鎌倉殿の十三人 頼朝死去までの簡単人物紹介②(坂東武者、文官編)

※★は13人メンバー

【概要】

《板東の情勢》

板東の地は平清盛(たいらのきよもり)の後継者として目され平家の将たる器であった平重盛(たいらのしげもり)の眼の黒いうちは沸き立つ水が水面では静寂を保つかの様に安寧に治められていたが、突然の重盛訃報により関東に向ける眼が行き届かなくなると、再び熱を帯びて沸々と煮えたぎり始め、人知れず泡がポツっと湧いては消え静寂を装う、正にそんな危なげな状態が続いていた。
そしてその頃の板東武士は京への数年間の勤めが課せられていた事で個人としての財力は疲弊させられていたが、皮肉な事に権力の旨味に食い込む者、権力の動きに精通する者、そして権力の弱みを見出す者が現れ、都を拠点に平家に不満を持つ者は繋がっていった。

《板東の地名》

板東は別名関八州とも呼ばれ、上野国=上州(≒群馬県)、下野国=野州(≒栃木県)、常陸国=常州(≒茨城県)、安房国=房州(≒千葉県南部)、上総国=総州(≒千葉県中部)、下総国=総州(≒千葉県北部)、相模国=相州(≒神奈川県)、武蔵国=武州(≒埼玉県+東京都)の八州を指し示した。
ただしそうなると地図上では北条氏の伊豆は板東からは外れるが、鎌倉武士の本場と見做されていたのは東海道で連なる駿河国=駿州(≒静岡県中部)、伊豆国=豆州(≒静岡東部県)、相模国、武蔵国の4ヶ国なので、おおよそ関東圏の武士の総称として坂東武者は使用されていた。
そして鎌倉幕府の勢力圏である東国とは上記の関八州に加えて、東海道沿いの駿河国、伊豆国、遠江国=遠州(≒静岡県西部)までと、西に向かって甲斐国=甲州(≒山梨県)、信濃国=信州(≒長野県)までと、北に向かって陸奥国=奥州(≒青森県+岩手県+宮城県+福島県)、出羽国=羽州(≒山形県+秋田県)までを指し示した。

《板東八平氏》

平氏といえば、平家に在らずんば人に在らずで有名な平家一門の伊勢平氏が有名だが、平安時代中頃に板東の地に降り立った平良文(たいらのよしふみ)の流れを汲む家系から、優勢を誇った代表する八つの家を指して板東八平氏と呼ぶ。
だいたい頼朝の時代から遡って五代から七代前の頃で、様々に枝分かれしているので各地に散っており、頼朝の時代では千葉常胤の千葉氏、上総介広常の上総氏、畠山重忠の秩父氏、土肥実平の土肥氏、三浦義澄の三浦氏、大庭景親の大庭氏、梶原景時の梶原氏、長尾定景の長尾氏、が名族として勇名を馳せた。

《官職》

当時の地方行政を簡単に説明すると、まずそれぞれの国を治めるオーナーの中央貴族である知行国主(ちぎょうこくしゅ)がいて、彼らが国を任せる経営陣である国司(こくし)を任命していた。
※国司は1人ではなく長官の「守(かみ)」、次官の「介(すけ)」、三等官の「掾(じょう)」、四等官の「目(さかん)」の四等官の総称なので、イメージとしては地方支社の役職者。
ただし国司のトップである国守(こくしゅ)は現地に赴くタイプと、自らは京に居座り現地には代理を立て出向させるタイプに分かれていて、前者は受領国司(じゅりょうこくし)、後者は遙任国司(ようにんこくし)と呼ばれ遙任国司の代理が目代(もくだい)と呼ばれ各地で中央の威光を笠に着て幅を利かせた。
そして現地で採用された主に三等官以下の地元の豪族は在庁官人(ざいちょうかんじん)と呼ばれ、官職を得た者全般を被官者(ひかんしゃ)、政務を執り行う地方官庁を国衙(こくが)と呼んだ。

