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俳諧奇談連句雑談 その一  梅村光明

 連句は、古くは俳諧の連歌と呼ばれこれを職業とする人は俳諧師、さらに遡る連歌全盛期には、連歌師と称されていた。それに纏わるエピソードを三つ。
 『醒酔笑』(一六二八年)編纂・安楽庵策伝(岩波文庫)は、落語家の元祖と称される策伝が、戦国時代の奇談・笑話を収集して上梓した笑話集。中には当代随一の連歌師であった宗祇に関わる逸話が多く採録されており、そのひとつ。
 宗祇東国修業の旅の途上に、二間四面の綺麗なお堂があり、立ち寄って腰を掛けて休んでいると、堂守が「客僧は上方の人でしょうか」「いかにも」「それならば私が発句を詠むので、付けてごらんなさい」と言い、
  新しく作りたてたる地蔵堂かな
   物までもきらめきにけり
と、宗祇が付けたところ堂守が「これは短いのう」と言うのに、宗祇は「あなたの発句にある哉を足してごらんなさい」と言い返したという話。
 『奇談雑史』(一八五五年)宮負定雄著(ちくま学芸文庫)に、「好色の男狸に化かされし事」という話が収録されている。内容は京都の名高き俳諧師である馬南が主人公にされている。
 これは蕪村の高弟吉分大魯(一七七八年没)の前の雅名だ。その人物は好色で暇があれば遊郭に入り浸っている設定。
 ある時、三条通りで若い女に逢い、声を掛けるとこちらに気があるようで、家に連れて帰って契りを結ぶことになる。
その後も関係が続くが、ある晩、女がいつの間にか居なくなり、その後は力が抜けるように病に罹ってしまう。
 医者の見立ては、鬼物に血を吸われた為で、薬は効かないと言う。ほどなくして、痩せ衰えて死んでしまうという話だ。
 実際、蕪村が書き残した大魯の病状は「腰は全然立たず、白い下痢便を垂れ流し、顔は腫れて、この世の者とは見えずもう臨終を待つほかない状態」とあり、これが奇談の発端であると思われる。
 『茶話』薄田泣菫(岩波文庫)に「俳諧師の頓智」が収録されている。長崎の素行という行脚好きの俳人の話。
 素行がある冬の旅の途上、夕暮れになり、その夜の宿にと一軒の百姓家の戸を叩くと、媼が顔を出し、「坊さんかの、坊さんならお泊め申すほどにの」とのこと。
 俳諧師は応えて「そうとも、わしはその行脚坊主じゃ」と言い、奥の仏間に通される。媼は亡き爺さんの回向を望んでいたのだ。しかし、素行はお経を知らなかったので、唯一持っていた俳諧七部集を取り出し、「其角嵐雪去来丈草野坡杉風北枝凡兆支考…」と唱え、宿と粥を得たという。

    (タイトル写真)どこでしょう?空海の道??

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