鎌倉殿の十三人 頼朝死去までの簡単人物紹介①(北条一族、源氏一門編)

※★は13人メンバー

【北条一族】

《義時の家族》

★北条義時(ほうじょうよしとき)=小四郎=江間四郎/小四郎(えましろう/こしろう」
小栗旬。本編の主人公。
北条家の次男であり、家督とは関係がなく純朴な青年として伸び伸びと育っていたが、姉が源氏の嫡流頼朝と結ばれ、兄がそれを好機として板東武者の野望を剥き出しに行動する事で巻き込まれ、頼朝の小間使いをするうちに、頼朝から信頼を得て秘書の様な立場になる。
国家と個人の幸福の違いに板挟みになり苦悩しながらも、頼朝に影響され、国を舵取りする現場に身を置く事で、清濁併せ持つ一廉の人物として成長し、やがては鎌倉幕府の要となり、その後国の行く末を定める運命へと歩んで行く。
史実でも地盤のない頼朝が先を見据え、各豪族の子弟を子飼いの武将として集った親衛隊の筆頭で、“家子の専一”と評された。
頼朝存命時は頼朝の手足となり戦場で華々しく戦果を上げるような目立った活躍はしていないが、頼朝亡き後は頼朝の姿を最も間近に見続けてきた者として、憑依したかの如く卓越した政治能力を受け継ぎ、歴史の表舞台に躍り出るや、鎌倉幕府の重責を担った。
従来の大衆イメージとしては血生臭い権力闘争を繰り広げた冷酷な知恵者だが、自身に与えられた状況からは逃げることは叶わず、ただ降り掛かる火の粉を懸命に打ち払い続けた結果、歴史に名を残したという解釈も成り立つ。
個人的には大河の義時モデルがゴットファーザーのマイケルとの事で、徐々に甘さを捨て、逞しく強かに大人として視野を広げて行動していく様を、楽しみながら見届けていきたい。

・八重(やえ)=伊藤祐親の娘
新垣結衣。義時の最初の妻。
流人となった頼朝が預けられていた伊東家の娘で、頼朝と密かに通じ子を産むも、平家の叱責を恐れた父により、仲は引き裂かれ、子は処分される憂き目に合う。
頼朝の身勝手さを知りながらも慕い続け、義時からの暖かいアプローチを袖にし続けるも、真心に打たれて、義時の最初の妻となる。
仲睦まじく暮らしていたが、孤児が川で溺れているのを亡き息子仙鶴丸の姿に重ねて救いだし、自らは溺死。
その死は義時の甘さを断ち切るトリガーの1つとなった。
資料では僅かに伝承レベルで残るのみ。
頼朝が伊東家の娘との間に子を設けるも、父に見つかり殺害された。一説には八重という名で、その後は家人の江間次郎に嫁いだ。もしくは入水自殺した。北条義時は江間小四郎と名乗っていた。長子の北条泰時の母は不明、ただし家督を継いでるので身分はそれなりに高い。北条義時は2人目の妻を口説く時に1年間ラブレターを送り続けた。などなどを繋ぎ合わせて、一途に八重を慕いアプローチする義時と、人徳溢れる泰時を産んだ心優しい八重の物語が紡がれたと予想。

・仙鶴丸(せんつるまる)
頼朝と八重の息子。
頼朝が密かに八重と通じ産ませた子で、頼朝が幽閉先の館を抜け出し北条家に匿われている事態に慌てた伊東祐親によって、頼朝には追手を手向け、仙鶴丸は川遊びと誘われて、そのまま水に沈められた。
八重には出家させたとしか伝えていなかったが、のちに真実を知りずっと心に傷として残った。

・北条泰時(ほうじょうやすとき)=金剛(こんごう)=頼時(よりとき)
坂口健太郎。義時と八重の息子。
幼き頃、母八重が戦災で親を失った孤児たちを育てていた事で、母の愛情を独占出来ずに拗ねたりもしていたが、八重の慈悲深き愛情が伝わり、優しい子に育ち、また弱い者イジメをしていた体の大きな子に立ち向かい庇うなど、義時の公明正大な強さもしっかりと受け継ぐ。
成長してからは、腕が立ち、知恵があり、人と人とを結ぶ力がある、と坂東武者の鑑と称された畠山重忠に憧れ、父の若き頃と同じく綺麗な眼差しのまま権謀渦巻く鎌倉の舞台に放り込まれ理想と現実の乖離に苦悩するが、次期鎌倉殿継承者頼家(=万寿)を支え、次なる世代を託される存在となるべく奮闘する。