《名前》

鎌倉時代は姓に代わって名字が一般化した時代であり、元々も姓とは別に通称といった物は存在していたが、初代鎌倉幕府将軍である源頼朝が公的に土地の惣領である一族へ苗字を名乗るように命令を下し、公式に普及していった。
これは支配者である自身の一門と、家臣である御家人に対しての身分差を明確に区別する為であり、朝廷から与えられる姓に対し将軍から与えられた苗字といった、授けられた主人を明確にして君臣の別を強く認識させる物でもあった。
当初は非御家人には関係が無かったが、時代と共に対象は徐々に広がり浸透していった。
源平時代は文化的にそういった慣習が育ちつつあった過渡期でもあるので、当時の呼び名が姓のままである場合もあるが、便宜上子孫の苗字から遡ったり、通称を苗字のように扱うなど、選別し易いようにドラマでは取捨選択して描く事も多い。

【伊豆】

伊豆の最大豪族であったのは開発領主であった工藤祐隆(くどうすけたか)の系譜に繋がる一族であり、隆盛を極めた祐隆は3人の子に所領を分配し、河津荘を祐家(すけいえ)に、伊東荘を祐継(すけつぐ)に、狩野荘を茂光(もちみつ)に与えた。
そして狩野荘はそのまま馬の名産地として発展、伊豆一の勢力となる後の狩野氏となり、伊東荘は代替わりした折に祐親(=ジサマ)が甥である祐経(すけつね=我が家坪倉)から奪い取り自身は伊東氏と名乗り、元から分配されていた河津荘は嫡男の祐泰(すけやす)に継がせ河津氏と名乗らせた。
以仁王の反乱鎮圧後、伊豆は知行国主であった源頼政(みなもとのよりまさ)から平時忠(たいらのときただ)の所有する物となり、伊東祐親は平家の覚え愛でたく勢力を益々拡大しており、その頃の北条氏は都との関わり合いが深いだけの単なる小豪族に過ぎなかった。

《工藤一族》

・伊東祐親(いとうすけちか)=爺様(じさま)
浅野和之。八重の父。伊豆の豪族。平家方。
八重の父であり、北条時政や三浦義澄の義父でもある。平家に配流した頼朝の監視を命じられていたが、娘の八重が頼朝と通じ子を産んだ事で歯車が狂い、頼朝が伊東館より逃亡した事で更に状況が悪化し、平家による叱責を恐れ頼朝には追討令を、子は静かに葬った。
結局頼朝は北条館に囲われ、平家打倒に挙兵。当初は多勢に無勢で難なく撃退し鎮圧しかかるも、頼朝の呼びかけに呼応した源氏方の加勢により収束出来ず、数万の軍勢に膨れ上がった頼朝に制圧され捕われ幽閉された。
一旦は歪みあったとはいえ、北条や三浦の助命嘆願により命は助かり、八重とも親子の情を思い起こす触れ合いにより、自らの罪を悔い改め詫び、心穏やかな爺様に戻ったが、頼朝の密命により自害を装い粛正された。
史実では頼朝の助命を潔しとせずに自刃とある。

・八重
※北条一族参照

・伊藤祐清(いとうすけきよ)=九郎
竹財輝之助。八重の次兄。
義時の地元仲間で、頼朝追討に憂慮し密かに頼朝を逃したり、八重の身を案じて保護させたりと、妹思いであり優しい性格をしているが、家同士の対立に巻き込まれて囚われた後、頼朝の命により父の祐親と運命を共にする。
史実でも祐清の妻は頼朝の乳母の比企尼の娘であり、比企尼より囚われた頼朝に便宜を図るように頼まれ、陰ながら頼朝を支援していたと考えられる。
また頼朝は自分の身を救ってくれた祐清に感謝し恩賞を与えようとするも、今度は父の気持ちに寄り添い、心ならずも敵となり戦場に再び舞い戻りて討ち取られたとも、父と同じく自刃を願い出たとも伝わり、頼朝は恩義を忘れずに祐清の遺児に伊東荘を継がせている。

・曽我十郎(そがじゅうろう)/曽我五郎(そがごろう)
父の河津祐泰が工藤祐経によって殺害され戦災孤児となった兄弟は、幼少期は八重に世話をされ、仇である祐経を見かけるや石を投げつけるなど恨みを募らせて成長し、大人になっては北条家を頼って家人となるも積年の恨みを果たさんと、頼朝に取り入り我が世の春を謳歌していた工藤祐経を討つ決意を北条時政に告げる。
しかしその実、二人は祖父や父を討ち一族を没落させた頼朝を何より憎んでおり、頼朝が息子の晴れ舞台に用意した富士の巻き狩りに乗じて暗殺を計画。
政権転覆を図り頼朝の寝所へ闇討ちを仕掛け討ち取ったかに見えたが、その骸は頼朝の夜這いのために身代わりとして寝ていた工藤祐経であり、反乱はやがて鎮圧された。
史実でも襲撃したのは事実だが、後世においては日本三大敵討ちの一つ、曽我兄弟の敵討ちとして、能や歌舞伎、浮世絵などの題材として人気を博した。
また兄弟は母親が再婚した為に曽我という名となっており、戦災孤児にはなっていない。

