【旭日の美神〜神功皇后絵巻〜】序章：湖の女神

神功皇后じんぐうこうごうという名を聞いたことがあるだろうか。

戦前の皇国史観こうこくしかんにより喧伝けんでんされた古代史における三韓征伐さんかんせいばつを果たした女傑じょけつであり、戦後はその反動はんどうで卑弥呼ひみこと入れ替わるように一切いっさいの存在が史学会から抹殺まっさつされた伝説上の女帝じょていである。

しかし全てが虚構きょこうだったのであろうか。

おそらくはそうでは無いであろう事は最近の考古学成果から少しずつ見てとれる。

かといって真実しんじつかと問とわれると、そうも言い難がたい。

4世紀半なかば頃の日本は、崇神天皇すじんてんのうの四道将軍しどうしょうぐん派遣はけんから始まった全国平定へいていが日本武尊やまとたけるのみこと伝説として物語化されたように、国内の権力基盤が整い海外派兵出来得できうる程の力を備そなえ、実際に半島へ領土拡大の為に進出しんしゅつしていた。

そしてその痕跡こんせきは日本だけではなく中国や朝鮮の文献ぶんけんや遺跡いせきを照てらし合わせても整合性せいごうせいが認められる事から、大まかな流れとして日本が武力行為によって半島に脅威きょういを与え席巻せっけんした記録は歴史的事実といっても差し支つかえないだろう。

ただし神功皇后じんぐうこうごうが三韓征伐さんかんせいばつを行ったとあるが三韓さんかんが従来じゅうらい言われているように、百済くだら、新羅しらぎ、高句麗こうくりを指すのならば高句麗こうくりまでは併呑へいどん出来ていないので完全に誤あやまりで、半島の北半分を支配する高句麗こうくりの代わりに南端なんたんの小国連合とも言うべき伽耶かやを入れたなら、元々が弁韓べんかん地域が伽耶かや、馬韓ばかん地域が百済くだら、辰韓しんかん地域が新羅しらぎなので、この三国を三韓さんかんとして括くくる事が出来、辻褄つじつまとしては大いに合っているとも言えるだろう。

そしてそういった歴史的事実が何故なにゆえ一人の女帝じょていに集約しゅうやくされ伝説化されたのかは掘り下げれば興味が尽きないが、“神功皇后じんぐうこうごうに比定ひていされるような女傑じょけつが存在したのかもしれない”、そう想像を巡めぐらす事はロマンとしてならば許されるのではないだろうか。

神功皇后じんぐうこうごうこと息長足姫おきながのたらしひめ…

彼女は古代の名もなき者ものたちの声により、いつしか幻として歴史の舞台に顔を現あらわし、厳然げんぜんと名を残した。


【旭日きょくじつの美神びしん〜神功皇后絵巻じんぐうこうごうえまき〜】

序章じょしょう：〜湖みずうみの女神めがみ〜

雨が降り注ぐ暗闇くらやみの中、荒々しく吹き付ける暴風は“失われた淡あわい海”と名付けられた巨大な湖の湖面こめんを疾はしり、男の頬ほほを切り裂く勢いで轟音ごうおんを響ひびかせていた。

しかし男は微動びどうだにせず、“うねり”がますます強くなる高波たかなみをジッと見据みすえ、湖の女神“浅井比売命あさいひめのみこと”との対峙たいじを待ち受ける。

決意を胸に見開いた目は臆おくする事など微塵みじんも見せずに、その時を待った。

男の名は息長宿禰王おきながのすくねのおおきみ。

水の民を率ひきいる近江おうみの王おうであった。


王が鬱蒼うっそうと茂しげる森の中を必死で掻かき分け“浅井比売命あさいひめのみこと”が鎮座ちんざする天然の社やしろまで急ぎ向かった理由は、ただただ王妃の安産を祈願きがんする為であり、『湖神こしんの怒りが、王妃に宿やどった生命せいめいの息吹きいぶきを妨さまたげておる』とお抱かかえの占い師に告げられたからであった。

昨晩破水はすいし陣痛じんつうが始まってから既に丸一日以上は経過しているが、王妃の体力は刻々と削られ衰弱すいじゃくし、母子ぼし共に命が危険に晒さらされている修羅場しゅらばが今も館やかたにて繰り広げられている。

雨足あまあしがますます強くなる中、王妃が苦しんでいた情景じょうけいが再び頭をもたげ一層気を引き締めるや、古いにしえより伝わる一族の宝刀ほうとう“波浪はろうの太刀たち”を王は腰よりゆっくり抜き放ち、風が吹きつける水面に向かい突き刺すように切先きっさきを向けた。

