってやっているのだから年に1度の事だし知らせなければ分からないと年末調整で戻って来るはずの従業員さんの源泉徴収税額をポケットマネーにして横恋慕していた事が発覚したら許せる人はいるだろうか…
源泉徴収税額の払い戻しに関しては顧問の税理士さんを
雇っていても税理士さんは事業主様が払い戻しをしたかどうかは管轄外なので一切、介入する事は出来ないから
自ら確認を怠ってはいけない所である。

大手企業さんのM&Aに関するニュースを見たりすると
総資産額を開示されたりしているが何故か総負債額の記憶が全く無く、頭の中でクローズアップされてしまった総資産額だけが先走りした言葉として出てしまう。経理上、負債=資産の扱いになるので負債がないには越した事はないけれど負債を抜きにして資産とは言わない事が念頭になければ「騙された」と言われてしまい兼ねない。
個人的な事で表現するならば結婚して入籍を済ませた途端に配偶者のローンの金額を知って愕然と幻滅してしまった
感じだと思う。まさに、アバタもエクボ。

私は個人的にアドバイスは基本しない事にしている。
聞かれてから初めて答えて良いかどうかを考え始める。
何故ならば相手に先入観や固定概念を植え付けてしまい兼ねない恐れがあるからな事と1度や2度と限らずに経験した事が誰しもあるのではないだろうか思うのだけれど
有り難いと思えるアドバイスもあれば、気が付いてくれて良かったと安堵感のあるアドバイスもあれば
何故か虫唾が走る様な癇に触る事を聞いてもいないのに
言ってくる人もいるから困ったものである。
アドバイスの中にはストコマを外してあげる事と
余計な詮索をして指図して来る事とでは、全くを持って
趣旨も方向性も違って来てしまう。詮索されて指図される事は誰しも不快感しかないはずなのに。ましてや自分で
相手に対して不快感を与えておいてリアクションが
帰って来なかった途端に「冗談が通じない人だ」と
また上から目線で自分でリアクションをして更に相手を不愉快にさせてしまうから骨の拾い様がない。

適切な状況判断と現場処理を行なわなければならない
職種や職務上、又は役職の性質上、自分の意に反して決断をして指示を出さなければならない過酷さと棚上げ行為との取り違えは理性だけではどうする事も治る事もない許し難い情動だけが根深く残る。そして過ぎてしまった時間も戻る事もない。自戒を込めて。2022.3.4 AM3:16
福利厚生などの充実なども含めて憧れの職場と思われている東京ディ○ニ○ラ○ドですら、敢えて公表していないだけであって退職者数が後を立たない現実の課題と直面している日々と言われている。2022.3.4 PM12:57加筆


〜能率〜
自分大好き人間でも、自分嫌い人間でも
瞬に思う事があっても
誰しも自分が間違ってるいるとは思いたく無く
その時の心境によって勝手に都合よく
解釈してしまっていたり、解釈してしまいたくなる。

私は自分で自分に
私の中の葛藤は相手には矛盾としてしか写っていない。
と、いい聞かせる事がある。

通過儀礼は通貨儀礼なだろうか…
それでしか無かったのだろうか…
それで本当に良かったのだろうか
自問自答の繰り返し。

詫び送りは罪悪感を払拭する為の自称(傷)行為とするならば
恩返しと恩送りは何を払拭する為の自称(傷)行為なのだろう…

自戒としてしかなく 2022.3.6追記


〜理趣粋方〜

「糟粕瓦礫」
文はこれ糟粕なり。文はこれ瓦礫なり。

 文是糟粕文是瓦礫

『六義解』
 ・第一 指事
 ・第二 象形
 ・第三 形声
 ・第四 会意
 ・第五 転注
 ・第六 仮借

思っている事と反対の事を口走ってしまうと
やっぱりいい事が無い。
変なもので私が汚名返上と言うと戦線布告だと言う人が
出てくるし、そうかと思えば名誉挽回でしょ。と言い出す人まで出て来てしまう。…ため息…ため息…
表面上の行為は他者から見れば、やっている事は
どんぐりの背比べでしかなく…

ある時、3年やってもなかなか上手くならないと言う人がいた。よくよく話しを聞いてみると1年に1回3年間 
続けたと言う。それって3年じゃなくて3回の間違いでしょ
とツッコミたくなった。

またある時
お題目のある作品を作る事になった。お題目を出した人が
最終選考人だった。1人はお題目を出題した人からイメージのアドバイスを貰って使用する材料の材質や特性から構想を練り始めた。もう1人はお題目を出題した人の好みの
アドバイスを貰っていた。同じお題目でもまるで違うものが出来上がった2人。でも何か抜け落ちている様な気がした。

私は社交辞令に対して聞かされるのも言うのも苦手意識を
とても強く感じる。与えられた職務の権限によっても役割りに徹しなくてならなかったりなどの状況でも変わって来てしまうと感じるけれど、でもそれを大義名分と言う人もいる。自己保身なら社交辞令で他者保身なら大義名分で中和剤なら自業自得として表現しているだけで心境のベクトルの方向性がどっちに向いているかは本人のみぞ分かる事。土壇場に強い人って状況判断と現場処理が洗練されてる気がする。2022.3.7 追記

刑法175条 猥褻物頒布等罪と三六協定は等価交換に
値しない。前者は警察の管轄、後者は厚生労働省の管轄
民法734条 3親等内の直系と傍系血族の婚姻は血が濃すぎて先天的ハンディーキャップを持つ子供が産まれてしまう可能性が大きくなる為、認められていない。民法722条 婚姻200日以内に生まれた子は夫側の認知が必要、離婚後6ヶ月は前夫の子を身籠もっている可能性がある為、女性は再婚が出来ない。2022.3.8 追記

使い方を間違えてしまうとfakeと dummyでは残像拳の
目的と手段の入れ替わり現象によって結果が異なってしまう。2022.3.8 PM20:08 加筆

とある方から頂いたアドバイスで
怪獣を倒したウルトラマンは確かに正義のヒーローだ。
けれども怪獣と戦っている間に倒壊した建物は誰が直して誰がお金を出すの?負傷者の治療と治療費は誰が出すの?
思いもよらなかった着眼点に何時迄もウルトラマンだけではいられないと思った。2022.3.8 PM20:58 追加加筆

嫌よ嫌よも好きのうちと言う諺?らしき言葉を
そのまま鵜呑みして本当に嫌がっているも分からずに
押しの弱さと惚れた弱みを見誤って我を通してしまった事の代償は大きい。2022.3.8 PM23:38 追加加筆

暖簾を潜ると門を叩くでは似ていて非なるもの。
門下生と暖簾分けも違う。暖簾に傷がつくと門前払いも違う。他にも暖簾に腕押し・暖簾師・暖簾を下ろすなど
暖簾と門の主義と意義の違い。
2022.3.9 AM1:25 追加加筆
フランチャイズは権利を買うと言う表現されたりする。
2022.3.9 AM2:36追加加筆

ヘアピンカーブとスイッチバックは同じじゃないよ。
鳥の目・虫の目・魚の目。2022.3.9 AM10:39 追加加筆

「win-winの法則」は漁夫の利や海老で鯛を釣ると
取り違えてはならない。2022.3.9 AM10:49 追加加筆

〜カタルシス〜
耳が痛いか、お腹が痛くなるかもしれない
厳しい事をぶっちゃけちゃうと…
お目当ては私ではなくて私のお友達でしょ。
だって変だもん。今まで私を侮辱してきたり等を
してきた人が掌を返した様に昔のよしみでと言わんばかりに馴れ馴れしくしてきたり、わざわざ妙な動きをして私の視野の中に入ろうとして来たり、突然、私の言ってる事や
やってる事を真似し始めたり追従し始めたりと
どう見たって怪しでしょ。
女性相手だと下手をすればハラスメントや冤罪になりかねないからと同じ同性なら何とかしてよと言わんばかりの
異性もいるし。私みたいに性別を全面に押し出さない様な
人間は都合いいのかもしれないけど、ちょっと虫が良すぎるんじゃございません?私からしてみたら、ちょっとどころじゃ無い。

私の母は、良く私を怒鳴る度に「アンタの為を思って言ってるんでしょ。」とあまりにも恩着せがましいく
しつこいので「親の都合で勝手に産んだでしょ!私は
一言も産んでほしいとは頼んだ覚えはない!」と
大喧嘩をした。

私の友達に関しては束縛もしていなければ監視している
訳でもないので私を間に挟む必要はまるで無く自由に会いに行ってくれて構わない。オンラインでのセミナーや実技講習会なども盛んやっている方々ばかりなので直接、申し込んでくれて良いと思う。
ちなみに私は裏口入学の様な方法では一切、コンタクトをとったりアポイントメントをとったりした事はない。
一般公募からキチンとエントリー費と受講料を納めているので悪しからず。

再婚した今の旦那様には私の子供を外で娘と呼ぶなと
口止めをしているし私の子供を出汁に使う事も禁じている。勿論、役所の手続き上、養子縁組もしていないし子供達もそれを望んでいない。私には子供がいるけれど私と今の旦那様の間には子供がいないと言う事実をそのまま公表している。頗る私の子供と今の旦那様は仲が悪い。でも私の憶測にしか過ぎないけれど、きっと今の旦那様は自分の親兄妹には自分の為にキューピット役をやってくれたと思っているから私の子供と仲が頗る悪いとは言えずに心配をかけない様「上手くやってるよ。」と伝えている事だろう。多分、遠からずの事ではないだろうかと踏んでいる。

私にとって仕事とは性別年齢問わずエスコートが出来る様になる為の訓練する場であると個人的には思っているのだけれど、エスコートをされるには?と言う様な内容の話しを遠巻きにして来る方がいる。
エスケープとエスコートが入れ替わってませんか?

別の表現をするならばリズムを教えるのが職務だど
個人的には思っている。
ナチュラルリズム・ナショナリズム・グローバルリズム
厄介なのがナルシシズムetc…シズム化に特化し過ぎて
弊害が多発してしまっている事に気がつかないでいる事。
気がついた時には手遅れ、後の祭りで自分では手の施し様も、なす術もない状態になってしまっている。
誰しも自負なしでは生きられないけれど自負を誇示しすぎるあまり弊害となってしまっては元の木阿弥どころかマイナスでしかなく、でも本人がそれを強く望んでいたのだから周りはどうする事も出来ない。
一過性のナルシシズムならば、そのままにしてあげておいた方が良い時もあるけれど一生そのままの方も居てしまうシズム化と言う悲しい人の性。

例えば、衛生面というカテゴリーから考えると
医療従事者の言う衛生面と美容師さんの言う衛生面では
主旨と方向性と施す施術が違うと言う事は言語化が出来なくても感覚的に理解出来るのではないだろうか。でも施術的な事や薬科学では被って来る部分がある。
だって医療従事者の方に、お洒落な剃毛の仕方と言う履修はないでしょ!

正にも負にも日本語で言えば金縛り、表現の仕方を変えるならカタレプシーに落ちた時にこそ、その方の今の現状の本質が現れる。身動きが取れないまま硬直状態が続くか、それとも…覚醒するかは本人次第。

良くお酒の席で煽る様に飲ませて「吐け〜!吐け〜!」と
一気飲みをさせて本心を吐か様と捲し立てる事があるけれど、エンパシー型の方と知らずに、それをやってしまうと
呪縛と負のトラウマの強化に繋がってしまうので
お薦め出来ない。その前に急性アルコール中毒でぶっ倒れても費用・対処、処置出来るだけの責任が取れるならなら、どうぞご自由に。

なまじっか否定したばっかりに知れば知る程
自暴自棄になっていく私が存在する。
個人的見解による自己報告は以上です。
2022.3.11 追記 そして東日本大震災の追憶に黙祷

私としては、そうしなくてはならざる得ない状況だったから行動を起こして、そうしたのにも関わらず、何をしても自分では出来なかった事を私が出来る様になった途端に
自分の為だけじゃいけないんじゃないの?皆んなの為にならなくちゃと上から目線で擦り寄って来る。それって人の褌で相撲を取ってるって言うんでしょ。便乗値上げとか
自社都合で求人広告を打っといて入社した途端に
全部会社側都合では無い状態になるやり方じゃん。
職務上の立場的に伝えなくてはならない事はあるけれど
棚上げしすぎるにも程がある。  以上です。
2022.3.11 PM13:55 加筆

引き継ぎによるトスアップの仕方を間違えていませんか?
自身が施して来た施術や直面している課題についての
トスアップならまだしも取引先や、その会社に所属している方の自己印象は先入観と固定概念の硬直になるので
そんな情報の引き継ぎなら要らないです。お客様側から前の担当者の方が良かったとか言われてしまうのも自分がされたら嫌だからしない様にしているけど、それなら引き継ぎによるトスアップは負の作用しかないので職務による作業内容と作業手順だけ引き継ぎして下さった方がありがたいです。 以上です。 2022.3.11 PM14:45 加筆

その場所に足を運んだからこそ新たに
思い出す感覚と言葉がある。
話しをしたからこそ忘れていた感覚と
取り戻せる言葉がある。
その場にいる人の手伝いをしたからこそ
理解できる大変さと難しさと感覚がある。
大きく変わるから大変なのであって
簡単に出来る事なら見限るのも早いはず。
2次元だけでは分からない感覚と感触。
感触(手応え)には種類がある。
実感はアート感触はデザイン。
お互いに話す方と聞く方が五分五分になってるから
会話になるわけで、誰が1人だけ一方的に喋っていたり
聞かされている側だけなら演説会で良いわけで。
どんなに理性を保っていても理性だけでは何とかならない
致し難い片付けられない情動が根底に存在してしまう。
譲る事を前提にしているが、譲ると言っても自分で貸せた自分への約束事まで譲ったつもりはまるでない。
自戒でしかなくて…
2022.3.11 PM16:00 加筆