・鶴丸(つるまる)
きづき。
戦災孤児の身から八重に養われ、義時の子金剛の親友となる。
八重が川で溺れている鶴丸を救って亡くなった事で塞ぎ込む事もあったが、義時の嫡男金剛とはその後も良好な関係を続けていた様で、巻き狩りに金剛の家人として立派に成長した姿を見せた。
モデルは平資盛の落胤と噂されるも出生不明で、北条家の家司(のちの得宗家執事=内管領)として数代のちには北条家以上の権勢を奮った長崎氏の祖となる平盛綱の可能性があるが不明。

・比奈(ひな)=比企能員の姪
堀田真由。義時の2番目の妻。
比企一族の政略結婚の道具として最初は頼朝にあてがわられるも政子の牽制により失敗し、次に義時に引き合わされるも、八重への想いを断ち切る事が出来ずに断られた事で、半ば運命に諦めかけていた自身の生き方に積極性を芽生えさせ、義時にアタックして心を掴み2人目の妻となる。
史実では容貌はなはだ美麗なりと称され、廟堂においても噂される絶世の美女とされ、義時が毎日ラブレターを1年間送り続けても振り返られずに、頼朝の仲介によって結婚した経緯があるが、大河では振り向いて貰えない比奈がプライドを守る為に八重とのエピソードを引用し、執拗な誘いがあって困ると吹聴していた。
北条氏と対立する比企氏の娘として両家の板挟みになるのは避けられず、今後対立が加速するならば苦しい選択を迫られるのは想像に難くない。

・北条重時(ほうじょうしげとき)
義時と比奈の息子。

・のえ=伊賀の方
菊地凛子。義時の3番目の妻。後半登場。
天皇の事務官として代々蔵人所に勤めた家系で、兄の伊賀光宗は後に政所執事に就任するなど政務に明るい有力御家人として幕府に重きを成し、幕政だけでなく朝廷にも人脈を幅広く持つ事で、義時と結託する思惑を忍ばせながら、のえと義時は婚姻関係を結んだと思われる。
母方の祖父は十三人メンバーの文官で公卿の二階堂行政でもあるが、大河でどう扱われるかは不明。

・北条政村(ほうじょうまさむら)
義時とのえの息子。

《義時の親兄弟》

★北条時政(ほうじょうときまさ)=四郎=しいさま
坂東彌十郎。伊豆の土豪。義時の父。
中小企業の社長みたいなエネルギッシュな味のある人情家として存在感を放つも、その風貌からは想像し難いが文才や実務能力により京とのパイプを持つなど、飄々としながらも大胆と繊細さを兼ね備え、情勢分析や人間観察に優れた癖のある田舎侍。
時には臆病であったり、根気が続かなかったり、自信なさげになったり、ネガティブな言動を取りがちであるが、妻りくの発破により腹を括ると人間力に溢れた本来の実力を発揮して、頼朝の良き後ろ盾として自らも幕府の重鎮となっていく。
特に頼朝の代理として上洛した折に後白河院に呑み込まれず、守護地頭の設置を認めさせた手腕は、その後の歴史を変えた。
史実でも祖父時家の代に京から下向し伊豆に移り住んだ為に在地勢力としてはまだ小豪族に過ぎなかったが、その代わり京との繋がりがあった事が後に優位に働き、義仲や義経が去った後の京の混乱を京都守護として見事に収めて、独断専行のきらいがあっても公平な捌きと迅速な処理で貴族からも信用された。
また頼朝と政子の仲を当初は反対するも、受け入れた事で頼朝からも全幅の信頼を寄せられて頼られ、着々と実力をつけ勢力を拡大し、頼朝が亡くなる前には比企氏との二大勢力にまでのし上がった。
従来のイメージでは始皇帝の呂不韋ではないが、伊豆の土豪から一介の流人である頼朝を擁して天下を手中に収めた豪放磊落な野心家であり、裏で全てを操っていた黒幕の陰謀家といった印象が強かったが、大河では困難を前にしたら頭を抱えるも、それを面白がれるタフさもあり、目の前の出来事に対処するうちに運命が転がり始め、時には運を天に任せて博打を打ったりと、計算ではなく卓越した対応力により結果的に実力者となっていく解釈は個人的には面白い。

