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日本の肉食に関する歴史を辿ってみる。(後半)

前半の続きです^^ (前半はこちら↓)

前半では、現代までの日本の肉食に関する歴史について、以下のように大きな転機となったものが4つあり、まず、1の天武天皇による「肉食禁止令の詔」と2の第5代征夷大将軍(徳川綱吉)による「生類憐みの令」についてまとめました。
1. 675年~ 天武天皇による「肉食禁止令の詔」
2. 江戸時代~ 第5代征夷大将軍(徳川綱吉)による「生類憐みの令」
3. 
明治維新~ 明治天皇による「肉食解禁の令」
4. 戦後~ 「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」

今回の後半の記事では、3の明治天皇による「肉食解禁の令」と4の「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」についてまとめたものを記載します。

3. 明治維新~ 明治天皇による「肉食解禁の令」

1868年、江戸幕府が終わり、当時の日本は「近代化・西洋化」ということで、制度や文化、果ては人々の服装にまで、様々なものを西洋の国(主にイギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパの国々)に合わせようとする動きがありました。当時の日本は西洋の国との力関係が対等でなかったため、西洋の国に合わせることで、日本も同様の力をつけようという動きがあったそうです。

その「近代化・西洋化」には、肉食の奨励もありました。理由としては当時の西洋人と日本人の体格には差があり、それぞれ大人と子どもに見えるほど身長に違いがあったことから、西洋人と同じように肉を食べれば、背も伸び、頭も良くなるのではないか、と考えたそうです。

明治政府は「富国強兵」という政策を取っており、学問、税、兵隊などの制度を作ることで、国民全体の学力・経済力を向上させ、同時に軍事力を強化して他国と対抗しよう、という方針があったそうで、肉食の奨励も、その国民の能力を向上させるための一環でもあったそうです。

そこで、国民に肉食を浸透させるために著書や権威のある人を用いて、肉食を奨励していたようです。それらは以下のようなものがありました。
①1871年、戯作者仮名垣魯文(かながきろぶん)が『牛店雑談安愚楽鍋(うしやぞうだんあぐらなべ)』を出版して、以下のように肉食を賛辞。
「士農工商、老若男女、賢愚貧富おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」
②1872年、福沢諭吉は『肉食之説(にくじきのせつ)』を発刊し、その中には以下のような記載をもって、肉食をすすめた。
「今我國民肉食を缺て不養生を爲し、其生力を落す者少なからず。即ち一國の損亡なり」
⇒「今の国民は肉食をしないことで不養生になり、体力を落とすものが多い。これは国家の損失である。」

③1872年、明治天皇が肉食解禁の令を発令し、自ら獣肉を食べた
④牛鍋やすき焼きを出す、牛鍋屋の開店

もっとも当時の国民は全員が全員、素直に肉食をすることに従ったわけでもなさそうで、「殺生・肉食はよくない」と考えて肉食を避けていた人もいたそうです。

例えば、引用元の記事によると、牛肉を食べるときは以下のような処理を行っていたこともあったようです。

牛肉の処理上では、しめ縄が張られ、皮に近い上の方の肉のみを削り、
残りは地中に深い穴を掘って埋め、お経を上げて清められていました。

さらには牛肉を処理した道具、煮炊きした鍋、盛り付けに使った皿にいたるまで、すべて一度使ったものは、そのつど廃棄して二度と使いませんでした。

家庭で牛肉を調理する時は、家の中では行わず、
庭にコンロを出して調理したと言います。

4. 戦後~ 「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」

戦後といえば、食生活の欧米化というのがありますね。欧米化とは、戦後、日本の食事内容が米、魚、野菜を中心とする日本食から、パン、肉、卵、乳製品といったアメリカで食べられているものを中心に移り変わっていたことを指します。この食生活の欧米化は「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」が関係しているようです。

「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」は1954年3月に調印したものであり、内容としては日本とアメリカの双方が互いに軍事的に支援することを定めているようです。このMSA協定が調印されることにより、日本はアメリカから小麦60万トンや大麦11万6000トン、脱脂粉乳など大量の余剰農産物を受け入れています