このままでは人としてすら生きられないと感じて
離婚を決意した時。女の子だし親権は私が持つと決めた。
その時、私は元々の旧姓に戻らなかった。
直ぐにでも引越しする事が出来たなら又、話は違っていたのかもしれないけれど両親は生きていたけれど戻る実家もなく賃貸の家を借りるにも敷金や礼金に必要なお金が無かった。その当時、学校の中でも言い訳はしなくとも自己を正当化する論破が流行り言葉の様に横行していた部分も否めなかった事も考慮に含めて学校を変わる事も出来ない思春期の子供達と、考える隙も与えられない様な論破攻めを繰り返し受けてしまったトラウマがある中で学校のクラスメイトからの興味本意でのデリカシーの心無い質問攻めを少しでも減らしたかったからと、もし、子供達が自分の苗字を変えるなら本人が結婚する時に決めれば良いと言う思いから私は旧姓に戻らない事を決意した。
その決断が良かったのか悪かったのかは未だに分からない。2022.3.11 PM21:55 加筆

スティーブ・ジョブズの名言の中の一説

お目当ての人を口説こうと思った時、ライバルがバラの花を10本贈ったら、君は15本贈るかい?そう思った時点で君の負けだ。ライバルが何をしようと関係ない。そのお目当ての人が本当に何を望んでいるのかを、見極めることが重要なんだ。

中庸…ここには10本のバラを贈ったAと15本のバラを
   贈ったBがいる。AとBは同じ人が、お目当てだった
   Aが先に同じお目当ての人に10本のバラを贈った事
   を知ってしまったBはAに対抗してAより多い数の
   15本のバラを贈った。15本のバラを用意した時点
   でBのターゲットはAであり、お目当ての人の気持
   ちや迷惑を顧みず自分が知らぬ間に片棒を担いでし
   まった事になる。別の表現方法にするとパブロフの
   犬と言う現象の呼び名になる。
   それを熟知熟考しパロディーとしてまで落とし込ん
   でる事が分かってる上での事ならば結論が変わって
   来るのではないのだろうか。
追記 2022.3.12 PM 19:16 加筆
   違うシチュエーションの場合は敵に塩を送る。
   という表現の仕方をする。
   意味としては相手の弱みに漬け込まず
   もしくは弱りきった相手と知った上で
   トドメを刺す事は卑怯であり対戦としては
   面白くもない。怪我の功名まで快復し
   元気になったら、また逢おう。という
   意味合いに変わってくる。
   相手の良さを知っていなければ出来る事では無い。

熱狂は利他的であって発狂は利己的。
他者から見えている言動や事象や現象は同じであっても
熱狂と発狂では主旨も方向性も相手に与える印象や被害も
違ってくる。追記 2022.3.13 PM13:36 加筆

突飛な発想でのアイディアは大当たりする可能性もあるけれど人は自分の知らない事を直ぐに受け入れる事が出来ない性質を持っているから効果は少なくても手堅く行くなら
リミックスが重要だよ。と私の言語化と文章化を見守り続けて訓練してくれたケンタウロスに教えてもらった。
追記 2022.3.13PM14:01 加筆

2022.3.7追記分の記述に戻ってrepeatしてみると
自己保身なら社交辞令で他者保身なら大義名分で中和剤なら自業自得として表現しているだけで心境のベクトルの方向性がどっちに向いているかは本人のみぞ分かる事。土壇場に強い人って状況判断と現場処理が洗練されてる気がする。+αとして親切と親身とお節介を取り違えて、ひけらかしてしまうと有難迷惑にしかなりかねずアプローチの方向性を見誤ると売名行為としてアピールしてるとしか映らない。前提としての能動性を疑わなくてはならなくなってしまうので気を付けたい。
自己見解による自己報告は以上です。
追記 2022.3.13PM17:23加筆

劣等感とハンディーキャップを一緒にするな!(怒)
不便なだけで可哀想じゃない。
追記 2022.3.13PM19:54 加筆

おこがましいけれど世代交代という概念も含めて
必ず私はいなくなる。
何事もなくとは言えないけれど自然の摂理から考えて
私と言う親の方が先に天寿を真っ当する。
私がこの世からいなくなっても子供達が自分の力で
自立し自律していられる様に努める事が
親という私が子供を産んだ義務だと自分に言い聞かせている。自戒しかなくて…追記 2022.3.13PM21:44 加筆

〜奇妙奇天烈〜
良の連鎖と出れば感受性が豊となり負の連鎖となれば
感情の起伏が激しいとなってしまう情動表現がハッキリと
顔や態度に出てしまう人から私はよく何を考えてるのか
分からないと言われてしまう。それはきっと同性異性含めて生理的に受け付けなくなってしまう程、嫌いになってしまった相手の交友関係や商売の邪魔はしない。
どんなに嫌いな相手でも、違う誰かにとってはとても大事な人だと思うから嫌いな相手の不幸までは願わない。
どうであれ代表取締役の方は自分で企業したのだから続ける意はあっても辞める事はない。ならば自分が、その場から立ち去れば良いと言う習慣性も含めて根本的な発想があるからなのかもしれない。感情表現が豊だと、とても華やかな人だと感じるけれど私にはそんな生き方は出来ない。
というより…
したくない気持ちの方が強いのかも知れない。

あ…そう言えば、さっき根本的なと言う言葉を使ってみて
思い出したのだけれど日本の電化製品に付いて来る取り扱い説明書は今更ながらに細かく表記されてるなぁと関心してしまう。壊れてしまって今は使用していないけれど以前
使用していたダ○ソ○の掃除機とか、今となっては必需品の1つになってるiPhoneとかの取り扱い説明書ってリーフレットとか2ページ位しかないパンフレットなみの薄さしかない。この感覚の違いに拒否反応を示す人と好奇心に
満ち溢れる人と、取り扱い説明書は読まなずに取り敢えず 
何処でもいいからボタンを押してみたくなる人がいる事が
また不思議である。

直感はとても大事な感覚だとは思うけれど感情の起伏だけでは越えられない何かを感じる事がある。そこを抜け出すには、どうしても「違い」「定義」「概念」が必要になって来る事もある。少なからず1度や2度、自分が困った時だけ「どうしよ〜う。」と泣きついてくるのに私が困った時は「世の中そ〜んなもん!」と言われて腹立たしさを
覚えた事があるのではないだろうか。

少しだけれども私が近年、混同されてしまっているなぁ
と感じた所を抜粋してみたいと思う。
私の個人的見解でしかなく、所属している団体とは何の関係もありません。また資料とて個人的に集めたものを記載するにあたり出典先、引用先が不明になってしまったものも含めて公開開示して下さった先方様に、この場をお借りして御礼を申し上げます。

先にストコマの原理として
今の自分には必要ないと判断してしまった概念と
もともと何も知らないからこそ見えない概念との2種類が
ある事を念頭に置いて先に読み進めて頂けたら幸いです。

1つ目【グループとチームの違い】
グループ…共通の性質で集められた仲間
     それぞれのメンバーが自分の能力を全力で
     発揮し全員合わせたものを成果とする事が主体
     メンバー内は同じ作業をする。守備一貫。
     ナショナリズムの発育
チーム…   目的の為に集められた団体
     現時点で解決する事が出来ていない課題を
     クリアにして行く力を生み出し成果を上げる事
     が主体。
     メンバー同士は違う役割を持って作業する。
     相乗効果。グローバルリズムの発育

2つ目【プロとアマチュアの違い】

※  プロの11番の使命を持つにあたっては前提としてい                  る方向性の違いによって正義vs正義の戦いに陥ってしまう可能性が大きく働いてしまう為、取り扱いは厳重注意が必要になる。


ジェネラリスト←(低い) 専門性 (高い)→スペシャリスト

アマチュア←(低い)意識.成果 →(高い)プロフェッショナル

ビギナー ← (低い) 熟練度 (高い)→ エキスパート

3つ目【ボスとリーダーの違い】

※ もし仮にコミュニティ内で責任転嫁や他力本願etc…の
    言動が表れ始めた場合、リーダorボスを不在に
    させると、お互いを尊重しはじめて協調性を発揮する
    場合が生じる。

もし既に、ご存知の方がいましたら
医者の無養生・ミイラとりがミイラにならぬ様
私自身の原点回帰も含めて再確認してみた事を
ご理解とご了承下さい。追記2022.3.14

納得は利他的、説得は利己的。
説得ばかりを強いらるて来た方ほど自身が納得したい願望が強く、腑に落ちず納得できないままでいる人程、キレやすく無意識な理不尽によって相手を粗末に扱ってしまう傾向が強く表面化してしまう。説得によって起きてしまったコミニュケーションエラーはプラスαとして構造と仕組みによる機能性と作業上もしくは操作上の難易度や、それに伴うリスクとメリットを開示する事により、急がば回れの精神で地味だけれども、誠実な対応によって最小限に抑える事に繋がり微差が大差を生みだすキッカケとなってくれる。追記2022.3.15 AM1:23

拡散に関してTwitterを例に挙げるとするならば
最初は使い方が良くわからずに、いいなと思うものを覚えておきたい履歴として使用していたのだけれど相手の方の言葉が自分自身の意思による思考だと錯覚を起こしてしまった。これは一概には言えないけれどTVの報道やNEWSなどでも起きてしまっているのではないだろうかと感じる事がある。基本的に自分で投稿したものに関してだけ補足したいコメントを付け足したり訂正したりしたい事の内容を付け足したりしてリツイートする様になった。私の異変に気付き、早い段階で助言して下さった方のお陰で自分自分のあり方のバージョンアップに繋がった。他者の方のリツイートをする場合は拡散希望のコメントが表記されているもので、その旨と主旨に納得できたものだけにしている。無意識の条件反射的なsns上のリツイートやコメントは場合によってはネット上での集団浅慮などの毒になってしまわない様、個人的に意識して注意深く配慮する様にしている。追記 2022.3.15 AM 2:36 加筆

〜観天望気〜
口達者な方を見ていると頭の回転が速いんだなぁと感心してしまう。本来、私は頭の回転が遅いから言葉にした時点で無意識の習慣的に条件反射の如く言い返さずにはいられない人に出くわすと気持ちがゲンナリしてしまう。
人が密集する所は何かしらイザコザが多かれ少なかれ起きてしまうのは致し方ないのかも知れないけれど。
私の周りには数少ないながらも、楽しく会話が出来る人もいる。やはり同じテクニカル系でも感情論でも、ただ闇雲に相手の話の反対の意を唱えるだけの論破や揚げ足をとる論破による僻論は本人にとってはカルチャーかも知れないけれど、主旨やお題目が見えていない時点で議論でも何でもないと感じてしまうのだけれど本人は至って議論だと
思っている。

言葉を立てる事と言葉が返ってくる。そして途方に暮れてしまう自分がいる。もう何も言葉にしたくない。そうすると今度は沈黙に耐えられな〜い。と突っ込んでくるか
口が出なくて、あからさまな態度でパーソナルスペースを犯して来る人もいるから困ってしまう。
何処か本人しか分からない憤りに対して自分に折り合いがつけられない自分を持て余してしまっている何かが分からなくなってしまっている自分がいるのだろう。でも立場を変われば自分も同じ事をされて嫌な気持ちになって来たはずなのに。僭越ながら信頼関係がもてる間柄ならではの沈黙の心地よさも、この世には存在している。昔は空気の様な間柄と表現していたのだと思う。

また、ちょっと偉そうになってしまった。ゴメンネ。

気持ちが荒みきってしまっている時は感じる事は出来ないけれど、そんな時にあどけない仕草や様子のものに出逢うと、とても気持ちが和む時がある。自然の多い公園に出掛けて景観の中の1部として自分が溶け込んでる様に感じる時もとても心地が良い。

理不尽さを知らずに育ってしまうのも困りものだけれども
理不尽を理解している人から教わる理不尽と理不尽という感覚を知らない人が教える理不尽とでは深刻さに雲泥の差が出てしまうのではないのだろうかと実感する事が多々おきる。そんな中でも、自分ではどうする事もできない
憤りを理不尽として反発してくる人もいてしまう。
私には受け入れ難い事でも他の人は受け入れやすく感じている事があるから不思議なものである。でも、もしかしたらそれが個性と言われるものなのかもしれない。でも良く考えてみたら、もし仮に地球上に自分1人しか人間が存在していなかったら、それは自生であって個性とは言わないのではないのだろうか。もしかしたら相手があってこそ
の上で個性が成立しているのかも知れないとアラフィフの
今頃になって思う今日この頃である。

いつだったか忘れちゃったけれど
ある時、辿り着いた自分への戒めの言葉として
不安を数え出したら雲の様に広がってしまって数え切れなくなってしまった。広がって増え行くばかりで減る事はなく気が滅入りそうだった。そんな時、ふ…と何かが降りて来た。そうか!信じる事なら1つでいいじゃん!
何て名案なんだろう。と思ったのも束の間。今度は誰を
という疑問が出てきてしまった。色んな人が走馬灯の様に思い浮かんでくるのだけれど、何処か帯に短かし襷に長しの事ばかりの数だけが不甲斐ないほど増えてしまった。
は〜っ。…とため息をついて空を見上げていたら
そっか!とまた何かが降って来た。世の中に自分と言う人間は1人しか居ないのだから自分を信じればいいんだね。
と…スッカリ自分の事を忘れてしまっていた自分に気がついた瞬間だった。追記2022.3.15 PM15:55 加筆

