鎌倉殿の十三人 頼朝死去までの簡単人物紹介③(朝廷、平家、奥州藤原氏編)

【朝廷】

《朝廷の権力者たち》

平安時代の朝廷を牛耳る権力者といえば摂関政治の藤原氏が有名だが、その力の源泉は娘を天皇に入内させ皇太子を誕生させる事で外戚として権力を掴み取るという、極めて偶発性を孕んだものであり、不慮の死やその条件が崩れた時には既に崩壊の萌芽は芽生え、遂には白河天皇(しらかわてんのう)が意図せず譲位し上皇となった結果、天皇を傀儡として影響を与え得る外戚政治と同じ状況が産まれ、白河院が自身の置かれた宿命に目覚めた時に院政が始まった。
そしてそれから数代院政が続く間に、気が付けば平家がのし上がり貴族的な武士となり、源氏が荒ぶる武士として力を増し、公卿なれど武威を誇る武闘派公卿が現れ、とはいえ権謀の亡者たる公卿は狡知さに磨きを掛けて朝堂に巣喰い続け、混沌なる政治の揺らぎが朝廷に魑魅魍魎を呼び寄せ、遂には全ての階層が共喰いを始める保元平治の乱を引き起こした。
その結果、朝廷は鳥羽院の莫大な所領を引き継ぎ日本一の財力を要した経国の美女玉藻前のモデル美福門院(びふくもんいん)や、悪左府と言われ綱紀粛正の名の下に苛烈な取り締まりで政敵を震え上がらせた藤原氏の氏長者藤原頼長(ふじわらのよりなが)、身分の壁に阻まれるも当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に実務官僚としてのし上がり絶大な権力を奮った碩学の寵児信西(しんぜい)、後白河院の寵愛により破格の出世を遂げ武士の元締めとして威勢を放った武闘派公卿藤原信頼(ふじわらののぶより)といった刺激的な人物が朝廷から姿を消し、巧みな知恵と豪胆な政治手腕で武士の身から太政大臣まで登りつめ栄華を極めた平清盛(たいらのきよもり)が朝堂を支配した。
のちに日本一の大天狗として数々の為政者を煙に巻き引き攣り下ろした権力の亡者後白河院(ごしらかわいん)を除いては…。
とはいえ、それでも影を潜めて渋とく生き残る為に無能ながら平家に阿諛追従し傀儡として藤原氏の頂きに立った近衛基通(このえもとみち)、平家と歩調を併せて実質摂関家を牛耳った松殿基房(まつどのもとふさ)、後白河院の莫大な所領を受け継ぎ朝堂に威を放った丹後局(たんごのつぼね)、頼朝と協力し新しい公家の在り方を模索した最後の摂関政治家九条兼実(くじょうかねざね)、天性の権謀家として宮廷政治でのし上がった土御門通親(つちみかどみちちか)、後鳥羽院の乳母として公私に渡って朝廷を支えた藤原兼子(ふじわらのけんし)、才覚優れた野心家で治天の君として朝政に君臨した後鳥羽院(ごとばいん)、幕府と朝廷を結ぶ架け橋として両者に誼を通じて天秤にかけた源仲章(みなもとのなかあきら)、処世術が巧みな幕府に魂を売った奸臣西園寺公経(さいおんじきんつね)、正統派の公卿として朝廷再建に力を尽くし権威を築き直した九条道家(くじょうみちいえ)と、朝廷の実力者たちも一枚岩ではなく目まぐるしく権力は移り変わった。