そして叫さけんだ。

湖の女神よ、何故なにゆえ我が愛する王妃と産まれ出いでる我が子の誕生に禍わざわいをなそうとする。

発すれば日よ、発すれば雲よ

もし我が髪が海中に没ぼっすれば赤子は無事産まれるであろう。
しかしながら風で舞い戻るならば、代わりに我が命を奪い無事産まれる事を叶かなえよ

命懸いのちがけの神との誓約うけひである。

そして束たばねてある角髪みずらを掴むや勢い任せに掻かっ切り、その髪を湖の中央へ向け放り投げた。

吹き荒ぶ風を掻かい潜くぐり角髪みずらは真っ直ぐ飛んでいった…かに見えたが、水面に着くか着かないかのところで角髪みずらは浮かび、空中で漂ただよい始めた。

そして風の轟音ごうおんに混じって何処どこからともなく声が…

水の一族の首長おさよ、汝なんじに問とう。

浅井岡あさいのおかと夷服岳いぶきのたけ、丈比たけくらぶれば。

王は姿を見せずに聞こえてくる、ゆっくりとした、それでいて重く威圧的いあつてきな声にも一瞬戸惑とまどったが、その問いそのものに大きく動揺どうようした。


古いにしえの神語り。

太古たいこ、浅井岡あさいのおかの山神やまがみであった浅井比売命あさいひめのみことは、兄であり夷服岳いぶきのたけの山神やまがみでもある多々美比古命たたみひこのみことに丈比たけくらべを挑まれ、我が身の高さを競い合った。

長幼ちょうようの序じょに敵かない夷服岳いぶきのたけが勝つと思われたが、いざ決してみると一夜にして突如高さを増した浅井岡あさいのおかがわずかに勝まさり、そうと知るや多々美比古命たたみひこのみことは逆上ぎゃくじょう、浅井比売命あさいひめのみことの首を一刀いっとうのもとに斬り払った。

そして斬り離された頭が堕おちた場所が今いる湖“失われた淡あわい海”であり、頭はやがて湖の孤島ことうに変化へんげし、浅井比売命あさいひめのみことはその後、湖神こしんとして鎮座ちんざするようになったと語かたり部べより代々語り継がれてきた。

その浅井岡あさいのおかと夷服岳いぶきのたけの恩讐おんしゅうを含む問いかけが今我われに向けられているのだ。

そう心が捉とらわれてしまっては王は迷わざるを得なかった。

頭が切り離された以上は高さで勝るのは夷服岳いぶきのたけである。

ただし、それでは浅井比売命あさいひめのみことの機嫌を損ない神の怒りとして天罰が降くだるだろう。

かといって浅井比売命あさいひめのみことにおもねり浅井岡あさいのおかと答えてしまうと、神を冒涜ぼうとくする嘘として天罰が降くだるだろう。

どちらに答えても王には暗い前途ぜんとしか与えられていない。

王は躊躇ちゅうちょし、言葉に詰つまった。

しかし、またもや声が聞こえた。

答えよ。

与えられた時間に迷う猶予ゆうよなど存在しないのだ。

王はどちらとも決めかねていたが、素直な心の内を明かそうと決して声を発した。

太古たいこの時代において…

間髪かんぱつ入れずに言い含めるような声が被かぶさり、王の言葉は遮さえぎられた。

いま、丈比たけくらぶれば。

話し合いではない、これは一方的な詰問きつもんなのだ。
王の鼓動こどうは弾けそうに高まる。

ただ比売ひめの御心みこころのままに。

今度は直接的な答えを避さけた。
しかし、これこそが人が知恵を授かりし所以ゆえんであり、神の意いに沿った答えではないかと秘ひそかに期待した。

答えよ。

淡い期待は打ち砕かれた。

それと同時に、静かにそっと呟つぶやくような一言ではあったが、それが最後の忠告である事だけは容易よういに分かった。

もはや余談よだんを許さない状況に追い詰められた王は覚悟を決めざるを得えなくなり、瞼まぶたを閉じ大きく息を吸った。

王が出した答えは…

夷服岳いぶきのたけなり。

その瞬間しゅんかん、王の体は浮き上がり、角髪みずらが漂ただよい続けている湖面こめんの中央にまで凄まじい勢いで引き寄せられた。

そして突如壁にぶち当たったかのような衝撃しょうげきで荒々しく止まったかと思うと、今度は全く体が動かず軋きしみ始め、意識が朦朧もうろうとしてきた。

目の前には気がつけば角髪みずらが蛍火ほたるびのような光を放ちながら浮かんでいたが、何も考えず無造作むぞうさに両手を添そえて掴つかもうとしたのと同時に、今度は竜巻に巻き込まれたかのように上空に体が旋回せんかいした。

