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第4話

青い匂いに包まれた雑木林を俺は必死に走っていた。

「待って」

人が通る道なんてない。
草木を掻き分けて
背中すら見えなくなった少女を追いかける。

「遅いよ、成瀬!」

降り注ぐ蝉時雨をすり抜けて届く、鈴のような声。
その持ち主をひと目見ようと視界を回す。

「羽衣(うい)が早いんだよ」

見つからない。
見つからない。
君はいつもそうだ。俺を置いていく。

ジリジリとした陽射しが、葉の間をすり抜けて俺の頬を焼く。かと思えば、風が優しく額の汗を拭ってくれるから、神様は優しいのかな?なんて思うけど。

ずっと追いかけても見つからない女の子の背中に
神様は意地悪だと思い直す。

「はい、ゴール!」

少し開けた丘に飛び出すと
上から終了の合図が鳴り響いた。

「追いついた!」

息をきらしながら、両腕を上げて力こぶを作る。
俺も日々強くなっているのかも知れない。
心底喜んでいた。にも関わらず、この娘は

「追いついたんじゃなくて、私が待ってたの」

なんて言うんだ。夢もヘチマもありゃしない。

「ちぇー」

腰かけていた木の枝から
落胆する俺の横に天女が飛び降りる。
重力すらものともしていないかのように柔らかく舞い降りる少女。羽を失った天使のように、真っ直ぐにゆっくりと降り立った。

「私の優しさにケチをつけるのはこの口かー?」

「痛い、痛い。引っ張らないで」

天使という表現は語弊があった。

子供ひとりが入れそうな桃を目の前にした餓死寸前の鬼のように、至福の笑みを浮かべて羽衣は俺の頬を摘んで伸ばしていく。

あいにく俺は、お婆さんに拾われることもなく、もちろんきびだんごを持つことも許されず、仲間すらいないまま鬼ヶ島に流れ着いてしまったわけだ。

「まったく薄情なお婆さんだ」

心の声が漏れる。

「あっーー」

「誰が、瞼なのかシワなのかもはや区別のしょうがないほどヨボヨボなババアですって?」

「言ってない言ってない。それだけは確実に言ってない」

事実を言おう。
本当にあなたのことではございません。

「どっかの偉い人も言ったよね、右の頬を抓られたら?」

「左の頬を抓ろ?」

「No。左の頬も差し出しなさい」

「言ってない言ってない。絶対に言ってない!」

これを世間では理不尽って言うんだろう。
そんなことを学んだ小学最後の夏休み。
案の定、俺の頬は左右均等に引き伸ばされ
将来の面持ちが心配になった。

「さて、休憩終わり!」

「え、もう!?」

彼女は、焼きたてのチーズを楽しむ子どものように人の頬の伸び具合を堪能したと思いきや、両手を打ち合わせ出発の鐘を鳴らす。

「十分時間取ったよ?」

あなたがとったのは俺の頬の将来性であって
決して休憩時間ではないよ。
なんて口が裂けても言えない。と言うか
きっと言ったら口が裂けちゃうので呑み込んだ。

「もうすぐだから、行こう!」

こっちの気持ちを知ってか知らずか
太陽のようなコロコロした笑顔で顔を覗き込んでくる。
少し動けば鼻が触れ合う距離。
ミルクティーを思わせる女の子特有な香りにくすぐられ、視線と一緒に話題を逸らす。

「どこに向かってんの?」

「んー?」

こちらの動作が不自然なのか、彼女は首を傾げながら重心を後ろに戻した。そして、子どもを慈しむ母親のような、イタズラが成功した幼子のようなニへーっとした微笑みを浮かべて言葉を繋げる。

「私のお気に入りの場所。私たちの住んでる街がぐるーっと見渡せる私だけの特等席を特別に、成瀬くんにも見せて上げようと言うのだよ」

「なんで俺に」

なんて期待を込めて質問をしても無意味だって分かっているけど、するなという方が無理な話だ。

「瑠璃(るり)とケンカしたから」

「なんだそれ」

『なんとなく』というあやふやで適当な返答だろうと読んでいた俺は肩をすかされた気分だ。二重の意味で。

瑠璃は確か、羽衣の四つ下の妹だったっけか。

「いいから行くよ!」

人に思考させる時間を与えまいと彼女は踵を返し
高らかに腕を上げて走り出した。

「あ、羽衣!」

脱兎のごとく木々の影に消えるポニーテールを
慌てて追いかけた。

自分で言っておいて
あまり深く追求されたくなかったのだろう。

葉桜羽衣。
本当に羽のように身軽で
太陽のように眩い、可愛らしい女の子。
2人でいる時だけ…いや、家族との様子は知らないし、知ってたら怖いだろ? だから俺の知る限り、2人でいる時だけに昇る太陽だ。
学校にいる時は、お淑やかな…百合の花のような品の良さで人の輪の中にいる。
友だちが多く、先生にも気に入られ、成績も頭も良い。運動能力も俺よりあるときた。

「着いた!」

碧の檻を抜けた先、蒼い海が広がっていた。
その蒼さもつかの間、次第に淡い緋色へと変わっていくだろう。もうそんな時間になっていた。

「どう? 私の秘密の場所! ってもっとこっち来て」

「むぅーりー!」

羽衣は、地面が無くなる1歩手前に立ち、隣に立つよう指示を出す。俺は木にしがみついて抗戦した。
羽衣の背後には、この高台だけ残して地盤沈下したように綺麗にくり抜かれている街並みが広がっている。

落ちたら人たまりもない高さの断崖絶壁。まるで、羽衣の胸の(以下略)。
でも、間近では見れないけれど、俺も心が震えているのを感じていた。足も震えてるけどそれとは違う。断じて違うから。

太陽は山間へ就寝し、街灯が目を覚ます。
沈水海岸は巨人が黄水晶をばら蒔いたようにキラキラと輝き、その手前にはお風呂か、早めの夕餉かチラホラと煙が立ち上っている。
家から零れる灯りが、道を照らす光が、整備されているとはお世辞にも言えない街並みを、花嫁のように鮮やかに変貌させる。『美しい』という言葉はこの時のためにあったんださえ思えるほどに。

「っと、危ない危ない」

羽衣が膝の力が抜けたように体勢を崩し、尻もちを着いた。少し間違えれば崖の下、そんな危機一髪も彼女には笑い事なんだろうか。

でも、彼女の瞳に映る景色は揺れてるように見えて。
今にも泣きそうな表情に見えて。

「帰ろう」

目の赤さも頬の紅さも、きっと夕日のせいじゃない。
羽衣に背中を向けて屈む。

女の子1人おぶるくらいの体力はあるはずだ。
でも、背中に乗っかった女の子は、羽毛のように軽くて、力を緩めたらどこかへ飛んで行ってしまいそうで俺は少し怖くなった。

首の裏が濡れる。
首に回された手が、少女の肩が小さく震えている。


羽衣。
誰よりも笑う女の子。
誰よりも笑っていたかった女の子。
だから、君は儚く笑う。
風と踊る花びらのように。
風に攫われた羽のように。
時に楽しく。
時に哀しく。

「ごめんね」
俺に出来るのは泣いてる姿を見ないことだけ。
俺に出来るのは彼女の謝罪を無視することだけ。
小さく咳き込む姿も見て見ぬふりをしよう。
太陽は沈む。でも、また昇るから。
今は静かに目を瞑ろう。夜とはそういうものだ。

そう逃げる言い訳を考えた。
何も分からなかったから。掛ける言葉も、羽衣の心も。


神様はやっぱり意地悪だ。

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