《後白河院及び院の近臣》

・後白河法皇(ごしらかわほうおう)=後白河院(ごしらかわいん)
西田敏行。治天の君。
朝廷の実質的な当主である治天の君として院政を敷き、平清盛、木曾義仲、源義経、源頼朝など、天下を真摯に治めようとする人々を貴族的な奸計でもって翻弄し政情を混乱させ、朝廷の権威に綺麗な手でも汚い手でも触れた人間を悉く騙し不幸に陥れようとする事で、日本一の大天狗と称される。
大河登場時は平家の天下により後白河院は常に圧迫されながら過ごしており、遂には鹿ヶ谷の陰謀を企むも直ぐ発覚し、平清盛に幽閉される身となるや、今度は積極的に各地の反平家勢力に裏から手を回して反旗を促し生き残りを図り、その執念は頼朝の夢枕に現れるほどであった。
心の奥底では狷介不羈なる意固地な心性がこびりつくも、他人を裏切る事に何ら良心の呵責もない為に欺瞞に満ち溢れた口先だけの二枚舌が常態化し、理想を掲げる様な政治的な展望もなく自身の欲望に忠実で今様や双六にうつつを抜かし、ただただ私欲に駆られた権力の保持に固執する為に、時に因循姑息に、時に直情径行に、周りの者を振り回し続けた老獪な妖怪として描かれる。
そして義仲も義経も、老いたとはいえ大政治家の清盛すらも、無責任な詐術の罠に嵌り不幸な最期を遂げたが、冷徹な政治判断を厭わない政治の天才頼朝だけは、後白河院を大義名分に利用し利用され、時勢を動かして政治的駆け引きを駆使するなど、問題が起こる度に巧みに野心溢れる権力の楔を約定に忍ばせ後白河院と渡り合った。
頼朝の態度が気に食わず義経に発破をかけ頼朝討伐の院宣を出すも、義経の呼びかけに兵が集まらず義経が京を退去し頼朝が大軍勢を率いて上洛するや、その舌の根の乾かぬうちに義経を捨て頼朝に義経討伐の院宣を下すなど、近臣すら困惑する薄情さと節操のなさは後白河院の性格を表す象徴的なシーンとして描かれた。
ただし武士の世となる風を感じながら死ぬ事は相当不本意であったようで、のちの後鳥羽上皇に遺言を託し亡くなった。
史実では評価が二分する人物で、能力についても権謀術数に長け数々の権力者たちを手のひらで泳がし、最後まで武力に呑まれる事なく朝廷の権威を保持した策謀家とみる向きと、何ら定見もなく右往左往とその場凌ぎの対応をする事で周囲は混乱し、結果的に武士に服従する事なく朝廷の権威を保てただけのトラブルメーカーとする向きと、結果そのものも朝廷の権威を守ったのではなく、類まれなる政治交渉力をもってしても力及ばず、武士の台頭を許し武家政権樹立を果たされてしまった専制君主とする向きと、一貫性のない短慮軽率な失政により、武士の政治参画を許し朝廷の権威を失墜させ天下を奪われた暗主という向きと、様々な解釈に分かれる。
しかしながら幾度となく院政の停止や幽閉の身になるも復権を果たす粘り強さや、数々の謀略を繰り出す尋常ならざる行動力は誰しもが認める所で、後白河院に触れた全ての人々が翻弄された事からも後白河院が歴史の鍵を握っていたのは事実であり、源平時代において強烈な存在感を歴史に放った。

・丹後局(たんごのつぼね)=高階栄子(たかしなのえいし)
鈴木京香。後白河院の寵妃。
元々は後白河院の側近の妻であったが、院が幽閉された折に夫が処刑となり、その後復権した後白河院の寵愛を得て皇女を産んだ美女。
単に愛でられる存在であっただけでなく、後白河院の良き相談相手として大胆に政治介入を果たし、意思決定に影響を与えた。
義仲が御所に乗り込んでくると追い返したり、義経が検非違使の任に縛られて鎌倉に帰れない時には平宗盛の護送役として鎌倉行きを命じるなど、艶やかな色気の内に秘めた肝の座った剛気な性格と、たおやかな微笑の奥に隠された聡明さは、後白河院の政治力を底上げし、丹後局自体も独立した権力を持つに至った。
史実でも「朝務はひとえに、かの唇吻にあり(朝廷の政治は、彼女の口先に左右される)」と噂されるなど、傾国の美女楊貴妃に喩えられる程の政治力を発揮し、後白河院亡き後も院の莫大な荘園を皇女である娘と共に相続した事で経済的基盤を確立し、自身が推挙した後鳥羽天皇を補佐する名目で政治的基盤も整えて実権を握り、頼朝陣営とは様々な思惑を交錯させながらも時には結びつき、見事に政局を纏めて公武の一線を画したまま、朝廷が崩壊してもおかしくなかった難局を乗り切った。