・りく=牧の方(まきのかた)
宮沢りえ。義時の継母。
下級公家の京育ちで姫キャラ。
勝ち気で我儘で、すぐ悪巧みを思いついたり、人に責任をなすりつけたり、派手好きで自由奔放、美貌を餌に他人を操ろうとしたり、お世辞にも性格が良いとは言えないが、自分の欲望に素直で茶目っ気たっぷりな愛らしさが、小悪魔的な魅力となって、夫の時政はゾッコン。
史実でも自由奔放な振る舞いや、ちゃっかりした世渡り上手な面は窺え、年齢差もあり時政には甘えて、自分本位な欲求を懇願したんだろうというのは透けて見えるので、個人的には今回の演出には脱帽。
また幼き頼朝の助命嘆願をした池禅尼の姪っ子でもあり、頼朝に対する眼差しもおそらく見上げるものでは無かったのではないだろうか。

・北条政範(ほうじょうまさのり)
中川翼。時政とりくの息子。後半登場。
京育ちのりくの自己愛溢れる母性本能によって、無骨な坂東武者とは正反対の教養があり優雅な振る舞いの出来る優しく素直な子として育てられ、りくが時政へ事あるごとに北条家の跡取りは政範と釘を刺し、その結果小四郎は江間小四郎として分家を名乗る。

・政子(まさこ)=御台所(みだいどころ)
※源氏一門参照

・北条宗時(ほうじょうむねとき)=三郎
片岡愛之助。義時の兄。
北条氏の嫡男で大望を抱くも、志半ばで善児により刺殺される。
史実ではあまり資料に残っていないが、追跡中に探し物を取りに頼朝一行と離れた所を暗殺されたのではなく、別働隊として動いていた戦場にて小平井久重に射殺され、その小平井久重は平家討伐以降に捕らえられ、報復により処刑されている。

・実衣(みい)=阿波局=北条時政の娘
宮澤エマ。義時の妹。
家族の主だった者が歴史的な役割を担っていったとしても、絶えず大衆的な目線で下世話なお喋りと一時の安らぎを、コントパートとして夫の阿野全成と共に繰り広げる。
ただし夫の全成は頼朝の弟であり、頼朝と政子の次男実朝の乳母(≒養育係)でもある為、本人達に自覚は無いが、権力の甘い香りに誘われやすいポジションではある。
史実では頼朝存命の頃は、自身も夫の全成も政治色や軍事色も薄い為に、権力の蚊帳の外にいたかの様な印象があるが、父時政の政治的布石によって実朝の乳母となって以降は、北条家の手足として政争に介入する立場を得る。

・北条時連(ほうじょうときつら)=五郎=後の時房(ときふさ)
瀬戸康史。義時の弟。
頼朝や義時ら主要人物の息子世代が成長してから登場。
まだまだ父親の時政の言う事をハイハイ聞くだけの従順な坊やだが、史実では顔立ちも良く、和歌や蹴鞠など公家文化にも精通し、ゆくゆくは京との橋渡しを嘱望されている時期で、誠実な人柄は相手を信じて事に全力で当たり信用を得、幼少時より父や兄義時の政治的な補佐で命じられた周囲への気配りを通じて、義時の嫡男泰時と共に北条氏の一翼を担うべく与えられた役割を忠実に担い粉骨砕身する。

・ちえ
義時の異母妹。
畠山重忠が中盤から北条一族の親族会議に顔を出すのは、彼女と結婚した為。

・あき
義時の異母妹。早世した為に大河ではほとんど出番はないが、夫の稲毛重成が妻の供養の為に架けた橋の法要の際に頼朝が訪れ、その時に落馬したという記述がドラマでも活かされた。