第二次世界大戦終了後、当時のアメリカは、小麦、大豆、トウモロコシなどの余剰農産物があり余っていました。第二次世界大戦中では、ヨーロッパやアジアなどの国々では度重なる戦争によって食糧不足が深刻な問題となっていましたが、アメリカは戦争の被害を受けることが少なく、農業を安定して行なうことができました。

そこで、アメリカは世界中で食糧不足の問題を代わりに解決するため、農薬や化学肥料を取り入れたり、大型の機械を導入したりして、農業を安定的に大量に生産できるようにしました。このように、アメリカは国内の農業の規模をどんどん拡大していきました。

しかし、第二次世界大戦が終わると、食料不足が次第に解消され、アメリカに頼らずともそれぞれの国で農業を行なえるようになったため、アメリカからの農産物が次第に不要になりました。そのため、アメリカは大量の農産物による在庫を抱えることになりました。

そこで、アメリカは1951年10月に「相互安全保障法(MSA法)」という法律を制定したようです。これは相手国に対して経済的な援助を行なう代わりに、軍事的に支援すること、自らの防衛を義務付けたりすることを相手国に制約するための法律のようです。この経済的な援助というのは食糧に関する援助も含まれます。

当時の日本(政府)にとっては「相互安全保障法(MSA法)」はかなり魅力的な条件だったようで、戦争が終わったばかりの日本は、食糧がなく、お金もなかったため、アメリカからの経済的な援助を得るために、「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」を調印しました。(MSA法は後に改定して「余剰農産物処理法 (PL480法案)」と名前を変え、日本へ更に大量の農産物を輸入することにもなりました。)

このように日本はアメリカから大量の小麦、大豆、トウモロコシを輸入することになりました。なお、日本が経済的な援助を貰う代わりとして行った内容には、日本の国土に米軍を配置したり、自衛隊を設けることなども含まれていました。

前置きが長くなりましたが、さて、日本が輸入された大量の農産物と肉食にどのような関係があるのでしょうか。アメリカとしては日本に大量の農産物を代わりに消費してもらおうという思惑が働いていたようで、そのための方針として、日本人の食生活を欧米化することを考えていたようです。

どういうことかというと、MSA協定によって小麦を大量に輸入することになったのですが、小麦からパンを作ることができるため、このパンを日本人の主食にすることで、肉や卵、乳製品といった動物性のものも、自然に口にするようにしました。流れとしては以下の図の通りです。

パンについて(透過済)

パンを主食にすれば、日本人が元々食べていたみそ汁とか納豆、梅干し、漬物にはおかずとしては合わないため、自然と肉や卵、乳製品をおかずにすることが多くなります。

そこで、パンを主食にするために、アメリカは日本に以下のように提案し、欧米化を進めていったそうです。以下の内容を見ると、当時は粉食(パン、麺類)奨励のためにアメリカからのお金が色々とあったようですね(@@;)

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.7」(前編) 鈴木猛夫

昭和30年、日本はアメリカ側の提案による粉食奨励、定着化を図るための11項目の事業計画書を承認した。金額の多い順から
①粉食奨励のための全国向けキャンペーン費用として1億3千万円
②キッチンカー製作、食材費用に6千万円
③学校給食の普及拡大に5千万円
④製パン技術者講習に4千万円
⑤小麦粉製品のPR映画の製作、配給に3千3百万円
⑥生活改良普及員が行なう小麦粉料理講習会の補助に2千2百万円
⑦全国の保健所にPR用展示物を設置する費用に2千百万円
⑧小麦食品の改良と新製品の開発費用に2千百万円
⑨キッチンカー運行に必要なパンフレット等の作成費に千5百万円
⑩日本人の専任職員の雇用に千2百万円
⑪食生活展示会の開催に8百万円、である。