・平知康(たいらのともやす)
矢柴俊博。北面武士。
後白河院の側近で、鼓の名手として鼓の判官とも呼ばれるなど貴族文化に精通し、作法や文化に疎い田舎侍を心の底から侮蔑視して嘲笑い、自らは院のご機嫌を伺い犬となって擦り寄りゴマ擦る事で、後白河院お気に入りの近臣となる。
しかし虎の威を借る狐の如く増長し横柄な態度で義仲にも接し、義仲が後白河院の策謀に陥れられて逆上して叛旗を翻し軍事衝突した際に義仲と相対峙し、鼓判官を殴ったらどんな音色がするのかと揶揄され、ぶん殴られた。
後白河院が復権するや早速お先棒を担ぎ義経を籠絡する手先となるが、頼朝が上洛して後白河院の立場が苦しくなり院の苛立ちが抑えきれなくなると、八つ当たりとして怒りの矛先が向けられ罷免され京から追放された。
史実では院政期に確立された上皇直属の近衛兵である北面武士にも任じられた側近である事から、軍事貴族の性格をもっと有するのではないかと個人的には思う。

《皇族》

・以仁王(もちひとおう)
木村昴。後白河院の第三皇子。
平清盛によって後白河院が幽閉されると、平家追討の令旨を各地の反平家勢力に放つも、自身の挙兵はすぐに暴かれて平家の知る事となり、京では諸勢力の協力も取り付けられずに鎮圧され討たれた。
挙兵計画自体は朝政に参画して源氏の最高位でもあった源頼政も討たれた事で頓挫したが、令旨は一人歩きを始め、その令旨を旗印に諸国の源氏が武装発起し、平家滅亡の切っ掛けを作った。

・安徳天皇(あんとくてんのう)
後白河院の第七皇子。
母は平清盛の娘であるので、平家の天皇ともいえ、清盛が実力行使に出て後白河院を幽閉した折に、僅か3歳にして即位した。
幼少のため政治的な事は何も分からず、木曾義仲が入京し都落ちせざるを得ない時も、源義経が一ノ谷、屋島、壇ノ浦と攻め寄せて来た時も、ただただ周りの女官に促されるままに転居し、最期は祖母の二位尼に水の底にも都がありますと慰められながら、抱きしめられ海に入水し亡くなった。
享年8歳。

・後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
尾上松也。後白河院の孫。安徳天皇の異母弟。
安徳天皇が平家と共に都落ちすると、丹後局が後白河院に促し三種の神器を備えぬまま4歳で天皇に即位する。
後白河院の臨終の床に呼ばれて遺言を受け、親政政治を目指す。
三種の神器の揃わない即位は幼少期から後鳥羽院の心の傷となり、故実先例を重視する公卿たちからは成すこと全てが正当な継承を経ない事へと結び付けられて白眼視される事もあり、無責任に武士がのさばる世情への不満を後鳥羽院の不徳と見做し陰口を叩かれるなど、周囲を見返して正統性を高らかに示すためにも、王権強化して実力で全て封じる必要があった。
その強迫観念から若年にして息子に天皇位を譲位し、自らは治天の君として院政を敷くや、人事を刷新し積極的な朝廷改革を行い能吏を集め、近衛兵としての北面武士に加え新規の増設軍である西面武士を雇い入れるなど、着々と対鎌倉幕府と対峙出来るほどの組織運営を目指して腐心し、また一方で土御門通親のような謀略家を懐に置き幕府と硬軟自在に政治交渉を行い、朝廷の権威権力両方の復権を目指した。