・江間次郎(えまじろう)
伊豆の家人。八重の再婚相手。
頼朝と通じた八重への戒めとして、父祐親から強制的に婚姻関係を結ばれて、軟禁状態の管理者としての役割を担った。
八重からは形式上の夫婦として一切心は開かれず拒絶され続けたが、最期は戦火にまみえた混乱の中で館から逃げ出す八重の殺害命令に背き、心の中に閉まっていた感情を吐露した上で、同じ命を受けた善児に粛清された。
資料は名前のみでしか残っておらず、中身は完全にオリジナルのキャラクターと言っても良い。

・工藤茂光(くどうもちみつ)=狩野茂光
米本学仁。伊豆の豪族。
義時の地元仲間として頼朝挙兵に賛同するも、義時の兄宗時と戦場を離脱して一緒にいた所を善児に殺害される。
史実では義時よりかなり年長で活躍年代が合わず、また一介の武士というよりは良馬の産地として伊豆第一の勢力を誇り、鎮西八郎為朝を追討した経歴など武名高い巨漢の豪族だが、伊豆の知行国主でもあった源頼政が以仁王の令旨を放ち武装発起するも鎮圧された事で伊豆は平時忠の所有する物となり、平家方についた親族の伊藤祐親に席巻され立場が苦しくなった茂光は、頼朝に近づき挙兵の際の後ろ盾になる予定であった。
しかし最初期の武力衝突で敗れ自害した事で、頼朝の伊豆での頼りは北条家に移行した。

・工藤祐経(くどうすけつね)
我が家の坪倉由幸。八重の従兄弟。
自堕落で女癖が悪く、軟弱で僻みっぽい武士の風上にも置けない軽薄な捻くれ者で、無能ゆえに義理の叔父の爺様こと伊東祐親に土地を取り上げられた事を恨み、頼朝の口車に乗せられ爺様を狙い襲撃。
しかし爺様の嫡男河津祐泰が間違って落命し、路頭に迷った工藤祐経は頼朝を頼って細々と雑用を与えられ糊口を凌ぐ。
一旦は鎌倉を去るも、頼朝が天下を平定すると甘い汁の臭いを嗅ぎつけ再び擦り寄り、媚びへつらう事で頼朝の覚えめでたくなり虎の威を借り奢り威張り散らす。
その最期は頼朝の夜這いを隠す為に身代わりとなっていた所を、頼朝と間違えられ暗殺されるが、父を襲撃で失った曽我兄弟の敵討ちとして歴史に名を残した。
頼朝の富士の巻き狩りにおける曽我兄弟の敵討ちは、日本三大敵討ちとして知られるが、筋立てとしては曽我兄弟の本丸はあくまでも工藤祐経である。

・仁田忠常(にったただつね)
ティモンディの高岸宏行。伊豆の土豪。
北条氏の家人としてひたむきに尽くし、飾り気のない人柄で剛腕の持ち主。信用されているからこその雑用や護衛など諸事を任され、懸命に応えようと勤める真面目な人物。
史実でも北条氏と近しい関係で頼朝挙兵以降も行動を共にするが、血流としては工藤氏の傍流で、武勇に優れ頼朝の信任も厚かった。

・藤内光澄(とうないみつずみ)
伊豆の武士。
頼朝の命により木曾義仲の息子で逃亡した大姫の許嫁源義高の首級を挙げる。
しかし大姫を不憫に思った政子の怒りは収まらず、褒美を貰えない所か斬首され晒し首にされる。
史実でも政子の言葉による斬首だが、大河でつい憤りをこぼした言葉が大事になったのとは違い、明確に頼朝に詰め寄り処断させた。

《北条一族》

★北条時政、★北条義時、他
※北条一族参照

《その他》

・堤信遠(つつみのぶとお)
伊豆の権守。山木兼隆の後見役。平家方。
平家より権守として任じられ、伊豆において権勢を握ると横暴な態度で威張り、時政や義時も屈辱的な仕打ちを受ける。
しかし武張った性格が災いとなり、平家打倒の狼煙を上げる先駆けとして標的とされ、館を急襲され殺害される。
史実でも所領争いを北条時政と繰り広げていたので関係性はあまり良くなく、権守という役職からすると中央から任じられた長官の一人で優れた勇士である事から最初の標的になり、佐々木兄弟が館に放った矢は源氏が平家を制する最初の一箭の名シーンとして書物に残った。

