infpの擬態先はenfpかintpである

infpである私は他者と関わる瞬間、条件反射で外用の自分スイッチに切り替わる。その外用の自分は、本質側の自分からすればもはや自分ですらない別人であるのだが、人々はその別人を私として認識する。なので、その外用の自分の人格から導き出された「〇〇ってこういう人だよね〜」という理解をされてることが露わになった瞬間、違うんだよ…私はそんなんじゃないんだよ…と心の中で嘆くも、外用の自分は「ンフフフ」とか笑ってそれに対するレスポンスを誤魔化す精一杯のショボイ抵抗をしたり「確かにそういう面もあるかもしれませんねえ〜」とか言って一応相手の考えも受け入れてるような言い回しをしつつも、全肯定は決してしないという地味な抵抗をしている。出来ることなら本来の自分を他者に見てほしいし受け入れてほしい気持ちも多少なりともはなくはないが、他者の前に立った瞬間から条件反射で擬態をしてしまうので、多分この先も一生本来の自分を出さずに過ごすのだろう。
ちなみに、その外用の自分の人格は、目の前にある他者との立場や環境によって変わるが、大体enfpとintpを使い分けている。親しみやすさが重視されたり、エンタメ性を提供すべき立場にある場合は、enfpに擬態する。一方、真面目さが重視されたり、年齢や役職等で上下関係が存在し、且つこちらが下の立場だった場合は、intpに擬態する。ゆえに、どちらの立場や環境で私と関わっているかによって、他者の私という人間の捉え方がかなり変わってくるのである。そして、どちらの捉え方も、本質側の自分が納得する考えはほぼ出てこない。擬態してるから当たり前ではあるのだが。enfp時の私と関わっている人は、私のことを「明るい」「愛想がいい」「フレンドリー」「話が上手い」と言うことに対して、intp時の私と関わっている人は、私のことを「変わり者」「無愛想」「ミステリアス」「マイペース」と言うのである。どっちも一応「私」ではあるのだが、明らかに『私』ではない。これを毎日長時間繰り返し続けると、自分で自分が誰なのかわからなくなり闇落ちルートに突入するので、このような他者に自分を擦り合わせていく機会は、体力的にも精神的にも、短時間をたまにこなすのが限度なのである。そして、intp時はそこまで感じない体力の消耗が、enfp時はえげつないほどガリガリ削られていくことも一因である。所詮偽物のenfpなので、崩れるのも早い。砂上の楼閣とはこのことである。本物enfpはというと、日頃からずっとenfpテンションで外的世界と関わり続けている。一方、その本物ゆえのバイタリティに感服しつつ、やはり自分がなれるような人間じゃなかったんだとより再認識を強めながら遠目に眺めるのがinfpである。ゆえに、私はinfpではあるがenfpとintpならintp寄りなのではないかと考えられる。そんな労力の伴うenfpに擬態したり、鎧としてのintpを身に纏ったりして、どうにか生きている私が唯一擬態をしないで自分を外的世界に出しているものは、だいたい絵や小説や写真ぐらいなので、見てもらえたら割と嬉しいという宣伝を最後に置いて、今日のところはひとまずこれにて終了する。


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