《公家》

・九条兼実(くじょうかねざね)
田中直樹。摂関家。
一時代前に栄華を誇った摂関家の一族として廟堂に重きを置くが、後白河院の奔放なる場当たり主義の振る舞いには閉口し、頼朝討伐の院宣を状況が悪化したからといって、直ぐに義経討伐に切り替えた時には何度も後白河院に確認を取り言外に抵抗を示した。
後白河院亡き後は最高権力者として朝廷を取り仕切り頼朝とも蜜月関係にあったが、頼朝が娘の大姫を天皇へ入内させようとした時に、兼実の娘が既に入内している事から少し距離が出来、そこに付け入った丹後局と土御門通親に足元を掬われ失脚した。
史実では名門中の名門貴族の摂関家として、台頭してきた無知な武士層には決して敵わない有職故実に通暁する儀礼政治を構築する事で、政治的文化的に公卿が必要不可欠とならざるを得ないよう生き残りを図った転換期の公卿で、王朝彩る最後の摂関政治家ともいえる。
その博覧強記で故事典礼に詳しい膨大な知識量と学識は他の追随を許さず、正しき摂関政治を理想とする兼実は、もちろん旧来の秩序を破壊する新興勢力の清盛や迷惑千万な後白河院とは政治理念も性格も違い過ぎて反りが合わずに、かといって政治工作や政治的妥協による絡みつくような粘着質な権力欲までは持っておらずに傍観を決め込み、右大臣でありながら冷遇されて、二十年間そのまま権力の蜜を吸う事なく同じ地位に留まり続けた。
ただしその間に時勢は動き、平家が没落し、義仲が討たれ、義経も京を終われ、天下を睥睨した頼朝が朝廷の協力者として望みを託そうと朝廷の非主流派であった兼実を見出した事で、俄かに摂政就任という幸運が舞い込み、朝廷政治の頂きに立ってからは失われた二十年を取り返すように“徳政と祈祷の調和により政道を純素に反す”という理想を掲げて政務に邁進した。
しかし時代は過去を振り返る者には冷たく、兼実は摂関政治の輝きを最後に放った時代の落伍者となった。
ただし40年以上に渡って綴られた兼実の日記“玉葉”は今でも一級資料として後世の研究に大いに役立っている。

・土御門通親(つちみかどみちちか)
関智一。
朝廷一の陰謀家として着々とのし上がり、遂には頼朝や丹後局と結託して、摂関家の九条兼実を追い落として朝廷の実権を握った。
史実では常に権謀の冴えを見せ厚顔に世を渡り歩いた稀代のマキャベリストとして歴史に名を残し、平家が栄えれば平家に近づき能吏として信望を得て重要な地位に収まり、平家が落ちぶれると即座に捨て去り、その頃にはもう次の布石を打っているという先を見通す目と、権謀を図る相手にはまず甘い汁を吸わせて安心させてから、いつの間にか自身の野心を叶えるカードを手にする政治工作を得意とし、朝廷の頂きに立つや後鳥羽上皇の後見人として権勢を奮った。

・松殿基房(まつどのもとふさ)
大河では登場なし。
摂関家の当主が若くして亡くなり、その子近衛基通もまだ幼かった事から、異母弟で氏長者になった松殿基房が中継ぎとして一時的に摂政になるも、10年以上に渡り摂政の地位にある事で、周囲の認識も変わり、また有職故実にも通じて手堅く政務をこなしていく中で、摂関家の乗っ取りを画策した。
特に摂関家の莫大な所領は先代の異母兄の正妻である平盛子に引き継がれており、やがては異母兄の子近衛基通が継承する予定であり平清盛も平家による実質的な支配を維持するつもりでいたが、盛子の急死により成人していない近衛基通には渡らず、氏長者として基房は後白河院に遺領を捧げた。
そして自身の子を幼いながら高位につけ摂関家嫡流の道筋をつけ、後白河院に渡った摂関家領を受け継ぐ手筈を整えた。
しかしこの事が清盛の逆鱗に触れ、後白河院は幽閉され、基房は解任され左遷された。
のちに許され帰京するも後白河院の覚え愛でたき氏長者は近衛基通に成り代わっており復権は叶わず、木曾義仲が上洛する混乱に乗じて義仲に近づき一瞬だけ朝政に返り咲くも、義仲敗走後はすぐに引退した。
保元平治の乱で個性溢れる公卿の実力者が去った後の朝廷の第一人者としては、少し落ち着いた存在といえる。

・近衛基通(このえもとみち)=普賢寺関白(ふけんじかんぱく)
摂関家の嫡流。大河では登場なし。
摂関家の正統後継者としての血胤ながらも、幼少時に父を亡くした事で有職故実も習えず、中継ぎとして伯父の松殿が摂関の地位を継承するなど、摂関家の血流のみに頼る無能な人物だが、それ故にコントロールしやすく平清盛や平家一門からは庇護を受け、やがては後白河院にも可愛がられるなど、終生自身の意思は持ったとは思えない肩書きだけの凡愚なる公卿で、道化として生きながらえた。