・その他の時政の娘たち(義時の兄弟たち)
他にも子女はいるが、大河前半ではストーリーに絡まないので特に出番なし。

《その他の親族》

・牧宗親(まきむねちか)=りくの兄
山崎一。義時の伯父。
京の公家で妹のりくの悪巧みに乗って、頼朝の愛妾亀の前の屋敷を壊す後妻打ち(うわなりうち)を請け負うも、当初の予定と違い、義経が介入した事で大事となり、頼朝の勘気を被り、髷を切られるという当時の人間にとっては恥辱となる罰を受ける。
史実でも後妻打ちの責を取って同じ恥辱を受けているが、命は政子から受けて義経は一切関与していない。また事件以後も変わらず時政を通じて鎌倉サイドとして朝廷への対応を担っていた。

・平賀朝雅(ひらがともまさ)
山中崇。時政とりくの娘婿。後半に登場。
父は大河や講談には一切登場しないが源氏一門では頼朝に次ぐNo.2の平賀義信(※門葉参考)であり、名門中の名門の子として京文化にも精通し、頼朝の猶子(≒養子)にも迎えられた由緒正しい家柄の御曹司で、りくの覚えも愛でたい雅な貴族的武士。

【源氏一門】

《頼朝の家族》

・源頼朝(みなもとのよりとも)=佐殿(すけどの)=鎌倉殿=武衛(ぶえい)
大泉洋。源氏の棟梁で、平家打倒の為に流刑の地より挙兵する。
表向きはボンボンゆえの我儘と、軽薄な女癖の悪い血統のみの都会育ちの文化人崩れだったが、心の奥底には積年の恨みを抱えたり、猜疑心に凝り固まる激情が隠されている。
また相反するような感情の一部が欠落したかのような冷酷さや、果断な決断力をも併せ持ち、選ばれし者ゆえの孤独を常に抱えている。
しかし当初は裏の顔は誰にも悟られず、平家打倒を果たすべく権力を掌握する為の粛清劇を幕開けに鎌倉を恐怖でまとめ上げ、武家政権樹立を果たした。
当時の人物評や後世の史家による評価でも、政治の天才や組織作りの名人、人身掌握の達人といった評価は揺るぎないが、同時に権力掌握や政策を邪魔する人間は躊躇なく滅ぼし粛清する事を厭わない冷酷さも、必ず指摘される。
ただし守護地頭を配置して全国支配を強め、明治維新まで続く武家の世を産み出した功績は何者にも変え難く、後世の影響を鑑みれば、血塗られた政権にも釈明する権利は要されると考えられる。
個人的には最初の頼朝像には困惑したが、鎌倉殿として君臨する過程において豹変した模様には驚嘆し、賞賛しかない。
頼朝最期については、落馬説、糖尿病説、脳卒中説、亡霊説、暗殺説、誤認殺傷説、など色々とある中で、どの説を採るか楽しみにしていたが、それ以上に毀誉褒貶相半ばする人物像へ複雑な感情を持つに至った。

・政子(まさこ)=御台所(みだいどころ)=北条時政の娘
小池栄子。頼朝の正室。義時の姉。
流刑の地に流された貴種である頼朝に一目惚れするや駆け落ちし、婚姻関係になると運命を共にして成り上がり、上洛して以降は御台所(=正妻)として御家人の受け皿となるべく、色恋ゆえの妻から将軍の御台所として相応しい立ち振る舞いを学び、周囲から信頼を得ていく。
頼朝を支え、坂東武者を支え、鎌倉幕府を支える事で、やがては国を支える運命を担う大演説を繰り広げ、日本の歴史を左右する。
史実でも愛と情熱のエネルギッシュな女傑で、剛毅果断な尼将軍として歴史に名を刻むが、一方日本三代悪女に数えられる悪評は、今回の大河では若干美化されている。
ただし個人的には従来のイメージ、特に肉親に対する酷薄な評価は、情愛の人である政子にとって辛い出来事でもあっただけに、優しい目線でイメージを一変する解釈には賛意を示したい。

