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「俺ならできる」という根拠のない自信とポジティブ思考が最大の武器


こんにちは!!!!
俺ならできる男、佐藤蓮です!!!!

このnoteを通して、過去の経験、背景を紐付けながら時系列でお話しさせて頂きます。

佐藤蓮らしく、本音本心、等身大、佐藤節全開で、全力で本気で熱くこのnoteを綴ります。
途中で感情が入り込んでしまうので読みづらいかと思いますが、最後まで読んで頂けたら幸いです。
また、以前noteに書いたことと絡めて書かせて頂きます!!


小学生


①夢見たプロサッカー選手(静岡県選抜、東海選抜選考メンバー、県大会準優勝経験)

小学生の頃、HONDA FC(現JFL)という地元のクラブチームのサッカースクールに通い始めた。ネットに入ったボールを蹴りながら歩いてグラウンドまで向かい球遊びに近いことをしていた。サッカーがなんなのかも知らないまま、とりあえずスパイクを履き、レガースをしてボールを蹴るという感覚だった。もちろん、楽しかったかどうかの記憶はほとんどない。
本格的にサッカーの試合などを始めたのが小学3年生の頃で、めちゃくちゃ下手で全く試合には出れなかった。両親からもベンチをいつも暖めてるだけなら試合に見に行かないし、全部自分でやりなさいと厳しく育てられた。それが悔しくて悔しくて誰よりも早くグラウンドに行き、キックの左右差を無くすために壁に向かってとにかくボールを蹴り続けた。それが報われ、学年が上がるタイミングでサッカー王国と言われる静岡県の選抜に選ばれ、より高いレベルを目指すようになった。また、東海選抜の選考メンバーにも選ばれ東海の実力を肌で感じることができた。当時、足がずば抜けて速かっただけだったが、両足を蹴れるように努力したからこそ【自分に可能性】を感じ、プロサッカー選手を本気で目指すようになった。
できなかったことが次々できる楽しさを覚え、「できるまでやればできる」を体験した時期でもあった。この成功体験が間違いなく今の自分の核となり人格を形成させている。



中学生


②Jリーグの下部組織に入団(300人中18人に合格、全国大会出場)
中学は、ジュビロ磐田(現J1)の下部組織に入団した。小学生の頃から静岡県選抜で一緒にプレーしていた県内トップレベルを誇る選手が多く集まり競争の毎日が続いた。試合には出れず挫折を何度も経験。【出れないからこそ自分にできることは何か】をひたらすら考え、【ベクトルを自分に向け続け】弱みをなくすために毎日30分早くグラウンドに行き練習をした。試合に出ようが、ベンチ外になろうが、チームが勝つことために今できることは何かを考え続けた。ただ、ほとんど試合には出れなかった。全国大会を経験したり、韓国遠征に行ったり、多くの経験ができた。
この経験は僕にとって財産だ。目先の結果ではなく自分の成長に目を向けることにこそ価値があると気付いた。



高校生



③トップチームに上がれない経験(キャプテン、街クラブの大会で全国優勝)
高校サッカーに憧れていて県内の名門校に行こうとしていたが、HONDA FCのスタッフから声をかけてもらい戻ることを決めた。トップチーム昇格を目指し3年間頑張ると決めサッカーに没頭していた。高校2年からキャプテンを務め、街クラブの全国大会で優勝したり、トップチームのキャンプに参加したり多くの経験をさせてもらったがトップチームには上がれなかった。しかし、赤いユニホームを着て地元から愛せれ、アマチュアなのにプロのチームを倒す実力を持っているこのチームがかっこよくて諦めきれなかった。そして、HONDAに戻りたくて、サッカーのレベルが高く、HONDAの練習参加にすぐ行ける距離にある今の大学を選んだ。
キャプテンを通して初めて本物の「責任」の意味を知った。

大学生


④恩師との出会い
大学は常葉大学という静岡にある大学に入学した。常葉大学は東海一部に所属し部員120名を超える東海の中では強豪校だ。入学からAチームに所属し、順調なスタートダッシュをした。しかし、一年の10月にBチームに落とされた。
生きてきた人生の中で一番悔しい出来事だった。その時に監督に言われた一言で俺の人生が変わった。

