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「無駄なこと」ばかりが人生なのかもしれない。

「美味しい」と「好き」は時に別物だなぁ、と思う。

世の中には美味しいものが沢山、沢山あって、情報過多な時代のおかげで出逢いまでのハードルはグンと容易くなった。

けれど反比例するように「また食べたい」と切望することは少なく、それは枕詞に「高級」「限定」「希少」がついたところで容易には叶わないから恋みたい、などと思う。

『忘却のサチコ』というドラマがある。
(下記は少し前に放送されたスペシャルドラマの内容だが、明日から連ドラ化されるらしい)

完璧な仕事ぶりから"鉄の女"と呼ばれる29歳の文芸誌編集者・幸子は、結婚式当日、新郎・俊吾に逃げられ、それでも涙ひとつ流さず平気な顔をして淡々と日々をこなしていく。


・・・ように見えるのだが、実際は左右違う靴を履いていたり、資料の付箋に彼の名前を書いてしまったり、すれ違う人や物に彼の面影を重ねて歩けなくなってしまうほど、四六時中その深い喪失感から抜け出すことができない。

そんな幸子が唯一、彼を忘却できる瞬間が「美食を味わう時間」だ。

それまで食事には効率性を重視し、ウィダーインゼリーで栄養補給をしてきた彼女にとって、ただひたすらに食と向き合い、全神経を注いで味わう美食の境地など初めてかつ衝撃的な体験。

さらに、「美食」となる対象は鯖味噌の定食や炭水化物オンパレードのトルコライスだったり、少し塩辛い駅そばだったりするのだけど、ただ「美味しい」だけでは「忘却」できないことにも気付く。

「美味しい」と共に掛け合わされる何か。

その「何か」を求め真っ直ぐに突き進んでいく姿は、コミカルに描かれながらもとても眩しく、時に胸が詰まるような想いにさえかられてしまう。


作中、幸子と担当作家の先生とにこんなやりとりがある。

「婚約者に逃げられて、君はその後どうしたの?」
「何もしていません。」
「なぜ泣いてすがることもしなかったのか?」
「彼はスマナイと置き手紙を残していなくなった。それが、彼の答えだからです。」


完璧主義の人間には、誰かの決めた答えに抗う選択肢など初めから持ち合わせていないのかもしれない、と思う。

そこには「悲しむ」というルートも存在しないし、「泣いてすがる」なんてBボタンもない。あるがままを受け入れるという"優良なマニュアル"は、一見して人を困らせない大人の優しさのようにも思える。

けれど、先生はこう続ける。

「無駄が嫌いなんだね、きみは。
 人は単純なものではない。
 筋書き通りいかないことも世の中にはある。
 例えば君は、彼という人間の何を知っていたんだろう。」


マニュアル、効率、最短ルート。
それまで正解とされてきたはずのそれらが、一番大切な人との関係性において一向に役立たないと思い知らされた時、ガラガラと音を立てて崩れていくのは「自己肯定感」そのものかもしれない。

想定し得る筋書きなんて自分勝手なシナリオでしかなかったこと。
どれだけ共にした日々を反芻しても、彼が消えてしまった理由も、そのヒントとなる手札も持ち合わせていない空虚。

ポタポタと溢れるように蘇る思い出を「嘘」と「本当」のフィルターにかけてみても、間違え探しの基準さえ見当たらない。
そんなことを繰り返すたび、愛されていたのか、愛せていたのかも分からなくなってしまうこと。


思えば私も、無駄なことや非効率なことが苦手なタイプかもしれない。

何かの行動をとる時には事前に順序立てて取り組みたいし、どんなことにも最短ルートで「正しい答え」を導き出そうとする節がある。

けれど、筋書き通りの結果は必ずしも価値のあることなのだろうか。
筋書き通りの結果が伴わないことは、果たして無駄なことなのだろうか。

「美味しい」ものは、沢山、沢山ある。
高級レストランのスペシャリテも、誰かがもて囃す"美味しい"も、その筋書き通りに、とても、とても、美味しい。

けれど、嫌が応にも心を引きずり出され、文字通り時が止まってしまうような感覚を味わう瞬間は往々にしてもっと無防備で。

頭で考えるでも、情報を咀嚼するでも、なく。

気づけば心を連れさられ、"それ"以外あらゆることへの思考回路をショートさせてしまう食事の体験は、盲目的に何かや誰かを好きになる事ととてもよく似ている。

ウィダーインゼリーで栄養を補うこと。誰かのもて囃す"美味しい"筋書きを辿ること。いささか条件検索するかのように人を選ぶこと。
それは最短ルートで効率的で無駄がない(のかもしれない)けれど、全てを忘れてしまえるほど心が動く瞬間にも出逢えない気がしている。

「〜だから好き」よりも「〜だけど好き」の方がずっとずっと尊いように。

時に馬鹿で、時に無駄で、時に正しいとは言えないその「忘却」の瞬間は、心を動かした分だけ、時に、苦しい。

けれど、そんな日々の細やかな瞬間にこそ「本当のこと」は存在して、それは筋書きも答え合わせも必要としない愛のひとつなんじゃないかな。


ラストシーン。彼との思い出の干し柿を食べながら、サチコは初めて涙を流し、こう呟く。

「無駄じゃなかったです。好きになったのは。
 省吾さんのこと、大好きだったんです。」


人生、無駄なことばかりなのかもしれない。
無駄なことばかりが、人生なのかもしれない。

だけど「無駄なこと」の中にこそ幸せの火種はきっとあって、その小さくも温かな熱にこそ生かされているのだから。

悲しみの衝動で水をまきたくなる時も、嫉妬の風に消されてしまいそうな時にも、負けずに。大切に優しく、守って、焚べ続けていきたいと思う。

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Remi
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