・大姫(おおひめ)
南沙良。頼朝と政子の長女。
政略結婚により木曾義仲の嫡男義高と婚姻関係を結ぶが、義仲と頼朝が対立し義仲が討たれると、義高は用済みとなり処刑された。
しかし、その時の事がショックで精神に異常をきたし、不思議な言動を取ったり、情緒不安定になったり、極端な考え方に固執したりと、成長してもずっと引き摺り続け、でも懸命に生きようとしていたが、未だに自分の事を政治の道具としか扱わない父頼朝の、天皇入内を切っ掛けに糸が切れたかのように、体が衰弱して亡くなった。
一次資料にも大姫が義高の死を受け入れ難く、病に伏せたとあるが、従来のイメージでは鬱気味で塞ぎ込んだイメージだったのを、何か心に穴が空いたような精神の乱れとして描いたのは斬新だった。
また一時であれ仲睦まじくしていた義高が、大姫の鞠を思い出として刀の鍔に括り付け、それが為に刀が抜けずに、むざむざ敵に打たれてしまったのは、何とも言えない哀愁に誘われた。

・源頼家(みなもとのよりいえ)=万寿(まんじゅ)
金子大地。頼朝と政子の長男。主な乳母は比企氏。
鎌倉殿を継ぐ者として幼少より育てられ、志高く意気盛んなれど、初めての巻き狩りでは上手く鹿を射止められず、頼朝の助けを借りて用意された模型の鹿を射止めたかのように褒め称えられ、自己嫌悪に落ちいりそうになるが、いずれ立派になるぞと幼馴染でもある北条頼時=泰時(義時の息子)に決意を告げる。
しかし、その後の頼朝襲撃で混乱した鎌倉においては、的確な指示を繰り出し君主の器である片鱗を見せた。
父親の栄光と威光に戸惑い、悩み、もがき続け、まっさらな手で掴んだ権力の先に導き出す答えは鎌倉の今後を左右する。
大河では乳母は比企能員の妻一人だが、実際には梶原景時の妻や平賀義信の妻、河越重頼の妻も乳母となっている(ただし平賀、河越両氏の妻は比企尼の娘)。

・一幡(いちまん)
頼家と若狭局(=せつ)の長男。実母も乳母もおそらく比企氏。
比企氏の娘せつが産んだ頼家の嫡男で、比企能員が頼家の乳母親として現在の地位を獲得し、今後もより一層外戚として専横を振るう為には絶対に手放す事の出来ないカードで、源氏の嫡流として手厚く育てられ、次代の鎌倉殿として着実に足固めをして既成事実を重ね、頼家の後継者として周りの御家人にも知らしめる。

・善哉(ぜんざい)
頼家とつつじ(源為朝の孫)の次男。乳母は三浦氏。
三浦氏が探し出した頼朝の兄で源氏の剛勇無双鎮西八郎為朝の孫娘と頼家の間に産まれた息子で、三浦氏がねじ込んで来た権力闘争のカードとして、頼家の関心を引き、比企氏を牽制する政治的野心に包まれた業を背負って産まれてきた運命の子。

・千幡(せんまん)
頼朝と政子の次男。乳母は北条氏の実衣。
鎌倉殿は既定路線として兄である頼家が継ぐ筈であったが、頼朝の意識不明により説得された全成が権力に色気を見せ、実衣もまた自分の恵まれた立場を自覚して不穏な動きを見せるなど、必ずしも幕府はまだ安定した政権ではなく、千幡の立場も様々な思惑が行き交う微妙なものであった。
もし頼朝が長生きし、頼家が頼朝の傘の下実績を積んで鎌倉殿として比企北条両家を従えたならば幕府は安泰であったであろうが、仮に年若き頼家が独断で実母の政子よりも乳母親の比企氏を後ろ盾として頼りにするならば北条家はこれ以上浮かぶ芽はなく、面従腹背の道を選ぶか、そうでない道を選ぶかは頼家の弟千幡というカードを持ってして初めて可能となり、比企氏の娘から産まれた頼家の長男一幡や三浦氏が乳母の頼家の次男善哉と共に、産まれた瞬間から黒い手により抱かれ成長を望まれた。