広義でいうなら憤り、狭義でいうなら理不尽
表現方法をかえるとするならば、憤りはマクロの視点
理不尽はミクロの視点と置き換える事が出来るのかも知れない。

私は映画を見に行く時は時間と、お金にゆとりがある時に限り同じ映画を2度は見る事にしている。邦画なら同じ映画を違う地域に見に行く。すると面白い事に同じ映画のはずなのに観客の方の笑うツボのシーンが全く違う。洋画の場合は同じ映画館で日本語吹き替え版と字幕スーパーを見る。すると映像のシーンは同じなのに日本語吹き替え版と字幕スーパーだと少し翻訳のニュアンスが違ってくる。
この定冠詞と不定冠詞と感覚の違いを、誰にでも理解出来る様にどう表現したら良いのだろうか。

私は子供を産んで母親になった。小学生にもなってくると
口答えをして来る様にもなる。ある時、子供達が夕飯のおかずに「これ食べる気分じゃな〜い。」
「また、これ〜。」と文句を言って来た。私は頭の中で
食費にかけられる予算が限られてる中で必死にやりくりしてるのにと思いながらも、思わず「嫌だったら食べるな!」と子供達に向かって言ってしまった。でもところ変わって仕事で販売の業務をしていると、お客様から「これ何ですか?」と尋ねられると「そんなのも知らないの?嫌なら帰ってくれる。」とは、その前に同じお客様から繰り返しカスタマーハラスメントを受けた訳でもないならば、とてもではないけれど口が裂けても言えない。直属の上司の口癖が「見ればわかるでしょ。」だからと言って上司から「これは何だ。」と尋ねられて「見ればわかるでしょ!」とは、とてもではないけれど言えない。

世の中には、取り越し苦労と言う事もある。研鑽値の違いから、それを抑えられずに口喧しく先に言っていまうのが老婆心という事象なのかもしれない。生き方に正解など何処にもなく、その日、その時、その場で最善の有りたいと願う姿を模索し続ける事ばかり。

適切かどうかは分かりませんが
別の表現方法するならば、感性と慣性とエゴイズムの差異による混濁という表現方法が1番、近しい表現方法ではないだろうかと考えています。
個人的見解による自己報告は以上です。
追記2.00.3.15 PM 21:48 加筆
思春期の時の今自分の頃は、「今の自分なら乗り越えられる。取り返せない時間の、あの時の乗り越えられなかった自分。」を思い返した事が何度あっただろうか。
追記 2022.3.15 PM 22:29 加筆

ちよキッカケは大事だと思うけれど…
やっぱり…ガッついてる人って良い訳がないけれど
幼な子ならまだしもダイの大人の場合、年齢性別問わず
敬遠の対象として見てしまう。どんなに上辺だけ取り繕っても普段から意識して癖づけしていないと逼迫してしまった時に綻びとなって思わぬ所で一時が万事となってボロが出てしまう。NLPも意識してはいるものの、それでも足りないと思う気持ちになる位、練習課題ばかりが未だに残る事ばかり。人間も哺乳類だから本能がある事からは背けないけれど心得る事は出来ると感じている。
でも「当てつけ」と言う言動は意思表示でもクリティカルシンキングでもキッカケでもない。また傍証はキッカケというより「手懸かりを見つける」と言う意味合いに近しいという認識の捉え方を私個人的にはしています。当てつけをされたら不快感しかなく人間性を疑いたくなり不信感に繋がってしまうので戒めとしてしない様にする事と自分への約束事としている。追記 2022.3.16 PM23:00

健康な状態の体を0とするならば
医療従事者の方はマイナスとなる怪我や病気を健康な状態の0に近づけるのが職務としての役目。0から飛躍的に能力を発揮するのは冷静な勇ましさ。騒がす、焦らず、取り乱さず。ジシンの様子は如何ですか。皆様、ご無事で居て下さい。
追伸 2022.3.17 AM0:15   3.16 PM23:34 ジシン発生

〜温故知新〜
AとBの従業員がいた。その場にいた直近の先輩が
「どちらでもいいからトイレ掃除をしろ。」と指示を出し
先輩は自分の別の業務をする為にその場を立ち去った。
するとAとBはお互いに顔を見合わせて暫くすると「どっちがやる?」「お前やれば?」「何で俺?」「自分が使うにはいいけど人が使った後のトイレなんて掃除したくないよ。」「お前が嫌なら俺だって嫌に決まってるじゃん。」
などなど…かれこれ30〜40分、口論している。見るに見かねたCの従業員が「ももいい!俺がトイレ掃除する!」
と怒りながらトイレに向かうと今度はAとBが「ちょっと待てよ!お前、先輩に気に入られたいのか!」とCがトイレ掃除をしようとした所を止めに入った。30〜40分も口論している時間があったら1基づつしかない男子トイレと女子トイレの2部屋の掃除は、とっくに終わっていたであろう。

ある企業さんで、お子様の対象年齢があるファミリー向けのイベントをするにあたり、どうしたら集客できるかというミーティングがあった。その時の議長さんから、母親という職業の1面もあると言う事で私に意見を訪ねて来た。
なので私は「商品代金の支払いをするのは親なのだから
親御さんが、このお店を良いと思わないと来て頂けないのではないのでしょうか。」と返答すると婚姻歴なしの独身男性の方が「親は子供が、あの店に行きたいと言えば来る。」と言い出し、今度は妻帯者の男性は「親が教えなければ子供は、この店がある事も、この店の商品がある事も
知るはずがないでしょ。親は知っていても子供には知られたくなければ教えないと言う場合もある。」という内容ばかりの堂堂巡りになってしまった。

良い事も悪いし事も1度上手く行っていまうと次第にエスカレートして当然の如くとして振る舞ってしまう。
慣れの習慣とは怖いものである。

シチュエーションが変われば鬼の首を取った気になってしまったり、鼻息あらげて鬼の首を取りにいかずには居られなくなってしまったり。立場が変われば「魔が刺した」や、ほんのじゃないけど「ほんの出来心で」などと言い出してしまう。

バタフライエフェクト効果と言う言葉も存在している。

記憶違いでなければ経営の神様と言われるピーター・F・ドラッカーの中の一節に「天才をあてにするな。 凡人が非凡な働きをできる組織が目指すべき組織である。」と言う節の中で、組織の中に優秀な人材が1人いると、他の人材はその優秀な1人の人材をあてにしすぎるあまりに、その組織は衰退していくと。
マネージャーやリーダーに選出してはいけない人材として
①強みよりも弱みに目を向ける者
②何が正しいかよりも誰が正しいかに感心を持つ者
③真摯さよりも、頭の良さを重視する者
④部下に脅威を感じる者
⑤自らの仕事に高い基準を設定しない者
とされている。

書道家の相田みつをさんの書の一節の中から
『あなたがそこに ただいるだけで その場の空気が あかるくなる あなたがそこに ただいるだけで みんなの心が やすらぐ そんなあなたに わたしもなりたい』
この文章の中の「ただ」は有料無料のタダとは似ても似つかないタダだと感じとる事は出来るのではないだろうか。

地位とか名誉とか肩書きとか役職とか
関係なく、金額だけでは測れないモノの価値をわきまえられる様な、ごく普通のただの1人の人として居たかっただけなのだけれど。追記2022.3.17 PM22:41
本日は以上です。

なくしてからでは手遅れだけれど
なくさないと分からない
今まで知る由も
見る事も感じる事も出来ずじまいのままでいるもの。
知らない子供の友人が私の事を見て見たいと言う。
私の事をアイツはいったい何をどう喋っているのやら…
時間と共に確実にあったはずの出来事
同時に消え廃れていくもの。
人脈、人望、人徳が確実にあると言い切る事が出来る
自分が今ここにいるだろうか。
自分への戒めの為の自問自答として。以上です。
追記 2022.3.18 AM 8:25 加筆

企業様には1作業にかかる平均所要時間と仕入れ発注のさいの平均発注数とが存在する。1作業に対して従業員1人あたりの平均所要時間は変動する。仕入れ発注に関しても取り扱いの期間によって変動する。でもしかしながら1平均所要時間と平均発注数を企業様が全従業員様に提示して下さっていても現場からは何も状況や状態の確認・報告なしに、「この数字違うんじゃない。」と撫然が出始めて個人的感覚で変更してしまう。だからと言って平均値の開示を廃止してしまうと「これじゃ分からない。」と社内クレームが多発すしてしまう。企業様が提示して下さっている平均値と自身の1作業あたりに要する平均所要時間や使用期間や品質保持を加味した必要平均値と変動値の差異の違いを把握できているだろうか。平均値と中央値では値が変わってしまうだけではなく企業様が開示してして下さっているものと1個人あたりが感じている平均値と中央値に対しても差異が生じてしまう。この誤差を私は把握しようとしているだろうか。また後から必ず支払う事になる過剰在庫や廃棄ロス、タイムロスなどにかかってくる企業様負担金や精神衛生面を考慮いているだろうか。自身への損得勘定やリスクダメージだけを考えていないだろうか。虎穴に入らずんば虎子を得ず。自分への戒めとして。以上です。
追記2022.3.18 PM21:20 加筆

伝書鳩の様に一語一句、間違わずに伝えなければならないコトズテと個人的見解を求められているのかと言う課題の分離が私には出来ているのだろうか。対等に扱って貰いたくてコトズテの中に個人的要望をいれてしまい、自身が
全く知らない事柄だけれども先方様が使っていた用語や
話題をもちだす事で気を引く様な事になっていないだろうか。PDCAの中のPの部分での目的と手段とが混濁してしまって入れ替わってしまう事象。

子連れで外食をした。楽しく食事をしていたけれど
子供達は食事もそこそこに「もう、お腹いっぱ〜い。」と、あまり食べずに遊び初めてしまった。騒がぬ様、子供達の様子を見ながら自分も食事をし、タイミングをみて
お店のスタッフさんに子供達の好きなデザートをオーダーして置いた。その間、子供の達には何度も「もう少し、ご飯たべたら?」と声はかけていたけれども見向きもしない。暫くしてお店のスタッフさんが出来上がったデーザトを運びに来て下さった途端に目の色を変えた子供達は「やっぱり、お腹すいちゃった!」と言い出した。思わずママは「さっきお腹いっぱいって言ってたじゃん!」と
ツッコミ「は〜っ…」とため息を付く。その姿を見ていたスタッフさんは、微笑ましいやりとりの親子の姿にクスクスと笑う。自己報告は以上です。
追記 2.22.3.18 PM22:25 加筆

どの企業様でも研修期間や研修生という様な期間があったりする。ネームホルダーにランク表示されていたりする所もあれば呼び名が変わる所もあれば無い所もある。
日本と言う単位でいうなら年齢制限による成人か未成年かという枠組みにあたるのかもしれない。私自身は転職などの場合での研修期間や研修生と表示されたネームホルダーを早く外したかった。何故かならば研修期間中の私が犯してしまったミスや失敗は指導者の責任となり私自身は注意や指摘をされなくても指導者や、その上の役職の方などの責任となってしまうからである。日本の風習の中に保護義務により子供の犯した罪は親に責任が生じてしまう。日本の企業様も基本的に同じ風習が根強く残っている所も多い。私が起こしてしまったミスや過ちが他の方に責任を追求されるのが心苦しかった。でもしかし、外部の方が穏やかな方ばかりとも限らなければ、研修期間中が終了し研修生で、居続け様としてしまう方もいれば日本の責任の所存の在り方の仕組みを逆手に負の利用をしてしまう方もいる。別の表現方法をするなば黙秘権を正と使用するか負と使用するかの違いと表現できるのかもしれない。
良く出くわすトラブルとして上長さんに先に、もしくはその場で確認もとらずに、お客様との間で社内にないオプションの約束してを取り付てしまう場合などがある。プライベートな場合でいうならば学校で子供達同士で勝手に遊ぶ約束を決めてしまい突然、子供が家に友達を連れて来てしまいママは大慌て。といった所なのだろう。それが犯罪レベルなのか、犯罪にはならなくても、その方の人生を変えてしまうレベルなのか微笑ましく笑える事なのかは状況や状態や、その方のキャパシティによってしまう事にもなりかねない。自分で決めた事であるならば、選んだ事であるならば誰のせいにもせずにすむ。たとえ自身が痛手を負ったとしても誰のせいにもぜずに、いられる自分でありたい。戒めとして自分自身へ…追記 2022.3.19 PM 13:41