・山木兼隆(やまきかねたか)
伊豆の目代。平家方。
時政が秘かに政子との婚姻関係を思慮していた相手で、平家方の代官として堤信遠と同じく最初に血祭りに上げられた。
史実でも以仁王の令旨と共に立ち上がった源頼政が敗れた事により、伊豆の知行国主の座が頼政から平時忠に奪われ、時忠が在京のまま赴任しない為に目代(=代理人)として派遣された。
いわゆる講談では政子との縁談が持ち上がったが、頼朝に想いを寄せていた政子は頼朝と駆け落ちしたというエピソードが有名だが、年代をつぶさに検証すると信憑性が低いので、大河では時政が頭の中で縁談を考えていたという程度に留めていた。

・源広綱(みなもとのひろつな)
源頼政の未子。伊豆の知行国主。

【相模】

相模は板東八平氏の五派が集い、三浦党は三浦半島を拠点に相模国東側から海を跨いで房総半島の先端の安房国までを勢力圏とし隆盛を誇り、中村党は相模国西側、特に相模湾を挟んだ真鶴半島を拠点に土肥氏が頭角を表して中村党を纏めていたが、相模国中央においては鎌倉氏から派生した同族ともいえる近しい関係にあった大庭氏、長尾氏、梶原氏が平家の世となり源氏と袂を分かち次第に勢力を広げ、大庭氏に至っては駿河までをも支配下に置き勢い盛んであり、長尾氏、梶原氏もそれに倣い平家方の被官者として着実に地盤を固めていた。

《三浦党》

★三浦義澄(みうらよしずみ)=次郎
佐藤B作。相模の豪族。平六の父。頼朝の父義朝の家人。
北条時政とは馬が合う子供の頃からの悪友で、諍いはなるべく起こしたがらず気が良くて義理人情に厚い三浦一党の惣領。
しかし坂東武者らしく一旦腹を括ったら突き進む豪胆さもあり、時政が頼朝を匿った時も困った顔をしながらも付き合い、坂東武者が不満を覚えて反旗を翻そうとした時も諌めつつも受け入れたり、頼朝の勘気を被るのを恐れずジサマの助命嘆願を行った。
しかしおっちょこちょいな一面もあり、結果的には平家の誤解で成功したのだが、潜伏しているにも関わらず、気を許す時政と戦場で取っ組み合いの喧嘩をしてしまい、大きな水音を立てて鳥が一斉に羽ばたき平家を驚かす失態を演じる事もあった。
史実では平家打倒の頼朝を支える宿老の一人であり、戦場においても軍を率いる大将格として重きを置かれた。
また資料から窺える姿も気配りが行き届き、無骨な坂東武者を結ぶ調停役として、また世話人として心優しい性格と、若き頃は頼朝の父義朝に付き従って戦場を駆け巡った戦歴に始まり、数々の戦場にてひたむきに立ち向かう姿が垣間見える。
一説には妹は義朝の側室で長男の悪源太義平を産んでおり、義平が平治の乱で上京する折には上総介氏、山内首藤氏と共に三浦氏の総力を上げて主力となった。

・三浦義村(みうらよしむら)=平六
山本耕史。三浦氏の嫡男。小四郎の従兄弟であり盟友。
幼き頃よりの義時の親友で、純粋無垢な感情的で甘い義時とは正反対に、ややシニカルではあるが冷静沈着で物事を俯瞰して大局を捉える観察眼を持ち、要所要所で義時の良き相談相手になったり手助けをしてくれる聡明な人物で、腕も立ち度胸もある為に義時と違って前線での活躍も多い。
ただしキザで女癖が悪く、大人びているので処世術は心得ているが元来権力におもねる性質ではなく、倫理に背いて高貴な女性であれど手を出したり、権力志向は無さそうだが自由に対する激しい渇望はあるようで、情に流される事なくドライに自身の立場を利する行動を取り、次第に鎌倉でも重要な位置を占める様になる。
また達観した振る舞いを常に取ってはいるが、頼朝の息子の正室に三浦の息の掛かった女性をねじ込んだりと、稀に生々しい欲望剥き出しの才気走ったスタンドプレーを見せる事もあるので、どこか心中を悟らせず読めない所があり、もしかしたら内なる野望を心に秘めているのかもしれない。
史実でも当時の人間からは行動原理が読めない不可解な人物とされ、冷静かつ大胆な選択は周囲に脅威を与え、梟雄の資質を存分に発揮して名を轟かせた。
しかし大河ではドラマ的演出で初期から大人として登場しているが、実は初登場時8歳。男女の仲なんて振られてからが勝負よというセリフは当時13歳。
なので義時と共に歴史的に活躍し出すのは幕府創立以後の事。