・乙姫(おとひめ)=三幡
頼朝と政子の娘で、大姫の入内に失敗した後に頼朝が二の矢として輿入れを計画するも、早世した。

・八重
※北条一族参照。

・仙鶴丸
※北条一族参照

・亀(かめ)
江口のりこ。頼朝の愛妾。
安房の漁師の娘で頼朝に見初められて愛妾となり、鎌倉では素性を隠して侍女として働きつつ、頼朝と密会していた。
しかし政子に発覚するや、後妻打ち(うわなりうち)という当時の貴族の慣習に則って、屋敷が打ち壊され別れを約束させられるが、その際に政子へ御台所の務めを自覚させ、後の尼将軍への切っ掛けを作った。
資料では優しい女性であったと記されている。

【頼朝の親族=門葉(もんよう)】

・源義経(みなもとのよしつね)=九郎
菅田将暉。頼朝の異母弟。
頼朝挙兵の報を受けて奥州の覇者である藤原秀郷の下に身を寄せていたが、僅かな郎党と共に駆けつけ頼朝と喜びの再会を果たし、終生頼朝への敬慕は失わなかった。
そしていざ戦場に出ずれば軍神として暴れ回り、天才的な戦術家として並み居る敵を討ち果たし、木曾義仲や平家一門を殲滅した戦闘狂として描かれるも、政治能力が皆無で協調性もなく、後白河法皇の策謀に踊らされたり、坂東武者からの人望も得られず、頼朝の朝廷への布石も台無しにした事で不信を買い、都を追われて奥州の地にて非業の最期を遂げた。
兄頼朝との再会を訣別以後も何より願っていたが、頼朝との再会は今生では叶えられず、首桶に漬けられ鎌倉に送られる事で叶った。
大河では従来の脈々と歴史に育まれた講談による正義で悲哀の武将である義経像を壊し、原典に切迫した速戦即決で常識に捉われない勇猛果敢な猛将ぶりと軽率な行動にスポットを当てて新しい義経像を試みたが、それは従来の歴史物語が好きな義経ファンを戸惑わせ、歴史資料に拘る義経ファンを喜ばせた。
ただ個人的には史実も伝承も大切に扱って欲しいので、今回の大河ではハマり役だったが今後の義経像に対しては両方のバランスを期待。
義経の最後の鎌倉攻めの作戦は、150年後の新田義貞による鎌倉幕府滅亡時の作戦と似ているが、船による東廻り航路が開発された17世紀ですら房総半島から風待ちしてから越えた難所を、当時の船で上陸出来たかどうかは疑問。

・静御前(しずかごぜん)
石橋静河。義経の愛妾。
都で名高い白拍子で義経と結ばれるも、義経が追討された際に頼朝の命により捕らえられ、詮議を受ける。
その際に静は一旦身を偽るも、頼朝に舞を強制的に披露させられる事になり、義経の恋人ではないと生きながらえるよりも、義経の恋人として死を受け入れる事を覚悟し、身分を明かして義経への愛を謡い上げ見事に舞い切った。
頼朝は心中穏やかではなかったが、政子が頼朝と心中してでも添い遂げると心に誓った昔を思い出し、頼朝に温情を掛けあった事で許された。
このシーンは史実かどうかは疑わしいが、講談でも心温まる名シーンとしてお馴染みで、本作でも採用されたのは良かった。

・さと=比企能員の姪
※比企一族参照

・源範頼(みなもとののりより)=蒲冠者殿/蒲殿(かばのかじゃどの/かばどの)=吉見殿
迫田孝也。頼朝の異母弟。
生真面目であり人畜無害なお人好しでもあり、絶えず頼朝を愚直に支えようと努め、人当たりも良いので板東武者の不満を和らげようともするが、意志薄弱で流される一面もあり、それが墓穴となり失脚した。
頼朝が巻き狩りした際に闇討ちにあったとの誤報に、素早く反応して混乱を収めるために比企氏の誘いに乗り将軍職を継ごうとした結果、頼朝帰還の折に謀反の疑いを問い質され、誤解の解けぬまま幽閉され一旦は命だけは救われたが、猜疑心に駆られた頼朝によって刺客が放たれ誅殺された。
正妻の常は比企氏。
史実では義経の影に隠れるも、堂々たる平家討伐の総大将であり、目立たないながらも無難な手を打つ堅実な武将で、義経の奇襲が成功したのも本軍を引きつけていた結果であり、義経の会敵必殺の先駆けが成功したのも、それまで時間が掛かりつつも補給を確保していたからであり、義経だけが京に凱旋出来たのも、混乱を避けて入京を止まったからであり、義経が指揮系統を無視しても軍が崩壊しなかったのも、有力武将を説得し続けて留意してもらったからであり、何気に貢献している。
ただし源氏の一門らしく戦に逸ったり、気性が荒いとの記述も残っている。
また最期についても生き延びたとする異説も存在する。

