ブライアン、通った学校を語る(Independent紙 2006年11月)


合格/不合格: クイーンのギタリストブライアン・メイの人生における教育

「私はスターダストで博士号を取ることにした」

Jonathan Sale
2006年11月23日

ブライアン・メイ(59)は、「グレイテスト・ヒッツ」が英国で史上最高に売れたアルバムと発表されたばかりのバンド、クイーンのギタリストだ。彼は天文学者、そして「スカイ・アット・ナイト」(※天文学の長寿TV番組)のプレゼンターであるパトリック・ムーア、クリス・リントットとともに「Bang! : 宇宙の起源と進化の不思議」の共著者でもある。


私はよく、東の空に昇ってくる何かをとらえようと道路の真ん中に立っていて近所の人たちを怖がらせたものだった。強盗だと思われていたのだ。はじめてのギターを手にしたのは7歳の誕生日で、同じころに父と一緒にキットから望遠鏡を作った。4インチの反射望遠鏡で、それで見ることができたものは素晴らしかった。木星の衛星、土星の環。太陽の黒点を紙に投影しそれが移動するのを見たりもした。

望遠鏡が欲しくなったのはパトリック・ムーアの「スカイ・アット・ナイト」がきっかけだ。私はその番組を見るために遅くまで起きていることを許してもらっていた ―  そして今はゲスト出演している。父はとても喜んだに違いない。

ミドルセックス州フェルサムのカーディナルロード幼児学校でのとびきりの楽しみは学校横の防空壕の上に座ることだった。女の子たちはよく「~になれたらいいのにな」というゲームをしていた。ある日私は「bum (※「ケツ」)になれたらいいのにな」と言ってみた。意味は全く知らなかった。教師が「みなさん、中に入りますよ。ブライアン・メイが今、失礼な言葉を使いました」と言った。

一等を取って「黒馬物語」(※アンナ・シュウェル作の児童書。wiki )という本をもらったのを覚えている。同じころ、学校付属のクリニックで指のイボを切除された。ひどい苦痛で、痛みに耐えて家に帰った。母が「黒馬物語」を読んでくれたが、とても悲しい話だと思った。人生にはどうにもならないことがあると知ったのだ。

ハンワースロード小学校での自分はだいたいなんでもできる生徒で、科学や英語が好きだった。お気に入りだったのは部屋で「ダン・デア 未来のパイロット」ー 素晴らしいインスピレーションだ ー が載っているイーグル誌などのコミックを読める雨の日。

ハンプトングラマースクールは良い学校だったが ー  現在そこの理事をしている ー 男子校だった。全体的には男女別学は良い考えではないと思う。幼いころから音楽は自分の友だったが、学校での音楽はあまりいい経験ではなかった。クラシック音楽を聞くことを強制され、それについてどう考えるべきか教えられた。私たちは禁止されていたギターを持って自転車置き場の裏に隠れたものだった。

O-level(※O⦅オー⦆レベル。義務教育終了時の統一試験)は12科目ぐらい取った。A-level(※Aレベル。大学進学などのための統一試験)では純粋数学、応用数学、additional maths (※難度の高い数学)、それに物理を選択し、2科目でA、1科目でBを取ってインペリアルカレッジ・ロンドンへ進んだ。そこには素晴らしい講師が何人かいた。たとえばペイン博士。「振動と波動」の講義の説明で波動の動きを作りながら教壇を躍動していた。

学内のエンタテイメント委員会にいた時、私はジミ・ヘンドリックスを呼んだ。クイーンは後年その時と同じホールで演奏し、はじめてのレビューがディスク誌に載った。私たちはまた、チャリティのためにロイヤルアルバートホールを押さえてヘンドリックス、ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンド、フリー、スプーキー・トゥースに出演してもらった。私自身の学生バンド、スマイルがそのショーのオープニングを務めた。

卒業時の成績は 2:1(※アッパーセカンド。ファーストに次ぐグレード)で、きちんとした仕事に就くプレッシャーがあった。そこで私は「黄道塵」 ― スターダストだ ― で博士号を取ることにした。黄昏の終わりごろの西の空、そして日の出直前の東の空に円錐形の輝きとして見えるものだ。4年後、論文は製本されつつあったが、もっと書くべきと考えているスーパーバイザーとの議論が続いていて私の熱意は尽きてしまった。現在私は再びそれをタイプしていて、インペリアルカレッジの天体物理学部長が提出までのスーパーバイザーを申し出てくれている。1972年に音楽のために論文をあきらめるのは大きなリスクだったが、あるドアが開いたなら、通るか通らないかどちらかだ。それは再びは開かないのだから。


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