・吉田経房(よしだつねふさ)
大河では登場なし。
平家政権における実務官僚として財務を司る内蔵頭を歴任したのち、天皇の家宰である蔵人頭や上皇の家宰である院別当などを兼務して忠実に政務を遂行していたが、参議に昇進する時期には頼朝と懇意となり、朝廷の対幕府に対する交渉窓口の初代関東申次に任命された。
頼朝には信頼されていたようで、元々後白河院の姉の上西門院に仕えていた時に知り合っていたとも、伊豆の知行国主として任官されていた時に伊豆の北条時政と懇意にしていた縁で親しくなったともいわれ、その実務能力と共に朝廷からも鎌倉幕府からも信用は厚く、存命中は良好な公武の橋渡しを引き受けて活躍した。
頼朝死去と同じ頃に病没した。

《その他》

・源仲章(みなもとのなかあきら)
生田斗真。在京御家人。後半登場。
後鳥羽上皇に仕え、学者としての一面も垣間見せる在京の武士でありながら、鎌倉とも綿密に連絡を取り御家人としての地位も固めて、京の治安や幕府と朝廷との折衝にも深く寄与し存在感を高める事で、どちらの陣営にも信頼を得て、両陣営から要職を嘱望される後鳥羽上皇の側近。
スパイや二重スパイなど数々の疑惑を歴史に残す曲者として知られる。

・藤原兼子(ふじわらのけんし)=卿局(きょうのつぼね)
シルビアグラブ。後鳥羽院の乳母。後半登場。
姉の藤原範子と共に後鳥羽院の乳母となる。
姉には土御門通親が近づき、婚姻関係を結ぶ事で通親は外戚として朝廷で権勢を誇るが、妹である兼子は政治の表舞台に現れる40代半ばまで独身を貫き、後鳥羽院を支え続けた事で後鳥羽院の独裁志向が強まると兄の藤原範光と共に側近として重用された。
その特異な立場は幕府における北条政子と比肩し得るもので朝政を左右した。

・慈円(じえん)
山寺宏一。天台座主。九条兼実の弟。後半登場。
比叡山延暦寺の貴主として天台宗を統括する天台座主に4度なり、私見を述べた歴史書の愚管抄を後世に残した名僧として歴史に名を留める。
幼き頃より数多の争乱を目にし、自身は政治に関わりを持たず遁世しようと決心した事もあったが、兄である九条兼実は摂関家の重鎮であり必然的に聖俗両者が支え合わなければ一族が憂き目に遭う事は必定で、政治の世界とは縁が切れず巻き込まれた。
兄が失脚した事で一旦は朝政とは距離を置くも、歌人として後鳥羽院にその才能を愛されるや再び後鳥羽院の相談役として政治の世界に舞い戻り、才に溺れ剛毅果断で勇み足のきらいがある後鳥羽院のもとで、天下泰平を祈り公武の共栄を理想として掲げ補佐した。

・文覚(もんがく)
市川猿之助。破壊僧。
出家前は北面武士として御所の護衛を務めていたが、いつの日か髑髏を源義朝のしゃれこうべとして平家打倒を説いて回り、全国行脚する怪僧として名を広めた。
頼朝の下へも何度となく訪れて髑髏を本物として菩提を弔い平家打倒の悲願を誓うべしと迫るも、あからさまな偽物の髑髏を捏造して陰謀を巡らす不信感から常に追い払われる。
しかし頼朝の平家打倒が実現性を帯びて挙兵したその時、髑髏は義朝の髑髏となり儀式に則って誓いの証となった。
史実でも平清盛や藤原秀郷を呪詛したり、地位や所領を望み欲に塗れて各地の寺院を勧請し、常に争いの火種を自分の行動により撒き、学識もなくただ感情的な荒ぶる情熱だけで周囲を巻き込み動乱を引き起こした。

【平家】

《平氏政権》

平清盛の祖父正盛の代に白川院による院政期が始まるが、何ら武力的背景を持たない院の武力的支柱を申し出る事で共に繁栄し、父の忠盛の代には海賊を自らの勢力に組み込み、西国を中心に勢力を広げ、日宋貿易を手掛けるなど、経済的基盤や軍事的基盤を固めて平家の存在を朝廷に知らしめた。
そして清盛の代になって皇族や摂関家などが真っ二つに分かれて争った保元平治の乱が起こると、朝廷からは実力をもった公卿が去り、源氏を代表とする他の武家も駆逐された事で平家の独壇場となり、平家の世は未来永劫続くかと思われた。
清盛による平家の栄華はそれ程までに当時の人々を圧倒した。