・阿野全成(あのぜんじょう)
新納慎也。頼朝の異母弟。
長年修行した占いや呪術などを駆使するが、当たる時もあれば外れる時もあり、呪術効果もさほど期待は出来ず、されど身近な優しい町医者の様に何かと気兼ねなく頼られ、懸命に応じて周りに愛される、お茶目な坊主として描かれる。
頼朝の下にいち早く駆けつけてからも、女子会に参加するように政子や実衣と一緒にいる事が多く、実衣と結婚してからは、ほのぼのとしたコントパートを受け持つ。
史実では剛毅な性格で悪禅師と呼ばれたようで、大河では想像がつかないが、占いが凶事をもたらすので悪禅師という解釈らしい。

実衣
※北条一族参照

・義円(ぎえん)
頼朝の弟で義経の同母兄。
文武両道で頼朝の覚えも愛でたく期待されたが、叔父の源行家の誘いに感化され、相談した義経にもそそのかされて従軍し、平家に討ち取られた。
史実では頼朝と合流する前に、行家の軍に参加して戦没したとされる。

・源行家(みなもとのゆきいえ)=新宮行家
杉本哲太。頼朝の叔父。
以仁王による平家討伐の令旨を携えて全国を行脚し、頼朝ら源氏一門に決起を迫った事で平家打倒の狼煙を上げた。
しかし功績はそれだけで、気位が高いだけの無能というだけではなくて、足を引っ張り迷惑を掛ける貧乏神であり、行動力が高すぎる為に、敵にすると面倒で、味方にするともっと面倒な、関わった人全てが不幸に巻き込まれる死神。
史実でも味方した者は必ず滅びる日本屈指の疫病神。

・足利義兼(あしかがよしかね)
大河では登場なし。
下野に拠点を置く頼朝の従兄弟で、当時日本一の荘園を持ち平家に不満があった八条院の蔵人(=秘書)を務めていた経緯で、頼朝挙兵の初期から合流し、各地で戦功を重ねる。
のちに北条時子を娶り、義時や頼朝と義理の兄弟となり、一門においても高い地位に収まるが、ストーリー性が薄いので、大河のみならず講談でも妻の時子共々一切出番がない。
ただ歴史的には足利学校を創設したり、子孫の足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼし、室町幕府を樹立するので、覚えておいて損はない。

・平賀義信(ひらがよしのぶ)
大河では登場なし。
信濃の佐久郡に拠点を置く信濃源氏で、頼朝が甲斐源氏の武田信義と平家に対する共同戦線を張った際には、既に頼朝に協力していたとみられ、頼朝からは大いなる信頼を得て一門の首座として、頼朝に次ぐNo.2の地位を保ち続けた。
しかし権力争いや粛清の対象にはならなかった為に、大河のみならず講談においても一切出番がない。
ただし息子の平賀朝雅は頼朝の猶子(≒養子)であり、北条時政とりくの娘と婚姻関係にある為に、2人がピックアップされる回には登場する可能性はゼロではない。

