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訪問販売のタヌキに化かされた話

その日わたしは息苦しさを覚えて目が覚めた。
今何時かも分からない。
コートを着たまま布団に倒れていた。

「頭…イテ……」

重い身体を起こして洗面所に向かい、自分の顔と向き合う。

「ヒェッ!?」

血まみれじゃん。
どこから血が出ているのか、そもそもコレは自分の血なのか、
フョォォ……と声にならない声を出しつつ恐る恐る顔面を触る。
やがて鼻に指先が触れると鋭い痛みが走った。

あぁ鼻血か……と安堵の息を漏らしつつ、昨夜の記憶が一切ない事に不安を覚える。

そうだ、今日はこないだ休日出勤した分の振替休日。
「明日は休みだーー!飲むぞーーー!!」
と新宿で友人と酒を飲んだ。が、帰った記憶がない。
まぁこういう時はだいたい自分の代わりに携帯電話が何か手がかりを残してくれているはずだよね。

あら携帯がないですね。

寝室に戻り血まみれの布団をめくるもない。
辺りを見回すと携帯どころか財布もカバンもない。
記憶もないし荷物もない。貞操も自我も未来もなんもない。かなしい。

玄関に向かう廊下でズボンとパンツを発見した。
そうなの、わたしコートの下に何も履いていなかったの。
使い古された手法を用いる変態。
家の中で良かったと心の底から思った。洒落にならない。

玄関にはマフラーが落ちていた。

「まさか…」

玄関を出ると、外階段まで続く廊下に点々と荷物が散らばっているのが見えた。

バタンッ

後ろで閉まった玄関扉を見る。鍵穴に鍵が刺さったままだ。
変態が言うのもなんだが危な過ぎる。

携帯や財布、酔って購入したであろうシーチキンおにぎりを順調に拾いながらようやく階段へと到達した。
階下を見下ろす。

全部出てた。
カバンの中身ぜーんぶ出てた。

すごいじゃん…
と呟いて、腕組みしながらしばらく呆然と見つめてしまった。
まぁ花咲じいさんよろしく自分でぶち撒いたのでなければ、恐らく上から下まで転がり落ちたのでしょうね。
ズボンも破けてたし。

やれやれ……と自分のせいである事を100%棚に上げた態度で荷物を回収し終わり、もはやセキュリティなど皆無の我が家の玄関を開けた時である。

『あの、すみません!』

ギョッとして振り返ると見知らぬ男が立っていた。
予期せぬ訪問者。なに。だれ。やだこわい。

スーツ姿の爽やかな青年は言った。
『実は、この付近にお住まいの皆様に……大丈夫ですか!?え!?』

なにが。そうか。
今わたしの顔面は血まみれだ。
そしてコートの中身は、上はスーツ・下は無。
非常によろしくない状態。

「だだだだだいじょうぶですグヒヒヒヒひぇえ痛ぃッッ!」

よせば良いのに相手を安心させようと笑顔を作ろうとした結果、
想像以上に鼻が痛くてちょっと気持ちの悪い声を出してしまった。

心優しき青年は慌てて駆け寄ってくる。
よせ、やめるんだ。
コートの下からはみ出てる素足を見るんだ坊や分かるだろう?
コチラ側に来てはいけないよ。

『はわわわ…ティッシュどうぞ…!』

あぁもう君ってやつは……。
ありがとう訪問販売の青年、こんな仕事はもう辞めろ。
あと『はわわわ…』って言う人はじめて見たわ。

明らかな変質者に彼は優しかった。ちょろいのですぐ心を許した。
そのままおっかない恰好で和やかに歓談した結果、彼と自分は同じ年齢であることが判明した。
気さくで紳士的、ユーモアがありとても面白いヤツだった。

青年は言った。
『もうこの仕事辞めるつもりですし営業は良いので飲みに行きませんか?』

あ、いいんだ。
彼も自身が携わっている業務に思うところがあるのだろう。
わたしは快く承知した。
二日酔いどころか五日酔いぐらいの身体の悲鳴は無視した。
顔面の血を洗い流し、パンツをしっかりと履いた。
そして夜の新宿へ繰り出し、彼との出会いに乾杯し、再び夜を明かすのであった。

しかし翌朝、またしてもコートのまま布団の上に倒れこんでいたわたしに、
昨夜の記憶は何もなかった。
楽しかった温かいもやもやだけが心の中に残っている。

手がかりを得ようと携帯を見てみるが、連絡先は交換していなかったし、
何故か彼の名前も思い出すことができなかった。
タヌキか何かだったんか?


わたしは全ての出来事には意味があると思っている。

休日に仕事をしたのも、だから平日から泥酔したのも、
階段を転げ落ちて3万のズボンがズタボロになったのも、
鼻が曲がるほど血を出していたが故に話すキッカケができたことも、
そしてもう彼と会うことはないだろうという事も。

何も覚えていないけれど、この日の事はずっと覚えていると思う。
そういう出会いが、お酒にはあるよね。
教訓じみた事を書いて締めようとしてますが何もないですよ。
ただの酒クズエピソードでした。
今日も飲むよ! にっこり。



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