桶狭間の合戦 (上) File003 (3657文字)

戦国時代。
群雄が割拠して混迷の真っ只中にあった日本の歴史を、まったく異なった色に塗りかえた「桶狭間の合戦」について語るためには、今川家や松平元康(のちの家康)や蜂須賀小六や木下藤吉郎などのことから順次語りおこしてゆかなくてはならない。

桶狭間•義元

 まず、今川家だが、清和源氏の流れをくむ足利から出た名家で、国氏を祖としている。

 室町幕府の典型的な守護大名として駿河(静岡)で力をたくわえ、応仁の乱後も戦国大名として生き残ることができた数少ない例である。
そして、戦国大名のさきがけとして名高い北条早雲の助力によってその転換期を経験したのが今川7代の氏親であった。

 氏親は戦国大名としての施政方針を明らかにする分国法「今川仮名目録」を制定した。
その「今川中興の祖」といわれる氏親の後を継いだのは8代・氏輝だったが、わずか24歳で没してしまった。
ここに家督争いが起こり、早世した氏輝の後を継いだのが9代・義元であった。

義元像2


もともと氏輝が家督を相続したのは14歳のときのことであり、幼少の氏輝にかわって今川家の来配をふるっていたのは氏親未亡人の寿桂尼であった。

 寿桂尼は公家の中御門家の出身で、賢夫人のほまれが高く、善得寺(善徳寺・静岡県富士市今泉)に入れていた自分の子の栴岳承芳(のちの義元)を立てて側室の子である良真(花倉殿)に対抗させた。

 当時は家督相続の争いを避けるために、嫡男以外は僧侶として寺に預けられるのが一般的な習わしであった。したがって、義元と良真はそれぞれ違う寺に預けられていたということだ。

 一方、氏親と寿桂尼の絶大な信頼を得て、今川家の内政外交を担っていたのが義元の師である大原雪斎である。一説には雪斎は寿桂尼と通じていたというが、それほど今川家全体を動かす力が強かったということである。

太原雪斎の臨済寺2

 この雪斎と寿桂尼が強力に義元を推し、良真を推す今川の重臣・福島氏を攻めて良真ともども自刃に追いつめたのが「花倉の乱」であった。
こうして母親と雪斎の力によって今川の当主の座に就いた義元は、雪斎を後ろ盾にして今川体制の一新を図ろうとした。

 その第一歩が甲斐(山梨)の武田との接近であった。今川氏は小田原の北条とは固い絆で結ばれていたが、甲斐の武田とは犬猿の仲に等しかつた。

 しかし、義元は、国主となった翌年の天文6年(1537)突然、武田信虎(信玄の父)の娘を妻にむかえたのである。
これは北条にとっては寝耳に水の出来事であり、怒った北条氏綱はすぐさま東駿河に攻め入って富士川から東は「河東一乱」と呼ばれる騒乱状態に陥った。

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