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秋のような恋の終わり


『忘れたい』と切に願っていたことが『忘れたくない』という祈りに変わったとき、それは記憶から思い出にそっと形を変えるのかもしれない、と思う。



「別れた恋人の幸せなんて願えなくて当然。だって私が幸せにしたかったし、一緒に幸せになりたかった。好きになるって、そういうことでしょう」

真っ赤に色付いた紅葉を背に、ふっくらと丸みを帯びたどら焼きを手にとって彼女は言う。

「惜しいことしたって、いつか気づいて、一生後悔すればいい」

そう続けて、大きな口でぱくり。私は欠けていく曲線を横目に「そうだそうだ」と冗談めかして応戦し、その目が赤く潤んでいることには気づかないふりをした。


「あーもう早く忘れたい!どこに行っても思い出して辛いから」

例えばこのどら焼きだって、と続ける彼女の話は、つい最近別れを切り出してきた彼が重度の甘いもの好きだった、というだけでどら焼きとの関連性は至極薄い。

けれど甘いというキーワードだけで思い出してしまうのだから、記憶を呼び起こす脳の回路はつくづく制御不能だ、と思う。


思い出は街じゅうに転がっている、なんて歌詞が確か昔あったけれど、そんなことは、きっと、ない。

どれだけ同じ類の香りをこの身に吸い込んでも、たった一つの記憶だけが鮮明に蘇ってしまうことが往々にしてあるように。

心を揺さぶった特別な体験は、忘れない為にあらゆる場面で反芻するよう脳にプログラミングされている。

『いちばん』は塗り替えられても、『とくべつ』は塗り替えられない。つまり、全て勝手に紐付けてしまうだけなのだ。 


「いつか忘れられるのかな」

忘れたことも、忘れちゃうくらい。と彼女は言った。忘れたくないという祈りが音の背に聞こえて、そうかもしれないね。と私は口の中で呟く。


シンと細やかな空気の粒に、煎茶の湯気がゆらゆらと揺れる。その朧げな白さに何かを思い出す予感がして、あらがうみたいに空を見た。


記憶が時間とともに遠く朧げになっていくように、秋空は日に日に高く遠くちぎれていく。

無防備な首元は音もない風にあっさりと負けて、真っ赤に染まったモミジの葉が一枚、はらりと宙を舞った。

「もう冬だね」


春も夏も冬も何気なく終わるのに、秋だけはいつも有り有りと終わる。季節に句読点を打つのは心の役目だったはずが、秋だけは決してそれを許さない。

えも言われぬ焦燥感とそこはかとない後悔を引き連れてやってくる冬の始まりは、必ず『、』ではなく『。』のあとだ。


「気持ちは伝えたの?」

視線を合わさぬよう、そっと問いかける。

「どうかな。伝えたつもりではいるけれど、伝わったかどうかは分からない」

「未練は、ない?」

「ないと言ったら嘘になるけど、納得はしてる。終わったんだなって」


恋は何気なく始まって何気なく終わる、という表題の小説には半分猛スピードで頷くけれど、秋のような恋もあって然るべきだと半分は祈るように思う。

帰り際、「良い人いたら紹介してね」という彼女の目はやっぱり赤く潤んでいたけれど、その奥は確かに前を向いていた。

自ら『。』を打った彼女だからこそ、次の物語を紡ぐ余白を持っている。



この間、「病気になったかもしれない」というメールを最後に姿を消した人の今を風の頼りに聞いた。本当のことなど誰にも分からないけれど、元気そうに生きているらしかった。

"好きになるって、そういうことでしょう"


ならば私はその人のことなど少しも好きじゃなかった。だって元気でよかった。生きていてよかった。幸せならよかった。嘘でよかった。

忘れたいと願い、忘れたくないと祈り、もう一度忘れたいと泣いてしまうくらいには秋が過ぎて、やっと冬になった。




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