・平清盛(たいらのきよもり)=平相国(へいしょうこく)=清盛入道(きよもりにゅうどう)
松平健。伊勢平氏。平家の棟梁。
伊勢平氏として元々備わっていた軍事基盤に加えて、莫大な土地の受領と日宋貿易による財政基盤を確立し、保元平治の乱を経て政治基盤を固めるや、瞬く間に朝廷を支配し、「平家にあらずんば人に在らず」と謳われるほどの権勢を得て、武士の身でありながら太政大臣まで上り詰め、初の武家政権を樹立した。
講談などでは驕り高ぶった貴族的な武士として憎々しげに描写されるが、史実では温厚で情け深く周囲に気配りが出来て、迷信に捉われない現実的な人物として資料に残る。
しかしながら改革志向が強い政治理念は既得権益層である皇族や公家、寺社勢力の反発を招き、中央集権化の組織体勢の強化は地方の武士から反感を抱かれて、次第に反平家の空気が全国に醸成され、カリスマ清盛の死をもって雪崩を打ったように平家の世は終わりを告げた。
最期は熱病に冒される中、頼朝の首を我が墓前にと遺言し憤死した。

・二位尼(にいのあま)=平時子(たいらのときこ)
大谷恭子。清盛の妻。宗盛の母。
二条天皇の乳母であり、後白河院の寵妃となった平滋子と共に朝廷政治への政治的バランスを整える為に自らの身を捧げ、積極的に清盛を補佐した。
講談などでは賢明なる長男の重盛を退け、無能な実子である三男宗盛を溺愛し後継者とする浅ましさと、壇ノ浦で無様な死に様はしないと覚悟を決め入水する潔さの両面が描かれ、大河でも清盛亡き後は平家の精神的支柱として重きを成し、幼き安徳天皇と共に海に飛び込むシーンは悲壮感溢れる、この世の無常を感じさせた。

・平宗盛(たいらのもねもり)
小泉孝太郎。平家の棟梁。
平清盛の三男で、母が清盛の正室であった事より嫡男として育てられるが、優柔不断で愚鈍な貴族的趣味に長ずるだけの、およそ平家の棟梁としては相応しくない人物で、宗盛が家督を継いだ事で平家が滅びる道は早まったともいえる。
大河では心配症で頼朝の動向を常に気にしていたり、壇ノ浦で入水するも覚悟が足りずに海面に浮かび捕らえられたり、義経と頼朝の対立に心を痛めて代筆を申し出るなど、ボンボンならではの甘さや世間を知らない未熟さを露呈しながらも、育ちの良さからくる人懐っこさだけは最後まで失わなかった。
最期は頼朝と面談し媚びへつらい助命嘆願するも、その姿は他の御家人達からも嘲笑され斬首を逃れる事はなかった。

・平重盛(たいらのしげもり)

・平知盛(たいらのとももり)

・平教経(たいらののりつね)

【奥州藤原氏】

・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)=御館(みたち)
田中泯。奥州藤原氏第三代当主。鎮守府将軍。
平泉を拠点に奥州の覇者と称される、源氏や平氏と対峙し得る第三勢力の老獪な君主。
京から脱走した幼き源氏の御曹司である義経を匿って養育し親子のような関係を築き、義経が平家討伐の為に頼朝の元に駆けつけ、その後に平家を滅ぼす日本一の英雄として活躍する姿には心から喜び祝した。
しかし頼朝と義経が対立し、義経が後白河院と組んで京で挙兵した折りには時期尚早と応ぜず、人を得ず失踪した義経が再び奥州へ逃れてくると再び庇護し、今度は鎌倉幕府と対抗するための布陣を整えた。
しかし老衰のために床に臥せてしまい、苦慮していた長男と次男の諍いを収める為にも、義経を大将軍として3人で力を合わせて鎌倉幕府と相対峙せよと遺言し、最期の気力を振り絞って庭までよろめきながら辿り着くと、自身の手で鎌倉軍を迎え撃つ時間がなき事への後悔と自責の念を呟き、天を仰いだのち力尽き崩れ落ちた。
史実でも黄金で彩られた中尊寺金色堂は奥州藤原氏の財力を誇示し、砂金と貿易によって蓄えられた経済力は朝廷へも抜群の効果を発揮し、その政略家としての政治的駆け引きの妙も相まって、平清盛も、源頼朝も、後白河院も、誰もが手出し出来ず、奥州に独立した勢力として堂々と鎮座していた。
また都人には心の中で夷狄と蔑まれながらも、圧倒的な財力により存在感を発揮して、諸勢力と手を結びながらも決して利用はされず、老獪な外交を繰り広げて鎮守府将軍の地位を手に入れるなど、冷静にして豪胆な人物であり英邁な君主として異彩を放った。