〜空域〜
実際には存在していないけれど
地図上で示せる所でいうならパイロットの方や飛行機に
まつわる職業の方ならば航空審判領域となるかもしれない
ちょっと前の若者の流行り言葉ならKYになるだろうし
人に対してまつわる事ならばパーソナルスペースとか
プライベートとかノンバーバルコミニュケーションとか
コンフォートゾーンとか、その時のシチュエーションだったり、思い当たる言葉がそれしか思い浮かばなかったり
心境だったりする。日本語で他にあるとするならば
威厳とか威圧とか脅威とか萎縮とか遺憾etc…になるのかもしれないけれど何故か日本語にするとプラスの言葉を選びたいのにマイナスのイメージを連想する様な言葉しか思い浮かんで来ないのは私の現在の在り方の心境のせいなのだろうか。私に言語だけで効果的に指示の出し方だけを知りたがる方がいらっしゃるのだけれど以前も何処かに記述したと思うのだが基本的に私は教えない事としている。何故なら「仕事を振る」事と「仕事を任せる」事では意味が変わって来てしまうから。そこを理解せずに一括りに「指示出し」と総称してしまい現に大小の違いはあれど毎日、至る所で小競り合いという弊害が起きてしまっている事は否めないだろう。指示を出すのであれば部下や後輩のミスや失敗や失態も含めて自分が背負う覚悟がないものは指示出しとも言わなければ仕事を任せたとは言えないと感じている。そうでなければ何の配慮や基準値や考えも状況判断もせずに、思いつくままに仕事を振っただけでにしか過ぎない。赤の他人から見れば、独りよがりな見切り発車でしかなく、自分だけの1人称で事が済むならいいけれど、殆ど場合は、そのトバッチリや尻拭いに何の罪もない人が背負わされる羽目になってしまうから厄介。
個人的にはファシリテーターの自己主張と表現している。
指示出しをする人はカッコよく見えるかもしれないけれど
言葉には出さない複数の複雑な要因などを背負っている現実を知らずに振り真似や口真似だけでは、庇いきれない現実を直面せざるを得ない。別の表現の仕方をするならば
可処分所得・可処分時間が個人的にもある様に所属しているコミュニティや企業様にも、それぞれ存在している。強いて言うならば企業様の中では職務やポジションニングによって与えられている自身の一存で決定できる可処分権限と言ったら良いだろうか、言葉を変えると権限の移譲の範囲が何処まで任されているかと言える範疇がある。さらに表現方法を変えると有価証券や手形には裏書譲渡といのがあり不当たりを出してしまうと、とんでもない大変な事になるのだけれど不当たりが出ると有価証券や手形に裏書されている所を追跡調査していかなければならなくなってしまう。裏書譲渡する側もそのリスクを知った上で自らサインしている事を知らなくてならない。目に見える事や上部だけの言葉に囚われて見失ってしまっている事はないだろうか。違う捉え方をするとするならば自分の時間は大事だけれども相手の時間を粗末に扱ってしまっていないだろうか。自分にとって大事な時間があるのと同じ様に、たとえくだらなく見えたとしても、その人にとっては大事な時間。必ず人は誰かを踏み台にするか下敷きになるか実験台にするかの犠牲の上に成り立っている事を忘れたくない
自分がいる。相手に失礼な事にならない様、それに値するだけの対価交換や等価交換が私には出来ているのだろうか。奪い合えば足りなくなる。譲り合えば余剰と余情が生まれる。戒めとして自分自身へ…自己報告は以上です。
追記2022.3.19 PM23:07 加筆

日本トキの絶滅が確定したのは何年前だっただろう。
それを知った時、抗い様のない事実に身を潜めて
ただ過ぎ去る時の流れの移ろいのままに。
追記 2022.3.21 AM0:26 

結論から話してしまうとアピールとアプローチの
取り違えによる誇示強制言動の衝撃から起こる確執によっての弊害表現したら良いだろうか。
トーンポリシングやトートポリー、クリエイティブアヴォイダンスetc… 長年、不可抗力や社内外も含めてクレーム対応をして?来た中で必ずと言っていい程、リテラシーの乖離によるものが殆どだった。これでは余りにも抽象的すぎてしまうので少し深掘りしてみるとデリカシー・アイデンティティ・マナーの部分etc…その範囲がとても多岐に渡ってしまう。数日前に「ハラスメント大国日本」と言う見出しだったかな?の記事を読んでみて全肯定はしていいないが、唸らずにはいられない事柄ばかりだった。何故なら、嫌われたく無いと言う意識が強すぎて、もしくは、この人なら起こらないだろう許されるだろと言う意識から先制攻撃な方向に走ってしまう人を、お見受けするからである。また無知さを隠す為に、同調するべき所ではない所で
「そうよね〜。」「そうだろ〜。」や知ったかぶりを始め出していまう方がいる。でも本人がアピールをアプローチと思い込んでしまっていると他の人が何を言っても聞く耳持たずで、下手に指摘してしまえば逆上してしまう。私自身、40代半ばを過ぎてもそれに気づく事なくアプローチと思い込んでしまいアピールを強引に強制し続け自分の中に住み着いてしまった悪魔を抑えきれずに目の前で火だるまになって自死を遂げてしまった人を見て来た。そんな話しは、どうでもいいのだけれど…話しを戻すと、外国人の方と仕事の業務で、ご一緒させて頂いた時に「何で日本は、謝ってばかりなの?」と聞かれた事があった。その時、私は「英語で言うexcuse meに当たる言葉が日本語の謝る言葉と同じスイマセンを使うからだよ。」と答えたら理解して貰えた事があった。英語圏では学校の先生はteacherでお医者はdoctorって言うけれど日本語は同じ呼び名で先生っと言う。だから話しの前提やコンテキストによってでしかteacherなのか doctorなのか先生という表現だけで内容を端折りすぎると、まるでどちらか分からない事になってしまう。違う例えをするならば透明度の高い海や川を綺麗と表現する。人が飲料水として飲める水は綺麗で透明な水だから安心して飲めると表現する。でも川の水か水道水を表記されてないボトルに入った水を2本用意されたら、どちらが川の透明な水で、どちらが透明な水道水かを判別できるだろうか。多分、見ただけでは分からない。そこに川の透明な水は人が飲むと水当たりを起こしてしまう場合もあり人が安全に飲める水では魚は生息出来ないのは何故?
川の水と水道水の透明度の違いは?川の水か水道水なのか
判別出来ない水を飲む方法は?と、キチンと理解していれば怖がる事は何もないけれど知らなければ疑問だらけになり、それがいつしか疑念へと変わって言ってしまう。
20代の独身の方々と話しをさせて頂き時、とある恋愛ドラマの1シーンのセリフを言われたい。と言う話題で盛り上がってしまった。それは、それで良い事なのだけれど
余りにも言葉だけ追い求めてしまって妄想が膨らみ過ぎて現実離れをしていってしまった。そんな時に話題が私に振られてしまい思わず私は「言葉だけで本当にいいの?」と尋ねたら、俯いてしまった。はたまた、知人や友人と食事に行って、お財布も用意せずに「半分、私も出すよ。」と言われても社交辞令の口だけにしか過ぎないと判断されてしまうだろう。親子でもない限り「アンタもお財布を出しなさい!」とは他人が言うはずない。難しい表現するならば事実と既成事実を、どう見分けるのか?と言う表現方法に言いかえる事が出来るかも知れない。誤魔化しが、いくらでも効いてしまうのが言葉である。何をもって真実とするかは自分次第になってしまう。この記事の最初の方にフラストレーション相関図に戻ってみると、フラッシュバックとヒラメキの間には恣意が存在するのではないだろうか。また恣意は何かにかこつける事もすれば祈りにも似た願掛けにもなりうる事を肝に命じたい。戒めとして自分自身へ。自己見解による自己報告は以上です。
追記 2022.3.21 PM23:41 加筆

上達をしていく人は自身が行った言動や制作(製作)物の
結果に対して常に自ら課題の直面してしまい満足できる事の方が少なく。上達する素質はあるにも関わらず伸びない人は自身の行った事に対しの結果を見る事から目を背け
他者の行動の結果に対して課題と称して問題ばかりを論ってしまう傾向が強く出てしまいがちになってしまう。例外にもれず私自身スランプから抜け出せない時程、自分から目を背けてしまう。だから私は自分で自分にしか約束事をしないと決めている。追記 2022.3.22 AM0:51 加筆

1つの事象or現象に対して複数の要因が内包されている事が殆ど。事象や現象のインパクトや衝撃波の方が強すぎてしまい内包されている事が見えない場合もあれば複数の要因が絡み合っているにも関わらず一対づつ、としか思えない場合もある。蓋を開けてみたら、トンデモない事になってしまっていたと感じるか、現時点で見つかって良かったと思えるかは人や職種や経験値によっても様々だと感じている。数日前に「ハラスメント大国日本」と言う見出しの記事を読んだ時に感じた中で比較的、早くに思い浮かんだ要因を私なりに挙げてみた。1つ目としては「隙間産業」と言われるもので私個人的には自分のスケジュールとスケジュールの間の空き時間に別のスケジューリングを当てはめていく事であって、誰かと誰かの間に割り込みをする事とは違うと認識をしていた事。2つ目は、世界一わかりやすい「医療政策」の教科書という書籍の中の言葉を引用させて頂いて表現すると、第1章3項にある、医療サービスが市場原理が通用しない理由と第1章4項にあるモラルハザードと第2章2項の中にある、チェリーピッキングについてだった。特にモラルハザードの項目の中に関して「モラルという言葉が付いている為、道徳上の問題がある行動の様な印象を与えますが、モラルハザードには善悪の概念がなく、本来、必要としているサービスよりも多くのサービスを希望してしまう現象と事」と同時にゼックハウザーのジレンマという現象が生じてしまう事の部分だった。そしてチェリーピッキング(又はフィッシング)とは「検索的にデータ解析を行い統計的に有意になる関係性を見つけ出す事であり、御法度とする」の部分が特に際立ってしまって見えてしまっているのではないだろうかと感じている。そして日本語では「着いて行きたい人」と表現したりするのだけれど、これは、実際に着いて行ってしまうとストーカーまがいの行為に成りかねない。ましてや今の時代はスマートフォンの普及から本人には、そのつもりはなくても自制心が聞かずにSNSストーカーまがいの行為に陥ってしまっている方もいらっしゃるのでは?と感じざるを得ない時代に陥ってしまった。と疑念や猜疑心すら感じてしまう。「着いて行きたい人」と言うのは「人として、あり方を見習いたい相手」と私は個人的に認識している。そして模写とコピーとパクリは同一行為として取り扱わない様、戒めとして自分自身へ…自己見解による自己報告は以上です。追記 2022.3.22 PM18:17 加筆

餅は餅屋にという言葉がある様に
個人的には何も知らなくても楽しければ良いと思うのだけれど、専門家やハウスキーパーさんを雇える様な財力もなければ、その都度、お金を払って依頼できる程の収入もないので自分の中での5感を使った見極めラインの基準値が何処にあるのかを理解できる様になりたいと思っている。
無料と無償と無性とでは意味合いも変わって来てしまうけれど無心になるとマインドフルネスとかメディテーションとか座禅とかの意味合いのものと、お金の無心とでは方向性が違ってしまう。職業人としての概念と感覚と個人的な概念と感覚では個人的にそうしてあげたいけれど職務としては許されないという行為との狭間で、いつもせめぎ合ってしまう自分がいる。いざなった時に誰のせいにもしたくない。生体的に女性として生まれてしまった私はladyでいるか母として振る舞うか娘として振る舞うか、それとも今は職業人として振る舞うべきなのかの禅問答。でも、物覚えの悪い私はプライベートでも練習していないと身につかないから普段から意識する様にしている。何処でお里が知れてしまうか分からない。風が吹けば桶谷が儲かる。TPOを弁えられるられる人間でありたい。
自己報告は以上です。2022.3.22 PM21:55 加筆

小中学校で音学の時間で合唱をする時にソプラノ・アルト・テノール・バリトンとパート別に分けて歌った事が記憶の何処かにあると思う。各パート毎に分かれて練習をして、揃って来た所で合同練習をするのだと思うのだけれど
例えばテノールのパートの人なのに、何故か合同練習を始めるとソプラノのパートしか歌えなくなっしまう人が出てくる。1人で歌わせるか同じテノールのパートの人と歌えば与えてられたパートの音程で歌えるのに、何故か合同練習するど、どうしてもソプラノにつられてしまってソプラノのパートしか歌えなくなってしまう人がいる。スポーツのサッカーで例えるならば、周りがどんなにオフサイドに注意しても気がつくとゴール前にいて何時もオフサイドにしなからない場所ばかりに行ってしまう人を、どうしたらいいのか…となってしまう状況の様な気分と表現したらよいのかな。戒めでしかない自分自身へ。自己報告は以上です。追記 2022.3.22 PM23:14 加筆

私が差別化と言う言葉を耳にする様になったのは、かれこれ少なくても10年以上は経っていると思う。でもそれ以前より、もっと遥か昔から根深い事の様なにも感じる。「差別化」と称して各企業様が犇きあっていたのだと思うけれど差別化と言う言葉に何故か私は違和感を隠ししれなかった。私は各企業様が自社のオリジナリティを出す為の企業努力の事であって、特色化に近い意味合いとして捉えお客様の、お問合せの内容に合わせて対応の仕方の変更はあっても態度を変えての接し方は、エコひいきにしか過ぎないと個人的には理解していた。けれども、お客様や(個人的には、お客様と言う呼び名は使いたくない気持ちがあるのだけれど、理解しやすい表記として、お客様を使用して頂く事をご了承頂いた上で)相手によって態度を変えてしまう差別化が社内外に常態化している雰囲気だった事を強く感じざるを得なかった。人数には敵わないと言うならば
しがらみや、派閥が大嫌いな私にとっては、それは同調圧力でしかなく、それでも無理強いさせられるなら舌を噛み切って死んだ方がマシだと言う気持ちに駆られる位である。よく「言葉が独り歩きしている」とか「嘘つき」だとか「辞める辞める詐欺」とか「やるやる詐欺」とか「騙された」と言う言葉を耳にする事があるけれども、個人的に
私は、そうしよう思って、人が介入して手を加えて、その様な状態にした事は「人工」で、そうしようと思ってないのに気が付いたら勝手にそうなっていた状態の事を
「自然」と言う事を踏まえた上で「蘊蓄を傾ける」事とは状況や状態によってlight〜heavyまでの顕教値が必要。と考えるけれど「能書きを垂れる」には誰からか完コピした言葉の中に意図する事が含まれている言葉から騙した騙されたに発展し、興味本位で誰からかの話しを完コピした言葉を横流しにしただけ言葉から「嘘」や「偽り」や「言葉だけが独り歩きしている」と分ける事が出来るのではないかと感じている。その相手の方が現実逃避しているのか自己陶酔に浸ってしまっているのかにもよっての状況や状態でも言動も変わって来てしまうと思う。1人の人間でしかない私も例外に漏れずに至る所は否めない。それでも、何を前提に話しをしているのかを開示されてない話しに対して、個人的には本人から確認が取れるまでは信用しない噂話しとする事にしている。
昔、まだ学生の自分の頃、その当時、小さい時から幼馴染の友人がいた。その子は女・女・男の3人兄弟の真ん中で中学生になった辺りから「ウチの親はお姉ちゃんと弟に目をかけてばかりだから私は、お金をかけてやるの。」と言う様になった。そして必ず「こっちの気も知らないでさ。」と話しが終わる。私には、まるでない発想だった。それから月日は経ち、その友人は高校を卒業後、寮のある専門学校に通い始めた。ある時、出先のお店で偶然、その友人のお母さんと、久しぶりにバッタリとあったら、友人のお母さんは「あの子ったらウチに帰って来たと思ったら、あれが足りない。これが足りない。って言って
毎回、お金をセビってくのよ。でもね、学校で不便な思いしてるのかと思うと出しちゃうのよね。ダメよね。まったく…こっちの気も知らないで。」とポロリと我が子の愚痴を漏らしていた。別の場所で友人からも話しは聞かされているものの、親子間の問題だから私が口を挟む事は、出来るはずもなく「そんな事があったんだね。ですね。」としか言いようがない。でも、やはり親子とあって、同じ事を言い合っている姿はよく似ている。と言うより間に挟まれて話しを聞かされる、こっちの気も知らないで。でとは
こう言う事なんだなぁと思う出来事だった。
自己見解による自己報告は以上です。
追記2022.3.24 PM18:43