総額4億2千万円の資金がアメリカ農務省から日本の厚生省、文部省、農林省、(財)全国食生活改善協会>、(財)日本食生活協会、(財)日本学校給食会等などに活動資金として配分され日本人の主食を米から小麦へと方向転換させる大事業が実行されたのである。ただこの額はアメリカ側から提供された活動資金のごく一部で、その全体像は今もって明らかではない。
-正しい食事を考える会 米と麦の戦後史ー学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略」からー4

特に上記③の「学校給食の普及拡大に5千万円」によって、給食にパンが出るようになったのですが、子どものときから給食でパンの味を覚えさせ、パンを主食とすることに慣れ親しんでいけば、大人になってからもパンをずっと主食とするようにもなります。また給食でパンを食べるようになった子どもが大人になって結婚し、子どもが生まれたあとも、家庭でパンを主食として食べ続けるようになれば、その環境で育ってきた子どもの主食もパンになります。このように、一世代だけでなく、二世代、三世代と長きにわたって日本人の食生活の中にパンを主食とすることを浸透させ、欧米化させていったようです。

なお、アメリカから大量に輸入される小麦は、硬質小麦といって、当時の日本の風土では生産できなかったようで、食糧がアメリカから輸入に頼るしかなくなり、食生活の欧米化が進むほど、日本人の食糧自給率も下がっていったようです。(農林水産省のホームページによると、令和元年度のカロリーベースの総合食糧自給率は38%だそうです。)

まとめ

前回(前半)の記事と今回(後半)の記事を書いて、これまでの歴史を見ると、それぞれ目的や狙いがあったことがわかりました。
1. 675年~ 天武天皇による「肉食禁止令の詔」
 ⇒動物の殺生や肉食を避けるため。

2. 江戸時代~ 第5代征夷大将軍(徳川綱吉)による「生類憐みの令」
 ⇒あらゆる動物の保護を行なうため。
3. 明治維新~ 明治天皇による「肉食解禁の令」
 ⇒他国との交流拡大、または日本の軍事力向上のため。
4. 
戦後~ 「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」
 ⇒アメリカが過剰に生産していた農作物を日本人が代わりに消費するため。

上記の1と2は肉食を禁止するもので、3と4は肉食を奨励するものでしたが、1と2は、道徳的な面から肉食を禁止しており、3と4では、どちらかというと政治的・経済的な面で肉食を奨励しようとしたようです。

特に4では日本人のためのものというよりは、他国のために肉食を行なっているようで、日本人の体格を大きくしようというのはあるものの、身体の健康によいという意味で、肉食を奨励するというのはなさそうです。(まだまだ調べ足りていないところはあると思いますが…)

その意味では、現在肉食が広まっている理由が、食生活の欧米化による政治的・経済的な面が大きく、健康的な面では見ていなさそうですので、わたしは、自分自身の健康のため、菜食に変えることを選択しました。

ただ、単に菜食に変えても上手くいくわけではなさそうです。なぜなら、全員が全員、菜食に変えることで健康になっているわけではありません。逆に不健康になった人、栄養不足になった人もいます。そのため、菜食に変えるだけではなく、どんな食べ方をすればよいか、何に気を付けるべきか考える必要があります。

そこで、菜食を選択する際、どのようなものを食べ、どのように過ごせばよいか、改めて調べることにしました。

次回に続きます^^

※参考URLは以下にまとめています。
参考1:カラダヨロコブログ 管理栄養士圓尾和紀 「昔の日本人は本当に肉を食べていなかったのか」その真相とは
参考2:カラダヨロコブログ 管理栄養士圓尾和紀  歴史を知れば理由が見えてくる!日本人はなぜ、パンを食べるようになったのか
参考3:
MIC FUN 第2回:明治天皇が初めて肉を食べた日
参考4:ホンシェルジュ 5分でわかる富国強兵!意味や理由、学制など3つの改革をわかりやすく解説!
参考5:青空文庫 肉食之説
参考6:Wikipedia 日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定
参考7:正しい食事を考える会 米と麦の戦後史ー学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略」からー4
参考8:農林水産省 日本の食料自給率

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