「サッカーにお前が探している答えはない、もっと人として大きくなれ。」

はっきり言って、意味がわからなかった。いや、俺はサッカー選手になりたいんだ、サッカーを教えてくれよと本気で思った。しかし、自分なりに考えた。そして出した結論は「人間力」こそがベースであり、そこを高めない限りサッカーの技術などは絶対に上手くならないと確信した。その監督との出会いで心の底から「プロサッカー選手になりたい」と思った。サッカーのIQの無さを知り、自分の未熟さを痛感し、サッカーをする前に1人の人間として成長することの大切さを学んだ。誰よりもサッカーの勉強をした。サッカーとは。原理原則。優先順位。本質。戦術。観察洞察。サッカーだけではない。誰よりも本を読んだ。高校生まで本なんか一冊も買ったことがなかった人が今日までで400冊以上もの本を読んだ。部屋の一面は目標を書き出した紙で埋まり、スマホの画面は願望の示したものに変わり、リーダーシップのセミナーに参加したり、大人と話したりとにかく今できることを学び尽くした。プロサッカー選手になりたいという欲は俺を夢中にさせた。ただただ、知らないことが知れるようになる瞬間が、できなかったことができるようになる瞬間が楽しかった。試合に関われるようになり、試合に出て強者に勝つあの瞬間は頑張ってきてよかったと涙が出るほど嬉しかった。しかし、神様はそんな俺に試練を与えてきた。

⑤前十字靭帯断裂、半月板損傷(約1年間)

大学2年の11月に「前十字靭帯断裂、半月板損傷」と言う全治一年の膝の大怪我をした。ポジティブな俺はそんな落ち込まずに半年で戻ってくると誓いピッチを離れた。最初の三ヶ月は順調にリハビリが進んだ。しかし、半年が過ぎた。そんな簡単ではなかった。思ったように膝が動かない。「これ、俺の足なのか」「また思いっきりボールを蹴れるのか」「走れるのか」と何度も思った。
チームの活動は止まることなく進んでいく。サッカー出来なくて、一番チームとしても強くて、そこに入れなくて、外から毎日見てて、自分と向き合い続けた。しかし、本気で目指していたプロサッカー選手がいつしか日に日に消えかけていく自分がいた。

毎日グラウンドにギラギラして今日も上手くなってやろう、サッカーってクソ楽しいじゃんって、サッカーをしてる後輩やみんなを見てるとなんだか苦しかった。俺もこの時期があって、いつから傍観者になったんだろうって。悲しいような、劣等感が出てくるような、もやもやした感情に押し潰されそうに何度なったか。俺は強がりだから、そーゆー感情とかはみんなには見せれない。笑って、ヘラヘラして、ポジティブに自分を包んで自分を封鎖する時が多かった。

だから、考えた。サッカーを無くした自分は何を残せるのかと。サッカーはできなかったが自分と死ぬほど向き合った。どんな人間になりたいのか。どんな風に生きていきたいのか。何を成し遂げたいのか。とにかく自問自答した。自分を知ることは簡単ではない。ものすごく時間がかかる。自分の弱いところや苦手なこと、蓋をしたいことその全てと立ち向かわないといけない。これを乗り越えないと自分が自分でなくなる気がした。だから自分を知り、どんな人間に、どんな風に生きていきたいのかを考えた。結果的にプロサッカー選手を諦めるという決断をした。そして、サッカー部を引退し、次のステージへ行くことに決めた。

⑥「俺ならできる」終わらない挑戦へ

ここからは今の心情を伝えます。

今の夢は「誰かの人生の恩人になる」こと。そしてこれが今まで生きてきた中で自分が本気でやりがいを感じていることです。
サッカー選手を夢見たように、恩師(大学時の監督)によって自分が変われたように、次は自分の存在によって気づきや学びを多くの人に与えられる影響力を持ち、目の前の人の可能性を本気で追求すること。そして「こちら側からは絶対に手を離さない」人格を気づき、誰よりも成長すること。
自分の最大の強みである「対人影響力」(「俺ならできる」というポジティブ思考で周囲を、できるという空間にし、誰よりも熱く行動し続けた経験からくる揺るぎない自分への自信)で人の心に内在するその可能性、まさに『全ての人に可能性がある』の社会に広め、自分に自信を持って、本気で今日を生きて、最高だったと言える社会への実現を目指している。


自分を自分が一番知っているからわかる。
まだ知らない自分に会いに行きたい。
もっともっと知らないことを知りたい。
もっともっともっともっと成長して見た事のない景色を見たい。

もっと出来ないことをできるようになりたい。明日を考えれば考えるほどワクワクしてくる。昨日の自分を越えて日々成長していきたい。

俺ならできる、この根拠なき自信が今本気になれる原動力で、これからも自分を支えてくれる言葉だろう。

俺ならできる、なぜなら俺がそう言ったからだ。


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