オリジナリティを出すと言っても基礎知識や基礎概念を蔑ろにしない事が大前提であるとして、私が企業様の差別化と言う言葉を耳にする様になった時には「競合他者との差別化」と表現されてる事が多く、個人的には「同業他者との特色化」へと表現方法を変更したい気持ちでいっぱいある。追記 2022.3.24 PM 19:09 加筆

幹事さんをやると、来て欲しいと思う人はなかなか
来てもらえず、新陳代謝させたいと思っていても
いつも来るメンバーが決まって来てしまう事が往々にしてある。そのコミュニティの醸し出すコンフォートゾーンから見えない結界を感じるから。オープンニングフタッフ募集の求人には多数の応募者が来る。選ばれたスタッフの中から主力メンバーが固定されてくると、本人達には意識になくてもその主力メンバーの醸し出す雰囲気のカラーが出来上がって来る。後から親メンバーが入って来ても、その主力メンバーのカラーに馴染めなければ、そのコミュニティにはいられないと感じてしまう心境から退社してしまう。既存のコミュニティには既に定着している主力メンバーの暗黙の了解となってしまっている本人達には気がつかない習慣性からくるカラーが出来上がってしまっているので類友の法則(類は友を呼ぶ)で結果的に似たもの同時にが集まる形になって行ってしまう。また、先代の置き土産
(人材・思想etc…)よるアレルギーも大小はあるものの併発してしまう事も生じてしまう。ベテランの方が何らかの理由で退社して自分のポストの明け渡しをする際に、自ら公認者を連れてくる場合もあれば後任者を社内外で探して頂く様、取締役や直属の上司の方に依頼して退社する場合とが存在してしまう。あの人が辞めるなら私も辞めようと
一緒くたになってしまう場合もありうるのは否めない。
教えている側も次のステップに進む様、卒業を促す場合もあれば次の世代へ自分のポストを明け渡し自ら別の場所へ移動しなければならない場合とがある。見送る側にもなれば見送られる側にもなってしまう。残される側のアレルギーが最小限に留められる様な人でありたい自分自身への戒めとして。追記 2022.3.24 PM22:22 加筆

投影・描写・逃避・陶酔、自分は今、何処なんだろう。
それもまた今の自分。追記 2022.3.24 PM22:51 加筆

仁・義・礼・智・忠・信・考・悌

キャリア論の構成とバリュープロポジションとuspの構成
出典引用 ジェームス・ケイさん

英語の出来ない私が言っても説得力がないのだけれど
正にも負にも総称として「仄めかす」と「おのまとぺ」と言われる日本語全般に含まれる言動は日本のみの習慣性で、少なくても英語圏や外資系の企業様では通じる事がない。意思表示や具体的または要点のみの説明や自身の感受性や感性にあたる部分など、その場に応じての言語化が必要とされてしまう。言葉から救われる事もあれば
狂気となって人命まで奪ってしまう言葉もある事を身に染みているからこそ、更に自分自身への戒めとして。完
追記 2022.3.25 PM19:14

結論から話そう。
カリスマ性とナルシストは違う。
と個人的には捉えている。2局下させたい訳では無く
分かりやすくする為に2つに要点を絞って表現した事を
ご了承頂きたい。
表現方法を変えると、相手に華を持たせる事を知らない(もしくは、忘れた)まま、鼻持ちならない人間にはなりたくない。と私は常に意識している様にしている。と表現したら良いだろうか。
上記の2つの事柄の内訳をしてみようと思う。
まず、最初に見えて来るのか理想論だと感じる。前提として私の中には少なくても理想論・目的論・原因論・結果論と最低4つの視野があると考えている。細分化してしまうと、もう少し増えてくるとは思うが、あえて、ここで表記する文章は理想論からの視点で記述してみようと思う。
理想論の中には自分と他者に対してがあり、年齢性別問わずカリスマ性を持っている方は自分をまだ未完成と思い続けている為、自分に対してのみの理想を追求している事に対してナルシスト性は自分を完成形としている為、他者に対してのみ理想を追求してしまうという方向性の違いがある様に見受けられてしまう。どちらを選択しても間違いではない。けれども他者からの受け入れられ方には違いが生じてしまう。
私が不眠症で病院で薬を処方して頂いている時に3.11で
輪番停電などの影響なども含めて、仕事が終わった後に
まだ受付時間に間に合うと病院へ行ったのだけれど、かかりつけの病院は既に閉まっていて次の日に、また仕事が終わってから病院に行っても、やはり閉まっていて、それを
何日が繰り返しているうちに飲み薬が無くなってしまった。処方箋がないと出してもらえない薬の為、どうしようと考えた挙句、疲れ果てれば嫌でも寝るだろと色々とやらなくてもいい事までやり疲れ果てて眠る為に、ひたすら動き回った。気がつけば落ちる様に寝ている。何で?と思う様な場所で寝ている事もあった。そんな事をして歳月が経ち気がつけば付けば、ぐっすりと眠る為に疲れ様としていたはずが、眠らない方法に変わってしまっていた。まだ矛先が自分だったから良かったものの、これが他の人に対して求める姿だったとしたらと考えたら自分自身、身の毛が与奪ような寒気が走った。自分だからよかったとはいえ
その代償が未だに尾を引いてしまってしるのは否めない。その時はそうせざるを得なかったとしても、でも全て自業自得としか言いようがない。自ら釣った魚には餌をあげない。では死んでしまう。これを昨今ではネグレクトと表現するかもしれない。近年は自らが生きながらえる為に
自分で食べちゃう事の方が多い時代とは思いたく無いけれど、そう感じてしまう部分は否めない。どちらにしても
死なせてしまうならば最初から釣らなければ死なせずに済むのでは?と考えてしまう自分がいる。年上の方だと
「ありがとう、ありがとう。助かるよ」とか「いや〜悪いわね〜」などと最初にお礼を言って来て「?」と思っていると、ついでに〜と言わんばかりに用事を押し付けてくる方を、お見受けするが私はそんな人にはなりたくない。と
常日頃から思っている。私にとってそれは、「煽てる」と言う行為であって、決して誉めてもいなければお礼でも感謝でもないと思っている。その人がキチンとやって来た事の事実から目を背けている事とも思うから。未熟者の私がおこがましい事は言えないけれど、作る事は簡単だったとしても理想論だけで片付けられ程、育てる事は一筋縄では行かない紆余曲折に遭遇する。自分自身への戒めの補足として自分自身には理想を求めるけれど、相手には理想を求めない事としている。何故ならば、相手にも別の意思があり理想がある事を尊重できる自分でありたいから。
自己報告にて「完」追記 2022.3.26 PM 23:35

お金に限った事ではないけれど、貸す側が「出世払いで。
ある時、払いの催促なしで。」と自ら言う分には良いけれど、借りる側が先に言い出したり、相手に、その言葉を言わせ様としたり、素知らぬ顔して忘れた振りをしてフェイドアウトし方法を模索した時点で、私は親兄弟に限らず見切る事としている。自分自身の戒めとして、後ろめたさと言う情動と、どう向き合って行くのかを考えるられる自分でありたい。自己報告にて。完 
追記2022.3.27 AM10:21 

全く制約のない自由ほど不自由で
少し記憶に制約が残っている事の方が自由を満喫していると実感する。自分自身の戒めの補足として。
節度と節操と貞操より。自己報告にて。完
追記 2022.3.27 AM10:56 加筆

結論から話そう。
厳しいとは感じるけれども
イジメも同担拒否も魔女狩りもゼロにする事は出来ない。
何故ならば無条件反射の中のセオリーは2つに同時に認識する事が出来ない人の性質が存在するからである。しかしながら自他共に最小限に食い止める事は可能である。
と表現する事が出来るのではないかと感じている。

表現方法を変えるとロックオンとロックアウトの原理と
ゲシュタルトとホメオスタシスが同時に発動している状態ではあるけれど何に対してのインスピレーションによる無条件反射なのかは分からない。と言ったら良いだろうか。

この記事の、お題目にもしているけれど理感一致させる事は身を引き裂く様な、もしくは体が捩れる様な、頭を掻きむしりたくなる様な思いと自己対峙をしなければならない程である。

私自身、自分の放った言葉が早い遅いはあるものの、タイムラグを経て自身の身に帰って来てしまう事を身につまされる様な出来事に遭遇したからである。
今に始まった事ではないけれど、今の旦那様と私とよく揉める事がある。時々、旦那様は私に「こんなに近くに一緒に居るのに一緒に居ない。」と言い出す。あながち間違いでは無い。旦那様が、そう感じるのだから他の人は私に対して、もっと、そう感じているんだろうなぁ。と思っていると横から旦那様が「違うなら、違うって否定しなくちゃダメでしょ。」と言い出す。すると私は思わず「貴方が、そう感じている事を何故、わざわざ否定しなくちゃいけないの?そこは認めてあげる所でしょ。」と口論になってしまう。そうかと思えば今の旦那様と籍を入れる前に出先で
昼食をし食後のドリンクを飲んでいる所にスタッフの方が
空いている食器を下げに来た。その時、スタッフさんが
私達の事を見て「自然体で仲の良い素敵なご夫婦ですね。」と声をかけて下さったのだけれど、旦那様に「違うなら違うと言わなくてはダメ」と言われていたの思い出し思わず私はスタッフさんに「違います。夫婦じゃないですよ。」と言ってしまった。そしてドリンクを飲み終わってお会計を済ませて店を出ると今の旦那様が何故か、かなりご機嫌が斜めになっている。私が「?」と思って「何かあったの?」と聞いてみると今度は「何でもかんでも違うって言うな。」と不貞腐れているから困ったものである。別の話しにすると、自腹を切らなくても(自分がお金を払わない)済むと思った途端に、やたらと指図し始まる人が世の中にはいていまう。そこまで言うなら手伝うのかと思えば何一つ手伝う事も無く、やたらと手の上げ方から下げ方まで逐一、口うるさいから困ったものである。マズローの欲求5階層説で言うならば帰属性の欲求に駆られているのだと思うのだけれど、お金を払う人の事を完全に度外視してしまうのだから、ため息しか出てこない。厳しい言い方をしてしまえば、口先三寸虻蜂取らず、とは正に、こう言う事を言うんだなぁ。と実感せざるを得ない場面に出くわす。当事者同士だと対処する事で精一杯の為、頭を抱えてしまう所ではあるが、世の中には、そう言った現象を、被害をやたらと大きくしない為に口には出さずともキチンと見分けて下さっている方がいる事は確かである。
また別の話をしすると、ある企業様での打ち合わせの時の事だった。その時はスタッフさんの指導についての様な
お題目での打ち合わせだった。取締役の方以外の上層部の方々から意見や感想は幾つか出たものの、今ひとつ何かを掴めないでいる様な雰囲気になってしまった。その時、取締役の方が「この会社に東大卒の人財が入社して来たら、
自分達に扱え切れる自身はあるか?」と一喝し問いかけると打ち合わせに参加していた方は全員、一言も返す事が出来ずに俯いてしまった。口にはしない迄も内心、「この会社にそんな人が来る訳ないし。」と思っていた人も、いただろう的な所も否めなかった。別の現場仕事の企業様に超エリートの方が面接に来たけれど扱いきれない現状は否めないと感じざるを得なかった事も事実としてあった。今の20代は大卒や専門学校卒の方が主流になっている現代。学校に行ってない私が言える様な事ではないけれど主流より上の大学院卒とか博士号を取得した方は一般の企業様では扱いきれないと判断されてしまい別の意味での逆差別が存在してしまう事実がある。身近な人での風評被害として
例えるならば、私の今の旦那様は20代前半で、お父さんを
無くし、最期の言葉として「母さんを頼むな。」と言う
お父さんとの約束を果たす為だけに大黒柱となって、妹さんを無事に嫁がせ、お母さんに寄り添い続けただけなのに
世間様からは、いつまで経っても何歳になっても結婚出来ない人は人間性に何か問題があるんじゃないの。と言う身勝手な風評被害による貼られしまったレッテルとの狭間で
過ごした決して口にはする事はない、心境があった事だっただろう。だからと言って、その心境を無闇やたらと誰かれ構わずぶつけて良い訳はない。自分自身への戒めとして
自己報告は以上です。追記 2022.3.31 AM 11:55