・とく
秀衡の正室。次男泰衡の母。
藤原秀衡が死の間際に苦慮していた側室の長男と正室の次男の諍いを収める為に、側室の子である長男の国衡に秀衡の正室とくを娶らせる事を思いつき、義理の母でありながら義理の息子の妻となった。
そして自らの子である次男の泰衡は当主となるも、敵対していた義兄の国衡が義理の父となる親子関係となった事で、当時の慣習として兄弟よりも親子の方が道義的なストッパーが掛かる事を期待した。


・藤原国衡(ふじわらのくにひら)
平山祐介。秀衡の側室の子。長男。
父秀衡の遺訓を守り義経と同調し好戦的な態度で鎌倉とも接するが、正室の子で跡取りの次男泰衡とは険悪な仲のままであり、結局は泰衡が義経を急襲する事により奥州藤原氏は二つに分断され、遂には滅ばされた。
史実でも武者ぶりが天晴れと評されるような武勇を供え、奥州育ちの母から生まれた気質は奥州の家人たちから親しまれて支持を得たが、その事が返って内紛の種に繋がり、父秀衡が危惧して自らの正室とくを長男国衡に嫁がせ、次男であり当主の泰衡と親子関係となる事で平和理に均衡を保ち義経と3人で手を携え合っていく事が望まれるも、協力関係が破綻する事は防げなかった。
ただし直接対決ではなく義経は襲撃されたが、国衡は鎌倉との決戦まで地位を保ち、戦場にて討ち取られた。

・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)
山本浩司。秀衡の正室の子。次男で嫡男。
父秀衡が亡くなると第4代当主となり鎌倉との政治外交を担うが、北条義時が頼朝の使者として奥州の地に足を踏み入れ、義経には愛妾静御前の顛末に嘘を混じえて伝え挙兵の意思を誘発し、泰衡には強硬派の弟頼衡を目の前で暗殺し義経を排除しない事には奥州に鎌倉勢が攻め寄せると恫喝するなど、頼朝の陽動作戦や離間工作に嵌められ、秀衡の遺言に背く形で義経に対する襲撃を命じてしまった。
その結果奥州の地に平和が訪れると思った本人の思惑とは真逆の展開となり、頼朝は弟の敵討ちとして宣戦布告し奥州に攻め寄せ、軍神義経を失った奥州の武士団は難なく敗れて一族は滅ぼされた。
講談では名君秀衡が国衡、泰衡、義経に起請文まで書かせて三人の結束を約束させたにも関わらずに、頼朝の策略に引っ掛かり一族を滅ぼした暗君として描かれる。
史実でも近年までは講談と大差ない評価であったが、近年の研究により当初は秀衡の遺言通りに協力関係を築こうとしていたが、鎌倉の脅威は義経庇護が原因とする義経排除派の家人たちが今にも暴発しそうで、そうなったなら一族分断は避けられず内部崩壊が始まる事を危惧し、義経というカードを捨てて国衡との協力関係だけは維持し、一族を束ねたという見方に変わっている。
しかしながら頼朝に見事に欺かれたのは事実なので、暗愚ではないが力無き当主とはいえよう。
最期は北に逃げ、頼朝に命乞いの手紙を送るも無情な頼朝によって拒絶された上に追討令を下され、部下の寝返りによって殺された。

・藤原頼衡(ふじわらのよりひら)
川並淳一。秀衡六男。
平泉に使者として訪れた義時を不審に思い、刀でもって口を開かせようと脅したが、梶原景時が義時に同行させた善児により殺された。
資料は少なく泰衡によって誅されたとのみ記される

・藤原忠衡(ふじわらのただひら)秀衡五男。側室の子。/藤原通衡(ふじわらのみちひら)秀衡三男。側室の子。
資料は僅かながら秀衡の遺言を守ろうと義経を主君であり大将軍として懐き、頼朝と対決しようと動いていたが、内紛を恐れた当主泰衡によって武力鎮圧され、両人とも殺害された。

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