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【1枚の年賀状】上 黒田 勇吾

【一枚の年賀状】~子供たちから教わった諦めない心~~

2011年3月1日は 長女の高校の卒業式の日だった。
と同時に、私の再就職の日でもあった。
我が家にとって、一つの節目の日であり、
あの日が、新たな出発の日でもあった。

私は、その1年以上前に、約14年間経営していた
学習塾を2教室とも、閉塾してあらためて
いちから就活をしていた。
そして何度目かの挑戦の末、
新しい就職先が決まり、
1か月研修が
まさに2011年3月1日から始まった。

学習塾経営当時に創った負債も
数百万円あった。
その返済も、銀行と打ちあわせをしながら
計画を立てて、一会社員として働き始めた。

長男は、いよいよ大学4年生になる。
情報処理のスペシャリストとして、
働ける企業への就活も始まっていた。

次男は、大学を中退して、アルバイトをしながら
自立の道を探っていた。
そもそも中退の道を選ばざるをえなかったのは
主に経済的な理由であり、ひとえに私の責任であった。
いったん中退して、経済の立て直しをしてからの
次男の復学を考えていた。

次女はもうすぐ小学4年生。心臓病の手術は
まだ身体が小さいため出来なかった。
カテーテル手術になるため、まだ細い血管に
管を入れるのはリスクが高いのだった。
ですから
発作が出た際は対処法で治すしかなかった。
末娘の心臓病は「発作性上室性頻拍」
既に完治したのであえて公開します
幼稚園の年長の冬2月に発症し、
中学3年の卒業間近の二月に手術によって完治した。
2017年の私自身の二月闘争の時であった。

普段は、正常な脈数を1分間に70回ほど打っている。
その心臓が、何かをきっかけにして、突然頻拍になる。
1分間に200回を超える状態になる。
例えて言えば、身体は普通に生活していながら、
心臓だけ、全力疾走時の脈拍数と同じほどに変わる。
自覚症状があるので、その異変を娘は親に伝える。

対処法はいろいろある。
冷たい水を飲んで、心臓に軽い刺激を与える。
これで正常に戻ることもある。他いろいろ。
しかしほとんどの場合、救急車を呼んで
いつもの病院に行く。

9年間で何百回、救急車に乗ったことだろう。
思いだせないし、数えてもいない。

医師が、いろいろと対処して、正常に戻る
のがほとんどだが、時には発症から1時間過ぎても
頻拍が治らない時は、付き添いは治療室から出される。
心臓は何時間も全力疾走の頻拍に耐えられない。
そして、ある注射を娘は打たされる。

そのケースの場合、親はただ祈るしかない。
ただ祈るしかない。
それは心臓を一時的に止める薬だ。
そして再び数秒後にショックを与えて
心臓の脈拍は戻る。
必ず正常に戻るという約束は医師はできない。

だから、誓約書を発症した当時に書いた。

あの9年間、何度もこのケースはあった。
その結果を待っている瞬間の親の気持ち。。。

しかしもっと苦しんでいるのは娘本人なのだ。
麻酔をかけているわけではないから
自覚症状は当然ある。
その時の娘の気持ちは親にもわからない。
本人しか、わからない。
それを、あの子は乗り越えてきた。。。。
偉大なる我が子である、と心から私は称えている。


話を初めに戻そう。
長女の話だ。
長女の夢は国際線のCAになって
世界中を飛び回ること。


長女は商業高校出身である。
英語の成績は、例えばTOEIC
200点前後だった。

しかし、長女は自分の夢の実現に向けて
着々と、親に内緒で準備していた。

日本で一番レベルの高い
CA養成専門学校を調べて、
その学校の採用担当の方と
色々やり取りしていたのだった。

そこは福岡のあるCA養成学校であった。
その採用並びに受験担当のAさんと
電話やメールでやり取りをしていて、
もうほぼその学校を受験することを
決めていた。親に内緒で。

そのAさんから、年賀状が来ていたのを
卒業式後に初めて見せられた。
読んで初めて、長女はその学校の
受験の申し込みをしていたのが分かった。

私は大反対した。
反対する理由はたくさんあった。
*自分の今現在の勉強状況を考えろ。
*英語のこの実力で受かるわけない。
*少なくとも東京にはたくさんの
 学校がある。そちらに変えてくれ。
 福岡は遠すぎる。
*そもそも就職の選択じゃなかったのか?etc

私は長女のdreamキラーになっていた。
応援するどころか、長女の夢実現の
足を引っ張る お父さんになっていた。


しかし18歳の青春の夢はぶれることはなかった。

~~下に続く~~

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