また別のシチュエーションでの結論から。
日本はnormalを主体としての文化であるのに対して
英語圏ではstandardを主体としての文化で成り立っている違いがある。
離婚の原因として日本では性格の不一致とされる事が多くあるが、ここ近年、私が勝手に感じとっているだけにしか過ぎないけれど個人的にはデリカシーの不適合と表現した方がしっくり来る様な気がしてならない時がある。
言葉を知らなかった私は仮説を立てる時に、どうしても拡散の仮説と終息の仮説の2つを考えてしまう癖が抜けなかった。何かが足りないと思いながらも頭の片隅に置いて置いていたらトリアージと言う言葉にたどり着いた。「そうか!私の探していた終息の仮説はトリアージと一言で言い表せるんだ」と見つけた時は、遠い昔からあった言葉なはずなのに、まるで第一発見者の様な気分になった。そんなこんなをして歳月が経ったある日。フェルミ推定という算式を東大生は学んでいる事をしり問題文を読んでみたら、私の探していた拡散の仮説はフェルミ推定て表現するんだと又、第一発見者の気分になった。事は同じでも工学系になるとオーダーエスティメーションと呼び名が変わる事を知り、又、第一発見者の気分になって楽しんでいた。
痛感させられる事も多いけれど自分が当たり前と思っていた事が通用しなくなった時程、伸び代に変わる時なんだなぁとも感じた。現状よりも好奇心の方が勝ってしまう事がある。加点方式で考えるのか減点方式で考えるのかでは、どうしても出発点となる視野と視点に違いが出てしまう。
私が車の免許を取得した時、母が道路に慣れる迄、助手席に乗ってあげるね。と言ってくれたのを喜んで受け入れてしまったのだけれど、そこから暫くの間、教習所よりも地獄の様な時間を過ごす事になってしまった。何かつけて助手席に乗ってくれるのは、ありがたいのだけれどブレーキの踏むタイミングやウィンカーの出すタイミングやハンドルの切り方など横からやたらと叱責が飛んでくる。母も車の運転をする人だったのだけれど、余りにも叱責が多すぎて、そっちにばかり気を取られて、何処の道を走ったのか、サッパリ記憶にない程であった。それが何日も何日も続き終いに私はブチ切れて「もう、車には2度と乗らない!免許証いらない!」と言って免許証をゴミ箱に捨ててしまった。そんなこんなの母とのやり取りを一部始終、見ていた父は「あ〜。またやりおった。」と、捨てたはずの運転免許をゴミ箱から拾って机の上に置いて置いてくれていた。
捨てたはずの運転免許が机の上に置いてあったのを見た私はゲンナリするしかなく免許証を見る度に負の感情しかなく2度と見たくないから机の奥の直ぐに見えない場所にしまい込んだ。数日が経ったある日。休みの日なはずの父が出勤する様な支度を始めていた。すると父は私に「これから仕事で出かけるのだけれど仕事とは言っても通常業務とは違う仕事でアルコールの席でもあるから、この後、予定がないなら、お父さんを車で送って欲しい。」と言いに来た。私は父に「もう、車に乗りたくないから嫌だ。」と言ったら「お父さんが横ならいいでしょう。ま〜そんな事を言わずにさ〜。お父さんが道案内するから。」と言われて、渋々と不貞腐れながら車に乗った。「○○迄なら道が分かるな。そこ迄、走ってくれ。」と言われ「分かった。」と言って車を走らせた。車中で父は「お母さん、そんなに酷かったのか?」と父に聞かれ私は「ゲンナリしていた教習所の教官より酷かった」と答えた。「そうか。そんなにうるさかったか〜。お母さんも心配しての事だからさ。」と私をなだめに入る。「確かに、お母さんより下手くそなのは否めないけど、だからと言っても酷かった。」と話しをした。そんなこんなしているうちに知っている道まで来てしまった。すると父は次に曲がる交差点や片側2車線で右折をするのに車線変更しておけ。など道案内だけをしてくれた。そして目的地に到着すると「帰りは今、来た道を帰るだけだけれど、来た時とは見える景色が違うから1度だけ説明するから、良く聞け」と言ってバイパスまで出る道だけを教えてくれた。「バイパスまで出たら後は1人で帰れるな。もっと荒っぽい運転してるのかと思ったけど、お父さんが思っていたより安定した走り方をしてたから安心したよ。気を付けて帰れよ。」と言って仕事に向かった。私は父に「分かった。バイバイ」と手を振って現地を後にした。そして帰りの車中では「いったい、お母さんは、お父さんに、私が、どんな風な走り方をしている説明をたんだ?」と勝手に心外された気分になりながらも無事に家に到着した。
私自身、ひとり遊びが出来てしまう事もあるけれど、というより無いと困るのだけれど第3者の誰かと一緒だと、どうしても接客するという玄関スイッチが入ってしまい、他の事に神経が張り巡らされてしまい自分自身に元々、備わっているはずの5感性が研ぎ澄まされた状態を感じなくなってしまう所がある。それにもまして人嫌いが災いしていまう事もあるから、出来るだけ1人で行動する事にしている。「300年早く、産まれて来る時代を間違えちゃったね。」と今の旦那様は私に言いつつも1人で勝手に他県だろうと出かけてしまう私に「いけず〜」と言い出す時があるから困ったものである。
normalとstandardの差異の中の5感性のシナプスは何処だろう。自己報告にて。以上です。
追記 2022.3.31 PM14:31 加筆

今日の結論。譲歩と妥協では趣旨(purpose)も違えば折半とも主旨(main point)にも違いが生まれる。概要の全体像を捉えるための要旨も忘れないでいたい。自分自身への戒めとして。自己報告にて。以上です。
追記 2022.3.31 PM 21:59 加筆

ここ近年は、色々な意味で個人の選択肢が開かれる様になった時代だなぁと感じている。
CtoCの代表格と言えば今ではメルカリさんは、とても
メジャーになっている中、まだまだマイナーな部分あるけれど、ストアカ(ストリートアカデミー)さんやタイムチケットさんや、お喋りが得意な方にはヴォイシーさんと言う様なCtoCのプラットフォームまである。個人の得意分野を活かしたPR活動が出来る時代が来るなんて想像する事すら無かったから。
私が歳をとったのか、それとも躍起になる事を辞めたからなのかは、よく分からないけれど…
気がかりか抜けない事の中の1つに、変えてしまうと不具合や誤作動が起きてしまい何があっても変更してはいけない作業手順や伝達経路、外すせない重要点と変更しても支障が出ない作業手順や伝達経路がある。前者は直接、目や耳に出来ない体感部分をも含めて「型」と日本では言うのに対して後者は眺めていただけと言う意味に近しい見聞きしただけの部分に対して「受け売り」と表現されると個人的には認識をしていたのだけれど近年では受け売りの事を型と認識する傾向が強くなっていると感じてしまう様になった事を気の所為だと思いたくなる自分がいる。
例えば、一生を同じ職場で過ごす事の方のほうが少ないと感じるのだけれど、今まで、やった事のない他業種に転職する時の心機一転と同業種に転職した時の心機一転とでは、自身の気持ちの趣き方に違いが出てしまう。他業種だと何もかもが目新しく何も知らないが故に、素直に指導されている自分がいる事に対して同業種だと全てを知った気になってしまって素直に新しい職場での、やり方や方法を知ろうともぜず覚え様ともせずに我を通してしまったり、最悪な場合は、新しい職場のやり方を否定してしまう場合まで出てきてしまう。
また違ったシチュエーションでは自身が決定しなければならない事を放棄して他者に決定権を委ねたのならば、その結果に対して、良い訳ではないけれどブーイングで済むならまだしも誹謗中傷してはならないはずなのに相手を責め立ててしまったり、仕事を優先した上でプライベートの予定を決めようと会社の都合を伺っているのに「何かあるのか。」と言って会社側の予定の開示をしない逆のパターンの場合もある。職種にもよるけれど先方の取締役が当方の何の権限も与えてられていない従業員さんに、話しが早いからと当方の取締役に通すべき話しを通さずに決定権の必要な事柄を伝えて自らの交渉や打ち合わせを省いて来る方もいる。働いているのは自分自身なのに主人に聞いてみてからでないと…や成人しているのに親に聞いてみないと…とお茶を濁したりする場合もある。
視点を変えてみるならば「型」は自責で「受け売り」は他責とも言えるのではないだろうか。
自分自身へ自戒を込めて。自己報告にて。
追記 2022.4.1 PM 22:19

動じる事のないおおらかさと杓子定規は違うと思うんです
別の言い方をするならば前者をstreet smart、
後者をbook smartとも呼べるだろう。
話しの議題に関係なく、相手の言った事に対して結論もなければ話しのオチや落とし所に関係なく、反転させただけの言葉をやたらと返してくるだけの人がいる。私はたまりかねて「貴方は何を求めてるのですか?」と尋ねると。
口を噤んでしまう。これもbook smartの中の1つの特徴的な傾向だとも感じている。それに対してstreet  smartの方の場合、微差が大差を生んでしまう事、神は細部に宿る事を実践て熟知しているからこそ、慌てる事がない状況だとかや緊急を要する事であっても動じる事のないおおらかさを兼ね備えているのだと感じている。
2000年代の始めの頃だったか我が家にもパソコンとインターネット回線が繋がった時の事だった。たまたま私が体調を崩して横になっていると、今は亡き前夫がパソコンを開いて私に病状を聞いて来た。私は聞かれたから答えただけなのだけれど前夫は「○○だから病院に行け。」と言い出した。私は「もう少し様子を見る」と横になったまま伝えると「いいから早く病院に行け。」と言う。私は「チョット待ってよ。貴方は国家資格を持っている、お医者さんじゃないでしょ。」と言うと今度は「俺が嘘を言ってると言うのか!」と怒り始めた。私は「嘘を言ってると言いたいんじゃないの。お医者さんでもない貴方が病名を断定するのは危険なんじゃないの。と言いたいの。」と伝えると「俺はパソコンで、ちゃんと調べた!間違ってない!」と
さらにヒートアップして激怒し始めてしまった。私は「パソコンは実際に治療してくれるお医者さんでもないし。お願いだからもう少し横にさせて。」とお願いをすると。さらにオーバーヒートの激怒を起こして「俺の何が間違っているのか400字以内で答えろ!」と話しの論点が、とんでもない方向へとなってしまった。もう少し横になってたら
体調が良くなると思っていた私は、更に体調不良が悪化してしまった気分になってしまった。良くも悪くも人は慣れてしまうけれど、マンネリからくる杓子定規の固執とは
何ともしがたく恐くもある。自分自身への戒めとして…
自己報告にて。追記 2022.4.2 PM14:09

形あるもの、いつかは壊れる。
けれど誰がやっても、遅かれ早かれ必ずそこに辿り着く
普遍的なコアな部分の口伝がある。
何かを始めた出した時はbook  smartからだった。
でも初心の時の杓子定規によるジレンマや投げやりと
惰性となった怠慢による杓子定規によるジレンマや
投げやりとでは、状態や状況も心境さえも違って来てしまう。初心、忘るべからず。(初心不可忘)
Don’t forget your first resolution.
自分自身への戒めも込めて。自己報告にて。以上です。
追記 2022.4.2 PM23:23 加筆

結論から話そう。要点としては3つ。
①アイスブレイク
②ハイコンテキスト文化
③ローコンテキスト文化
アイスブレイクの段階で、どうやっても摩擦を起こしてしまう方が出て来てしまう。何故ならば、ハイコンテキストとローコンテキストでは習慣性と表現方方法の違いを理解しきれていないと言う現状があると考えている。

何十年前だっただろうか。近所に旦那様が日本人の国際結婚をした、ご夫婦の方の奥様と話しをしていた時の事だった。その奥様は日本で言うと小学校5〜6年程の日本語を
とても流暢に話す方で、こちらが喋り方の速さを気にしなくても日本語を聞き取れる位だった。その奥様に「何故、
日本はデモが起きない?」と聞かれた事があった。何で私に聞くのだろうとも思ったのだけれど…「日本にデモがない訳じゃないよ。意味としてはボイコット(不買運動)の風習が方が根強い人種的文化と言った方が近いかな。そしてデモにまで行っちゃとデモクラシーなのかデモンストレーションなのか、どっちにしたら良いのか分からなくなっちゃう所があるんだよ。」と私なりの見解を伝えた所。何故か「オ〜!ナルホドー!」と妙に納得してくれた。少し日本語の話を深掘りしていくと、「お茶を濁す」とは「その話題には触れたくない」と言う意味合いで使われる表現方法が日本語にはあるのだけれど、私の世代の方でも既に知らない方が多く「お茶」「ゲップ」「肩を叩かれる」の意味を知らずに日本男性の厳しい縦社会の現実がある事を知らないまま、時には居直ってしまう事の弊害が実状として起こってしまっている。でも近年では大卒の方が主流となって来ている事も多くコーピングが当たり前に出来る様になってきている現代では、そう言った隠語的ニュアンスの日本語は不必要な時代になって来たのかもしれない。それよりも職業別専門用語の方が重要視されて来ているのだろうか。と言う所である。自己見解にて自己報告より。
追記2022.4.5 PM12:52

何故か自分が思っている自分と相手に印象として残っている自分が、まるで違う自分だったりする。
話したつもりと錯覚してしまう頭の中の独り言。
実際に自分の事だけを喋り過ぎてる事に気づかず
ふ…と我に帰ると相手の事を何も知らないままに、自分だけが取り残されてしまった情動に苛まれる自分。
個性、個性と言われる様になった平成の中で、自己主張の方が強いと感じざるを得ない事の方が多かった。やたらと私に敵対心をあからさまにして来る方がいた。私には、そんなつもりはまるでない。何故なら出来る様になりたい課題が別にらあるから。でも相手はそんな事は、お構い無し。ため息しか出てこない。その相手の方と時間が重ならない様に努めたものの出くわしてしまう時は出くわしてしまう。やはり私の顔を見つけるなり噛みついてくる。
溜まりかねた私は思わず「それが貴方の個性ですか。それとも何かの職務による役割からくるキャラクターを演じてるのですか。」と尋ねると、黙り込んでしまった。
その後、その方とは2度とお会いしていない。
追記 2022.4.5 PM15:09 加筆