【各地の源氏】

・木曾義仲(きそよしなか)
青木崇高。頼朝の従兄弟。
木曽を根拠地とする信濃源氏の棟梁で、以仁王の令旨に呼応して挙兵し頼朝の対抗馬として頭角を現す。
義に厚く情熱的な荒武者で、閉塞した平家の世から自由を掴み取るべく立ち上がると、瞬く間に平家軍を打ち破り、入京するや朝日将軍として喧伝される。
しかし粗野で文化的素養がない事で京の公達から疎んじられ、後白河法皇の奸計に引っ掛かり、頼朝の命を受けた義経に討ち果たされた。
史実でも宮中儀礼や貴族文化には疎く、段取りや根回しといった政治的な配慮も一切なく、仲間思いで同志からの人望は厚いが愚直に武を誇るだけで、政治能力は皆無だった事が利害に基づく協力関係すら結べず、孤立を生み敗れたともいえる。
ただし、後世の評価でも名だたる文人から、その颯爽と歴史に名を残し滅びた革命の寵児への賞賛が残っている事から、解釈次第では、その自由、その情熱、その悲哀、をもって評価し表現するのは悪くないと考える。

・源義高(みなもとのよしたか)=冠者殿(かじゃどの)
市川染五郎。
木曾義仲の息子で、同じ源氏による無用な争いを避けたい義仲が、源氏の棟梁の座は頼朝と認める意味も込めて、自らの愛息と頼朝の愛娘との婚姻関係を結ぶが、頼朝との対立により義仲は討伐され、残された義高は身の置き所が無くなり運命を受け入れようと決意。
しかし大姫との愛情、それを見守る政子の庇護、義仲の遺言などに心動かされ、命を惜しみ逃げようと幽閉先から脱出するが、頼朝の右腕でもある義時の差配を信じられずに、計画を無視して逃亡。
その間に命だけは助けると政子が頼朝に約束させるも、時すでに遅し。既に命令は発動されていた為に討ち取られた後であった。
一次資料はほとんどないが、大姫と義高が仲睦まじく、それを微笑ましく見守っていた政子が不憫に思い助命嘆願した事、逃亡するも捕らえられ処刑された事実から紡ぎ出される悲哀は人々の涙を誘い後世に伝えられた。

・巴御前(ともえごぜん)
秋元才加。木曾義仲の愛妾。
源平時代を代表する女武者で木曾義仲の幼馴染。
公的文書では存在が確認出来ないが、平家物語などの軍記物で活躍し、その後も文学的な脚色をされ、後世に伝えられる。
当時は女性が弓を持って戦場に出る例もあり、名前は違うかもしれないが同じような女武者がいたのであろう。
しかし各地に伝承や墓は残っていて、義仲亡き後の消息もいくつかの説があり、和田義盛の妻になったというのもその一つ。

・武田信義(たけだのぶよし)
八嶋智人。甲斐源氏の棟梁。
以仁王の令旨に呼応して挙兵し、源氏の棟梁の座を巡って源頼朝、木曾義仲と争い、平家軍に対する頼朝との共同戦線では、鎌倉方の軍勢を利用だけして出し抜き、勝利の果実を独占した。
しかし政治工作に長けた頼朝に徐々にリードされ、息子の一条忠頼(いちじゃうただより)が木曾義仲の遺児義高との謀反の企てを疑われて誅殺される頃には、完全に勢力差が広がっており、次第に臣従する形になっていった。
史実でも一時は棟梁争いに加わり、近江源氏や他の勢力とも連絡を取ってはいたが、義経が破竹の勢いで勝ち進み頼朝の権勢が高まるや、なす術なく膝下に置かれ政権下に組み込まれた。

・源頼政(みなもとのよりまさ)=馬場頼政
朝廷に近侍していた摂津源氏の長老で、源氏として最高位の従三位という地位に昇りつめ平清盛の信頼も厚かったが、老齢の身でありながら突如として以仁王と政権奪取を目指し、全国に令旨を放ちつつ中央において挙兵した。
しかし瞬く間に鎮圧され自刃。
反乱自体はすぐに収まったが、全国に発令された令旨が、この後各地の源氏勢力の発起を促し、平家打倒に繋がっていった。

・その他の源氏
各地に〇〇源氏といった諸勢力があったが、源氏の棟梁を旗印に掲げて全国の武士に支持される可能性があったのは、鎌倉の頼朝、信濃の義仲、甲斐の信義の三つ巴に始まり、やがては頼朝と義仲の二頭、最終的には頼朝が棟梁の座を名実ともに勝ち取ったので、ドラマなどではそんなに重要視はされない。









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