第9話
”羽衣”。
その人の名前を口に出すのは、本当に久しぶりだった。
彼女が俺の前から姿を消して、もう二度と会えないと知ってしまったその時から、俺は無意識に名前を口にしないようにしていた。
でも今から3ヶ月前のあの日、木陰で瑠璃に出会ってしまったから、俺は思い出を反芻するように”羽衣”を口にしてしまった。
瑠璃と出会って1ヶ月。瑠璃は何かに憑りつかれているかのように、日に日に羽衣に似ていった。
キャンパス内ですれ違うたびに、羽衣ではないかと俺を錯覚させる。
よく見たら顔の造形は何となく違うし、羽衣は羽衣で瑠璃は瑠璃だってわかるのに。
そして瑠璃と出会って3ヶ月が経ち、瑠璃はとびきり”羽衣らしい”恰好をして俺の隣を緊張した面持ちで歩いている。
「大丈夫?」
「えっ……」
瑠璃は俺と目を合わせようとしなくて、俺と触れ合っている左手は微かに熱を帯びていて震えている。
「すっごい緊張してる」
耳まで真っ赤にしている彼女の反応が面白くてつい吹き出してしまうと、彼女は俺から目を逸らしたままこう言った。
「っ……あなたの、思い出になれているかが、不安なんです」
俺はその言葉に笑うのをやめた。
瑠璃はぎゅっと俺の手を握り、俺からの返答を待っている様子だった。
俺達以外の時間だけが止まってしまったかのように、街中の喧騒は嫌になるほどの聞こえなくなる。
「……俺の思い出って何」
俺は、ちゃんと冷静にこの言葉を口にできていただろうか。
瑠璃を怖がらせていなかっただろうか。
あの人は、今の俺を見てどう思うのだろうか。
「あなたの……ううん……
私の、羽衣お姉ちゃんに」
瑠璃は心を決めたかのように今度はまっすぐに俺を見上げて、意地でも視線を逸らさないとでも言いたげな瞳を俺に向けた。
ねえ、瑠璃。
「瑠璃は、羽衣の代わりにはなれないよ」
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