上司が部下を更迭する事はあっても
部下が上司を更迭つする事は日本ではあり得ないから
日本ではボイコットが主流になる。
追記 2022.4.5 PM16:27 加筆

私の中では喋り言葉と文章言葉はまるで違うものだった。
でも他の人は同じと感じていた。
適切な表現かどうかは分からないけれど私の中には義務教育に助けられた半面、義務教育による弊害をとても感じていた。不可抗力も含めてクレーム対応に明け暮れる様な
毎日の中で、幾つかある中で必ずと言っていい程、トラブルとなる所が前提の違いによるものだった。日本はどうしても義務教育によって、ここ迄は理解できているだろう事を前提での話しが始まってしまう。高校生なら中学生のレベルの事は理解していて当然として話しが進みだす。その矛先がお客様に向いてしまうのだから遺憾ともし難い気持ちになる場合がある。私はそれを義務教育の弊害と感じていた。ある外国人の方から日本の子供は何故、こんなに長い時間、学校にいるの?と聞かれた時は流石に困った。
私が生まれた時にはそうなってたし。その外国人の方の母国では午前中は学校で午後は、どうするのかは自分で決めると言う。外国だと識字率が疎らだから知らない事を前提として話しを組み立てていくと言う。ましてや現代の日本の20代では大卒が主流となれば尚更、知っている事が当然となる底辺に違いが出て来るのも否めない。でも老婆心を承知の上で言うならば知っているからと言っても出来るとは限らない。ましてや既に出来る様になった事は帳消しにする事は出来ない。別の表現の仕方をするならば自転車に乗れる様になる迄は大変だったけれど1度、自転車に乗れる様になったら暫く乗らなかったからと言って感覚は鈍くなっていても乗れる訳で…自転車を使わない選択は出来ても自転車に乗れないと言う選択肢は無くなって来る。
もっと原始的なモノで例えると火と刃物は、とても便利だけれども殺傷力を知った上でキチンと使えば便利なツールでも殺傷力を知らずに使ってしまえは凶器でしかない。でも火と刃物には意識もなければ自我がある訳でもない。結局は使う人の意思と自我に委ねられてしまうしかないツールである。ある意味、お酒もその1つだろう。
人間って悲しね。その場では、どんなに分かったと答えても本人に、やった自覚がなければ、何度でも同じ過ちを繰り返してしまうんだよね。でも、それも第3者の目線でしかなく他者からでなくては分からな視点だったりするんだよね。自己報告より。自分への戒めでしかなく…
追記 2022.4.6 PM22:59 加筆

私の座右の銘は
やってみて結論をだしてみなければ
対処法も見つからない。としているのだけれど
喋る相手が違うと、何もしない事の方がデメリット。たとえ失敗に終わったとしても得られる事の方がメリットになる。と伝えないと行けない時もあれば、また違うシチュエーションで違う相手に伝え時は、墓穴に入laずんば己自を得ず。と伝える時もある。表現方法に違いはあっても事象は同じ。でも…伝え相手を選ばないと「?」or「何それ?」となってしまう。だからと言って私が怖がりではないかと言えば、そんな事はまるでなくて、尻込みもすれば怯む事さえ日常茶飯事。窮地に立たされる度に自分自身に唱える言葉である。
当事者としては面白くも何ともないけれど、世の中には
呼ばれてなくても地獄耳の如く、自分の得意分野となると
突然、割り込んできて相手の話しや業務を掻っ攫ってしまう人がいる。本人は何の悪気もなければ、最悪の場合には
手伝ってあげてるとすら感じているから困ったものである。チキンと止められる人がいれば良いのだけれど、昨今では止める方が悪者にされる時代だから誰も何も言わない。ましてや、本人に自覚がない以上、何を言っても馬の耳に念仏でしかない。ある企業様で勤務していた時の事
決算に当たり帳簿の締め切り業務をやっていた時の事だった。突然、取締役が当方の取引先どうしの買掛金を同じ数字になるはずだから相殺しろ!と言い出した。私は知っていたので「帳簿上、それは出来ません。同じ貸借対照表の数字も同じになる事もありません。」と伝えると、取締役は「そんなはずはない!俺は税理士に聞いてやっているから間違うはずがない!」と強情を張る。実際に計算して
数字を出したものを見せても「そんなはずはない。」の一点張り。再度、私は帳簿上やってはいけない処理方法だと
伝えると目の前で担当税理士さんに電話を確認した所、
やはり「それは駄目だよ。」と携帯電話から音漏れする言葉が聞こえた。それでも尚、「お宅の言う通りにやったんじゃないか。」と鼻息あらげ、音漏れする携帯電話からは
「そんな事は説明してない。」税理士さんの声が聞こえて来る。頭に血が昇ってしまった取締役の様子を見に奥様まで出て来て取締役を止めたけれども収集が付かなくなってしまた事態に冷却期間が必要になってしまったのは言うまでもない。またある時は直属の上司から小型機械の操作方法を教えて欲しいと名指しで依頼されたので私が準備をしていた。小型機械の準備が出来た事を直属の上司に伝えに行き、いざ、作業を始めよとした所、その小型機械を同じく操作する事が出来る別のスタッフさんが突然、私が開口一番に数文字しか喋っていないのに大手飛車取りと言わんばかりに説明をし始め出した。教わる側の立場を考えると
頭が混乱するばかりか、あっちを立てれば、こっちが立たずになる状況が分かったので私は静かにフェイドアウトした。シチュエーションの違いはあるものの表面上、良くにた行為の中でインサイダー取引と相殺が混濁したような弊害が良く起こる。でも冷静さを見失ってしまった人には
何をどう伝えても伝わる事はない。自身の戒めとして…
追記2022.4.7 PM17:05

私の個人的な感覚でしかないから、合っているとは
とても思えないけれど、平成と言う時代に生まれた格差社会の中で偏見される事を無くそうと大学への進学率が急増して行ったと感じる中で気づく事なく進行してしまった分断が令和のコロナ禍によって格差社会は埋まる事なくそのまま明るみになった様に感じている。食物連鎖と植物連鎖。食物連鎖の頂点は人なのかもしれないけれど目に見えない細菌やウィルスには抵抗力を失ってしまう部分は否めない。誰かの足元を見て高笑いしている人の側には、人知れず悲しんでいる人や拳を押さえながら怒っている人が必ず存在している。隠し事をしていないから無闇に激昂する事もない。無料配布されているものばかりを集めてみても、必ず、違う誰かが料金を払ってくれているた。大手チェーン店は原材料を大量仕入れ出来るからこそ1個当たりの商品価格を抑える事が出来る。でも仕入れ量の少ない中小企業や小売店が大手チェーンの安売り価格競争に対抗して値下げしても利益率は見込めない。そしてお客様も便乗して安さと速さだけ追い求める様になってしまった。それでは共倒れにしかならない負のスパイラル。値段の裏側にある企業努力や品質を見極める事に努めているだろうか。
私は適正価格を納められているだろうか。資本主義と聞くと真っ先に、ファイナンスが連想されてしまうけれど、確かに、お金は大事だけれど、お金だけが資本だとも思えない。私の中で、お金はツールの中の1つであって目的にはしていない。体力だって資本だと思うし人望etc…だって資本の内の中の1部だと思っている。能ある鷹は爪を隠す。(Cats hide their claws)(真人不露相)。なくしてから気付く必要性。なくても何とかなる順応性。心まで貧しくなりたくない。そんな自分でありたい。自己報告にて。自分への戒めとして。追記2022.4.7 PM20:33加筆

「安物買いの銭失い。」
とある企業様で取締役より「人件費削減」の指示が降りた。すると直ぐに上層部はシフト調整に入り部下の出勤日数を減らした。では、その穴埋めとなる業務を自分がするのかと言えば、手伝う気もサラサラなかった。逼迫する現場スタッフ。何とか、その日の業務は終わらせる事は出来るが日毎、疲弊していくと共に罵声が飛び交う様になった。だからと言って、上達したかと言えば、こなす事に精一杯で作業は乱雑になるばかりで、かえって余計な作業が増えてしまっただけで何も上達していなかった。
私が教えて頂いた「人件費削減」とは今現在、足りていない部分を教育(指導)しロスタイムに繋がってしまっている
無理・無駄・ムラの作業と無くす為の再確認をしなさい。と言う意味合いの事だったので、全くをもってビックリしたものである。
確かに経費の中では人件費が一番、大きな割合を占める事は確かだと思う。人件費のもう一つの一面として、ある程度の中堅どころになると、下手に知ってしまっている年上の方より比較的安い給料で雇えて且つ何も知らない若年層の人材を好む傾向が出て来てしまうのは人の悲し性なのかもしれない。後継者を育てて行くには若年層の方を入れなければならないけれど、はたして若年層の方だけを集めて企業内の質は保持できるだろうか。と言う疑念が湧いて来てしまうのは年の功となってしまったからとしか言わざるを得ない。実際に貧乏子沢山と化してしまっている企業様もお見受けしてしまう悲し現実がある事も否めなければ実際に出会している。近年になって男女の比率や年齢層に偏りがない企業様の内部企業努力には頭が下がる気持ちで一杯になる。
私が最初の結婚が決まった20歳の時。父は私に「結婚をするとな、幾度なく背に腹はかえられない時があるけれど
そんな時こそ、歯を食いしばってでも落としてはいけない質があるんだよ。」と教えてくれた。その時は幼すぎて分からなかったけれど、父は折を見ては母によく「米と焼き海苔と味噌だけは何があっても安いものを買うな。」と言っていた事を、この事ばかりに思い出した。口数の少ない父ではあったけれど、またあってお喋りしたいな……でも
もうこの世に居ないからなぁ。でも、今でも、お洒落なお洋服が買えなくても、お気に入りの美容院に行けなくても
欲しい物が買えなくても、お米と焼き海苔と味噌だけは
何があっても安いものは買わない約束はちゃんと守ってるよ。お父さん。そこに誇れる自分がちゃんといるよ。
ありがとう。追記 2022.4.8 AM9:40

とある現場で積み込み業務を手伝わなくてはならなくなった時の事だった。その時、1〜2つ年下の同性の同僚の方が1人いたのだけれど私は既に結婚をして子供が小学生になっていた。その方は独身を謳歌していた。その同僚の方は、事ある毎に私に「ブン相応」と言っては自分の家柄の事や出た学校の事を話していた。最初は何を言っているのか分からなかったけれど、そのうち「ブン相応」のブンは、どうやら身分のブンらしい事が理解出来る様になった。でも何故かその同性の同僚は異性の先輩の従業員さんからは、いつも注意を受けていた。何故、注意ばかりを受けてしまうのか良く分からなかったのだけれど積み込みの作業を一緒に手伝ってみて、理由が分かった。作業現場に行くと伝票が挟んであるバインダーを手渡されて先輩の従業員さんからは荷下ろし順に伝票を組んである、このひと塊の荷物を全部積み込みむ。とだけ伝えられた。無闇に手あたり次第、積み込んでしまうと荷下ろしをする時になって探さなくてはならなくなってしまうから、と考えると
一番最初に荷下ろしをする荷物を一番最後に積み込みをしなければ実際に荷下ろしをする人が困ってしまうので私は一番最後におろす荷物を探して荷台の上で受け取ってくれる先輩に渡しに行った。すると同性の同僚の方は目についた荷物を手にして荷台の上に居る方に手渡してしまい。「違う!これじゃない。伝票を見なさい。」と先輩に言われてしまった。すると、その次に同性の同僚の方は伝票が一番上になっている一番最初に荷下ろしをする荷物を荷台の上に居る先輩に渡しに行き、また「違う!これじゃない。」と言われてしまい、荷台の上で受け取って下さっている先輩からは「違う!」の連発を受けてしまったのであった。そんな私も例外に漏れず、幾度となく地雷を踏んできた事だろう。反省の意を込めて。

「文はこれ糟粕なり。文はこれ瓦礫なり」
これを日本語にすると「文武両道」が近いかもしれない。その対義語は「虎の威を借る狐」となるのだろうか。
自己報告にて、自分への戒めとして。
追記 2022.4.10 AM9:05 
で…実は、この話しにはオチがあって…
この後、荷台の上で受け取り係をやっていた先輩と同性の
同僚さんは、愛でたくカップルさんとなりましたとさ。
追記2022.4.12 PM12:10

