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イムムコエリ 3

尊い呼吸

母のこと。私の仕打ち。父はどれだけ傷ついたのだろう。
ついに胸は押し潰され、肺がダメになってしまった。
まるで酸素ボンベ無しでエベレストに立っているような状態だった。

倒れては持ちこたえ家に戻ってゆく日が何年も続く。
海で育った父は深い海の底で息をするダイバーのように
わずかな酸素を上手に使って生きた。

それでもだんだん食事がとれなっていき
10㎏痩せた夏、父は何かを決心したようだった。

いつもより長い入院の後、同窓会に参加した。
細くなった足でリハビリを続けて酸素ボンベを引いて電車に乗ったという。みんなが歓迎してくれたのだと
何度も何度も嬉しそうに自慢げに話した。

春になって、田舎に帰りたいという父を連れて故郷を訪ねた。
何年かぶりに会う親戚と話が弾んだ。
けれど小さな町を歩く体力はもうなかった。

また来るねと別れを告げ
車で湾の反対側に回り町を正面から見られる場所へと移動した。

遠く故郷を見渡しながら父は黙って泣いていた。


和解した後も父との関係は良好だったとは言えなかった。
どこかお互い距離のあるままでいた。
私は繰り返される入院も慣れっこになっていた。

だからあの日も病院からの留守電にすぐには返事を返さなかった。

午後になって再度病院から連絡があった。
手術が必要だと。すぐに来てほしいと言われた。
こんなことは初めてだ。
ザワザワが止まらない。

十二指腸潰瘍だった。
ありふれた病気だった。
けれど出血がひどく酸素飽和度は70を切っていた。
そんな状態でも父はまだ意識があった。

「お父様は心臓も腎臓もひどく疲れ切っています。とても弱っています」

麻酔をかけると二度と自発呼吸はできなくなる。
私は手術をしない選択をした。
人工呼吸器になればもう話すことはできなくなる。
父もきっとそれを望まない。

薬だけの治療が始まった。
体力がどこまで持つのかただ祈るしかなかった。

夜になって妹が駆けつけた。
二人で痛みに耐える父の手をさすりながら、ただ傍らで見守った。


3日が過ぎると少しずつ容体が安定し、わずかに話せるようになった。
眠っている父を見ているともっと話がしたいと思う。
すると翌日は意識がはっきりしてよくしゃべった。

5日目。
まだ出血は止まらない。幻覚におびえる父をなだめた。

7日目。
気分がいいようで故郷の写真集を二人で見ていると
ふいに父がつぶやいた。

「もうダメなんやろう?」

本当のことをいうのが怖かった。

「そんなことない!いつもとちょっと違うから時間がかかってるだけだよ!いつもみたいに元気になって先生をびっくりさせてよ!お父さんは私の自慢なんだから!!」

そう言うと「そんなことない・・ワシなんて・・・」と
顔をくしゃくしゃにした。
それから「もうしんどい、もう疲れた」とつぶやいた。


夕方、主治医が様子を見に来てきれた。
先生の顔を見るなり「もう終わりにしてください!」と
はっきりした声で言った。

体中につないである管を外そうともがきベッドから降りようとした。
けれど体は思うように動かず力尽きてしまった。
ふっと静かになりそのまま眠りについた。

それきり、意識は戻らなかった。

9日目。
「意識はなくても声は聴こえていますよ」とナースに言われた。

何を話せばいいだろう。
気持ちは溢れていっぱいなのに言葉にならなかった。
傍らで手を握り途方に暮れて涙だけがこぼれた。

胃の出血が止まらなくなり肌はどんどん透き通っていく。

潰れた肺で懸命に呼吸をしている。
胸いっぱいに息を吸えないのはどんな気持ちだろう。

ひと息ひと息の呼吸が尊いもののように思えた。

これまで父にしてきたことを思い後悔する。
しなかったことを思い後悔する。

もう一日、もう一日と願うと
それに答えるように父は生き延びた。

もって2~3日という医者の予想をはるかに超えていた。

意識が無くても、しゃべれなくても、まだここにいてくれる。
私の気持ちが整うのを待ってくれている。
尊い呼吸の音を聴きながら、私はさようならの準備をする。


10日目。
これ以上父を引き留めることは可哀そうだった。
けれどどうか独りで逝かないでと願った。
ずっと苦しめてしまったから
私と妹が見守る中で旅立ってほしいと願った。






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