神の怒りを招まねいたか。

薄っすらとした意識の中で王は死を覚悟した。

王妃と我が子の命だけは…

縋すがるように呟つぶやいたのを最後に気を失った途端とたん、周り一面の景色が真っ白な静寂せいじゃくに包まれ、王の体は握りしめた角髪みずらと共に真っ直ぐ落下し湖の中に没した。

王は浅井比売命あさいひめのみことの禁忌きんきに触れたのであろうか。

暴風雨はピタリと止み、湖面こめんはただただ真っ暗な闇やみに支配された。


その頃…

王の館やかたでは王妃の体が限界を迎えようとしていた。

交代で熱心に励はげます産婆さんばの表情も、既に焦りを通り越して諦めが混じり、目の前の息も絶たえ絶だえの王妃に対して、幼き頃より側で付き従っていた老婆は、目を背そむけて現実から逃避とうひする様に頭かぶりを振った。

もう駄目かもしれない。

誰もが思い詰めた冷たい空気になった時、王妃は最後の抗あらがいとでもいう様に一際ひときわ大きな叫び声を上げる。

周りも生と死の瀬戸際と覚悟し、必死の形相ぎょうそうで声を張り励まし続けたが、苦しげな弱々しい呻うめき声を最後に発し、王妃は遂に力尽きた。

少なくとも目を瞑つむって、泣き叫びながら最後の祈りを捧げていた老婆にはそう思えた。

しかし…

一拍いっぱくおいて聞こえてきたのは、それはそれは元気で活力みなぎる赤ん坊の生命いのちの喜び溢あふれる一声であった。

無事赤ん坊は産まれ、王妃も力果て一旦は失神したものの、激しく泣き叫ぶ力強い声を全身に浴びながら、少しずつ意識を取り戻していった。

そして、その降り注ぐ太陽の様な声は、遠く離れた1人の男の耳にも届く。


幻聴げんちょうであろうか。

脳裏のうりに直接響いてきた赤ん坊の泣き声は、現生げんせいに手招てまねきするかの様に息長宿禰王おきながのすくねのおおきみに訴えかけ、王を眠りから呼び起こした。

混濁こんだくした意識の中、虚うつろな表情で自らの顔を確かめる様に指で触れてなぞり、王は生還せいかんした事を実感する。

我われは生きている。

そして…王妃と赤ん坊も生きている

実際に館やかたの風景を目まの当たりにしたわけでは無いが、母子おやこの命と繋がっている感覚が王の体中を覆おおい、お互いの無事を強く確信しながら目を見開いた。

そして全身に激痛が走るも、よろめきながら立ち上がって周囲を見渡すと、倒れた木々による暴風雨の爪痕つめあとが残骸ざんがいとして広がっているのが、薄暗い中でも分かった。

王は湖岸に投げ出されて命が助かった自らの幸運に感謝し、浅井比売命あさいひめのみことに祈りを捧げた。

その刹那せつな、雲間くもまから這はい出でたのであろうか。

日差しが急にあたり一面を照らし始めて、荒れ果てた景色を浄化じょうかするかの様に光が降ふり注がれた。

そこで初めて王は振り返って太陽のある湖の方に目を向けると…

眩まばゆいばかりの煌々こうこうとした美しい銀色の湖面こめんと共に、力強い光を放つ朝日が勢いよく立ち登っている光景を目にした。

まさに旭日昇天きょくじつしょうてん。

美貌びぼうと逞たくましさを備えた気高けだかい湖の女神からの赤子誕生の祝福であろうか。

王は憔悴しょうすいしきった体が心身ともに洗い流されていくのを感じながら、しばらく呆然ぼうぜんと陽ひの光を浴び続けていた。

そして意を決したように呟つぶやいた。

齎もたらす…全ての幸せを齎もたらすという意味を込めて。

男子ならば足彦たりしひこ、女子ならば足姫たらしひめと名付けよう。

赤子は旭日あさひの祝福めぐみにより産まれ出いでて、その後の人生も勢いそのままに駆け上がった。

赤子の名は息長足姫おきながのたらしひめ。

後に伝説の女帝として君臨する神功皇后じんぐうこうごうの誕生であった。


湖は昨夜と一転、清々すがすがしい空気に満ち溢あふれていた。