とある企業さんでの出来事。
やたらと「一生のお願い」をしてくるスタッフさんがいた
直属の先輩の方々からは生意気だと煙たがられて調子に乗りすぎては良く先輩達から一喝されていたけれど。本人は全くを持って懲りない。ある時、終わらせなければならない業務がまだあるにもかかわらず、仕事の後の友達との約束に間に合わなからと退勤時間が同じだった私に一生のお願いだから車で送って欲しいと拝みに来た。何時迄もたっても「一生のお願い」と拝み倒しにくる。私を拝み倒す時間があるのならば、終わらせるべき作業をした方が早く帰れるはずなのに、遊びに行きたい一心で全く作業に手が付かないのである。その場に居合わせた上司が行きたいなら自分で行けと言っても、全く意を返さない。ひたすら私を「一生のお願い」と拝み倒しに来るだけだった。こっちまで終わらせなければならない業務に支障が出て来てしまい
溜まりかねた私は「最後迄、他の人に2度手間をかけさせない仕事をキチンと出来たら送って行ってあげるよ。」と
伝えると、途端に現金な態度を変え残りの作業をし始めた。約束通り、仕事を終わらせた後、その方を乗せて目的地へと送り届けた。すると、その方は車をおりる間際に「やった!タクシー代○○円、浮いた〜!その分これから△△代に使える!」と私の車のドアを閉めて喜び勇んで、待っていた友人の所へと姿を消したのであった。日本と言う国は面白いもので、そんな方でも勤続年数さえ長けば社会的信用があるとみなされ何かと優遇されてしまうものである。
社会的信用と言う観点から、よく今の旦那様と口論となり
最終的に3日〜1週間、口を利かなくなる事が多々あるのだけれど…旦那様の勤続年数から考えると、私には勤続年数がまるでないに等しくなる。すると必然的に私の場合
いい加減で堪え性のない体たらくな人罪としての世間体の
扱いになってくる縮図が出来上がってしまう。あまり思い出したくないけれど今は亡き前夫も離婚が成立して別居が出来ないでいる間は毎日の様に「俺の世間的信用がお前のせいで無くなった責任をどうしてくれる!」と捲し立て日毎に脅迫まがいな内容に迄を言い出す様になり子供達の命にだけは何かあってはいけないと神経を尖らせていた事もあった。
そんな事を思い出すはずではなかった。遺憾…遺憾…
気を取り直して…。個人的には近年は正確の不一致よりも
デリカシーの不適合と言う事を言っているのだけれど
これをマネジメントの観点から捉えてみる事にする。
40年以上クレーム対応をして来た私の個人的な見解から結論を先に伝えてしまうとクロージングの悲劇。もしくわ
決定権と裁量による悲劇とも言い表せると感じている。
これは尊敬する方から、ご指導頂いた事なのだけれども
ご本人様の承諾を得ていないのと、公開し過ぎてしまうとその方の仕事を奪ってしまいかねない事を考慮し私自身も他の人の仕事を奪ってまで、のし上がる気は全くないという意思表明の元、公開できる範囲内で引用させて頂く事とすると①アポイントメント②アプローチ③ヒアリング④プランニング⑤プレゼンテーション⑥クロージング⑦契約そしてまた①に戻るの繰り返しとなるのが人の真理とされているのだけれども、先方様からにしても当方からにしても①アポイントメントは取り付けたものの②アプローチの段階で③④⑤を飛ばして突如として⑥クロージングを迫ってくる方か、どうせ分からないだろうからと恩着せがましく先延ばしをしてしまいトラブルに至ってしまうか見限られてしまったケースが大半を占めている。
話しを元にもどすと、それが私の言うデリカシーの不適合である。でも、私には勤続年数がないので社会的信用はまるでない事を承知の上で参考の1つとして面白がって頂けたら幸いです。追記2022.4.12 PM13:49 加筆

仕事はヲタクであれ。趣味はマニアックであれ。と教わった事があった。言葉にしてしまうのは簡単ではあるけれど
言うは安し行うは難しい。この言葉が反転してしまったが為に起こってしまった弊害が五万と溢れかえっている。
例えば、カレーライスを食べた事はあるけれど作った事がない人にカレーライスの作り方を教えなければならないとした時に、オーソドックスな材料と作業手順から教え始める人と、カレールーに使用するスパイスの調合から教え始める人がいる。どちらから入っても間違いではないけれど自分の落ち入りやすい癖を知っていないと上達する所か元の木阿弥になりかねないと感じる事がある。違う例を挙げるとするならば、何処の企業様でも必ずと言って良い程、起こる弊害が職種による書き入れ時の出勤形態である。
下の子が2〜3歳の頃に私はパートとしてであるけれど社会復帰をした。その当時は子供が小さいと言うだけで、中々、受け入れてくれる企業様も少なければ、受け入れて下さる企業様でも、働きたい希望時間は激戦区と化していて、とてもではないけれど倍率の高さから企業様にとって有利な方から採用が決まって行ってしまう。受け入れざるを得ない事実と直面しなくてはならなかった。そんな中、採用して下さった企業様は土日祝日は稼ぎ時の為に出勤してくれる人を募集していた。私には曜日は関係なかったので口約束ではあるものの出勤できると言う事で採用して下さった。実際に仕事が始まってからと言うもの出産と育児をしている間に、こんなにも仕事の仕方が変わってしまったかと、浦島太郎にでもなった気分になった事もあった。そんな、ある日の事、近所の先輩ママさんが、突如として私に「採用さえされれば、後は出来ないと言えばいいのよ。でないと都合良く使われるだけ使われれて損するよ。」と言って来た。私自身、それは何か違う様な気がしていたので、書面ではない口約束だけれども土日祝日に約束通り出勤していた。他の人からみても物覚えは悪いし業務が下手くそだったのはあきらかなのだけれど、土日祝日に約束通り出勤をしていた事もあって、どうしても土日祝日に当たってしまう予定に対して直属の上司が融通を効かせて下さる様になった。そんなこんなで…
いつしか歳月が経ち面接官ではないものの、新しい方を迎える側に立った。すると最初の頃は学生の方とは限らずに
出勤して下さっていたけれど、いつしか土日祝日を避ける様な出勤に変わって言ってしまう人が多くなってしまった。最初の面接での、やり取りが、どうだったのかは、その場にいた訳ではないので分からないけれど、面接担当者
からは土日祝日に出勤できると言う約束で採用したけれど
入社した途端に出勤できない。と言い出したという。でも採用された側は出来ないって言ってるのに無理やり業務をさせられる。と言う。しまいには、あの会社は出来ない事をやらされる会社だから募集が入っても行かない方がいいよ。と噂が広がっていた。平均的にお客様が来て下さるのならば、そんなには大変ではないけれど、来店したい時間帯や曜日が重なってしまい平日と休日では業務量に差が出てしまうのは自分ではどうする事も出来ない。実際に決定権が独善に代わってしまった弊害もあった。誰か1人に決定権を委ねられると他者が全く無関心になるケースと言う現象がよく起こる。最終的決定権が何処にあるかにもよってしまうのだけれど、とある方が管轄長さんになった時の事だった。最初のうちは他の人から意見を聞いていたものの、そのうちに決定権は自分にあるからと他の人に意見を聞くと、反論やブーイングの対処が面倒だからとなり独善的振る舞いに変わって行き部下や後輩から疎まれてしまう迄になってしまった。でも本人はそれに気が付かず、次第に自分だけ孤立していると錯覚し周りに八つ当たりを始めてしまったケースもあった。
当事者となってしまうと面白くも何ともなく心外でしかないのだけれど、いわゆる女子の好き避けは男子からすらば本当に嫌いで避けているの好きで避けているのかは見分けはつかない。その反対に、いわゆる男子の本当に嫌いてイジっているのか好きだからイジっているのかは見分けがつかない。
私の今な亡き母は、とにかく父には従順な程だった。
自分で豪語するくらい、お父さんとは喧嘩をした事がない
と言う程である。確かに父と喧嘩した所は見た事はない。
けれど父の目の届かない所で、やたらと喧嘩して帰って来るから子供ながらに、ため息しか出なかった。母は常に私に対して、「親子だけど、あんたとは相性が合わない!」と常日頃から私には言っていた。言葉通り、親子でありながら家の中では雌の縄張り争いの様な毎日だった。とにかく自分のルーティンを崩される事が我慢ならない人だった。けらど自分に非があるとなると途端に「予定は未定で決定にあらずだ!」と逆上してブチギレしていまう。一部始終を父が見ていて、尚且、溜まり兼ねた私が父に母の言動をチクリに行くと、父が母を一喝してはくれるものの、その場から父が立ち去って途端に母は私に「お前が、お父さんに言いつけたから、私が怒られる羽目ににった。」とまた言いに来るのである。だけらども、その逆の立場になると仕返しされるから嫌だ。と言い出す始末である。またその反面、誰も私の事を分かってくれないと言うから、自分の親とは言え、ほとほと困り果てたものである。
3人に寄れば文殊の智慧とは成就する事であると感じるけれど、船頭多くて船山登ると頓挫してしまうのは独善に変わってしまった事による弊害だと感じている。
食器を割った音は誰でもガラスなのか陶器なのかは分かるし音の大きさによって複数割れてしまったのか、割れてしまった破片が飛び散った範囲迄、想定する事も、用意するべき掃除道具すらも、直ぐに思い浮かぶ事が出来ると思う。その聴き取りわけが専門分野でも起こるのだけれど、専門外になってしまう人は聞き取れない音がある。自動車の整備士さんはエンジン音で何処に不具合が起きているのか聴き取れるけれど一般の人では聞こえない音がある。培ってしまった職業病はプライベートに持ち込まない様にしている。だって一緒に住んでいる家人には何の関係もない事だから。与えられたミッションの中で最高の状態と最悪な事態を想定した上での両輪の中で私は準備をする様に心がけているのだけれど、昨今では、どちらか片方でなければ混乱させる要因となってしまっている弊害人としての私が存在してしまう。だけれども機転が効くねと言う意味の「キレる」と瞬間湯沸かし器の如く突如として癇癪を起こしてしまう「キレる」を取り違えない自分でありたい。自己分析による自己報告にて。自分への戒めとして。
追記 2022.4.14 PM12:02

例えば、友人知人にしても会社の同僚の方にしても結婚式の披露にお呼ばれして出席をした事があるならば分かる人もいると思うのだけれど、当人同士が付き合っている時は何も感じなかったけれど、いざ披露宴に出席してみると嫌な予感が頭をよぎる事がある。でも披露宴は何があっても全力でお祝いする場だから、不吉な予感が走っても決して口にせず、そうならないように祈りながら全力で「おめでとう」とお祝いをしている横から、「破局しないでね〜!」とお祝いしてしまう人が少なからずいる。本人は一生懸命最大限のお祝いをしているのだけれど…同じテーブルにいる人の眉間に皺がよっている事に気付かなかったりする。その方が気を許している人が注意すれは素直に、分かったとなるのだけれど、そうでない人が、言葉遣いを指摘してしまうと「なんでだよ!」となってしまうから不思議である。自分が慌てない様にタイムテーブルを作る人と自分はどうにでもなるからと一緒に業務を行ってくれる人を待たせ過ぎたり慌てさせない様にタイムテーブルを組む人を見た目のルックスからだけでは判断する事が難しい。自分のペースで良いと言うルールで10分間の持久走をしていると速いペースの人は最後尾に追いついてしまう事がある。でも10分後に持久走が終わった時には、周回遅れとなってしまった人も一番周回数を回を重ねた人でさえも自分が何番手だったのか分からなくなってしまう現象が起こる当事者目線の不思議さがある。自己報告より。自分への戒めとして。追記2022.4.14 PM15:52 加筆

私が10代の頃には、「上司だって所詮、人なんだよ!いくら上司だからと言って、上司の良い所は真似してもいいけど嫌だと感じる悪い所まで真似されたら、こっちが迷惑なんだよ!」と叱って下さった諸先輩の方がいたりしたものだった。でも現代では、これもハラスメントとされてしまうのだろう。
大学生5〜6人のグループディスカッションの時の事。
お題目は無かったのだけれど今、自分が感じている事を
思うままに話していた。最初は隣同士の人と話してみたりとしているうちに、その中の1人の男子が「ありがとうって言われたいと思ってしまった時点で既に見返りを求めてる自分だったりする事があるんだよなぁ」と話し始めてくれた事から話題が次々にで始めた。その内の女子1人が「
別にいいんじゃない。」と言い出すと、また他の子も「じゃあ何でダイエットしたいんだよ。」となり、そして別の男子が「結局、自分じゃない誰がいるんだよ」となり、とても楽しくもあり興味深い内容になった。で最初の男子
曰く「そうしたかったから、そうしただけなのに思わぬ時に、ありがとうって全然知らない人から言われた時に、今までに感じた事のない無条件の嬉しさを感じた事があったんだよ。」と話してくれて、その感覚を持ってくれている若者がいてくれた事に思わず安泰を感じた。
打ち合わせをしている時に、ふと疑問を感じる事がある。
私の中て認識している打ち合わせとは現地で業務を行いながら決めた事に対して状況や状態にフィットさせて行く事だと思っていたのだけれど、何故か座ってお互いの顔を見合わせているだけの時がある。

葛藤に苛まれている時程、後ろを振り返る事が多くなる。

私は2人姉妹の第一子として生まれた。その当時の時代背景もあったとは思うけれど、そうでない家もあったと思うから決めつける様な事はしないけれど、何時も何故か
「お姉ちゃんがやるから下が真似をするんでしょ!」と事ある毎に理不尽なまでに怒られた。私が誘った事での出来事ならまだ分からなくはないけれど、下の子が自分の意思で、お姉ちゃんがやってる事なら、やってもいいんだと勝手に真似をした事で何かトラブルが起きる度に、お姉ちゃんが悪いとされるのは心外でしかなかった。いざ子供を産んで母親になってみると子供は真似する事から覚えて行く事は否めないけれど、皆がやっている事なら「自分も〜」となってしまうと、どうしてもレッドオーシャンが起きてしまう。もちろんブルーオーシャンという対局もあるのだけれど。流行りを悪いとしているのではなくレッドオーシャンになると、その中で人の褌で相撲を取り合うと言う懸念材料がどうしても付き纏ってしまう。ここぞとばかりに暴走したり勘ぐり始めたりする事もなく自重や自制が効く方々ばかりなら心配もないのれだけれど。

果たすべく目的が明確な時程、何の迷いもなく脇目も振らず、真っ直ぐなまでに愚直になれる。

年長者の嗜みとして私が初志貫徹している事。
ぬか喜びをしない事、させない事。
安請け合いをしない事、させない事。

理感一致caption6も気が付けば59500文字になっていた
caption6だから丁度60000字を達成したこの回で理感一致を1度完成として終了する事に致します。
追記2022.4.13 AM0:47

…………………………… 完 成 ……………………………
ここまで
お付き合い頂きました事に感謝申し上げます。

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