・初(はつ)=矢部禅尼(やべのぜんに)
福地桃子。三浦義村の娘。
母が産後の肥立ちが悪く亡くなった為に、幼き頃より義時の妻の八重に預けるなどして、義時の息子北条泰時(=金剛)とは幼馴染であり、義村と義時の間で許嫁として約束された泰時初恋の女性。

★和田義盛(わだよしもり)=小太郎
横田栄司。相模の豪族。平六の従兄弟。
立派な髭を蓄えた強面の勇猛な武将で、いかにもな坂東武者らしい荒々しさでもって戦場でも大いに働き、頼朝から初代侍所別当(≒軍事長官)に任命される。
しかし直情径行な気質は挙兵時に、戦闘を回避しようとした三浦義澄の意図を無視して先制攻撃を仕掛け、結果的に自陣を危機に陥れ畠山重忠との遺恨を残す事になったり、頼朝との方向性の違いから坂東武者の不満が募った謀議には率先的に鼻息荒く参加するなど、短慮で深謀に欠ける行動には絶えず危なっかしさが含まれる。
ただしサッパリとした気性で、機嫌の良い時は明るく、女性や子供には人懐っこい笑顔も見せる。
史実でも挙兵時に敗れ劣勢に陥った時に、頼朝に将来は侍所別当の職を望むと嘆願したり、褒美の領地を積極的に懇願したりと、我欲に忠実で、剛毅なれど気分が乗らなかったら戦線を離脱しようとしたり、先走って勝手に戦端を開いたり、公平な立場でありながら贔屓な裁定を下したりと、粗野で思慮に欠ける行動が目立つも、行動力や決断力はあり、押し出しも強いので、強弓として鳴らした豪胆な戦場での働き振りから初代軍事部門のトップとして認められた。
また侍所別当に任命されたのは、個人の業績に加えて、おそらく三浦義澄が高齢で、息子の義村がまだ若輩だった為に、三浦一党の代表格として選ばれた側面も否定出来ない。

・巴御前(ともえごぜん)
※源氏一門参照

・岡崎美実(おかざきよしざね)=平四郎
たかお鷹。相模の土豪。平六の祖父の弟。
厳つい風貌で常に怒りを携え、しかめっ面で登場する三浦一党の頑固親父で、頼朝挙兵時には素早く呼応して息子共々参戦するも、戦死した息子の死は堪えたようで、その後の行動も息子の為にも坂東の地を栄えさそうと血気に逸るきらいがあった。
御家人は頼朝の駒ではないという思いは強く、板東の安寧よりも平家討伐に目を向ける頼朝に不満を覚え謀議を図ったり、曽我兄弟の仇討ちに頼朝を暗殺して政府転覆を企むなど、むこう気が強く視野が狭い感情的な悪漢。
史実でも悪四郎と呼ばれ剛の者として知られていたが、仏法に帰依し感情的ではあるものの義理堅く、頼朝の父の菩提を弔ったり、囚えられた子息の敵を戦場での理りとして赦したりと、慈悲深くもあり、情に脆く政子を頼ったりと、心根の優しさが資料に散見される。

《中村党》

・土肥実平(どいさねひら)
阿南健治。相模土肥郷の土豪。
いつもニコニコと柔和な笑顔で、皆んな仲良くが口癖の実直な土豪で、頼朝挙兵にいち早く駆けつけ頼朝に頼られると感激し、ピンチにも決してめげる事なく元気に振る舞い付き従う。
頼朝を排する坂東武者の企てにも及び腰で、義時に止めて欲し気な顔で仄めかしたりと、人の良さが随所に見られ、場を和ます人格者。
史実でも頼朝から幕府成立以後の坂東武者の増長ぶりを嗜める為に、実平の質実剛健で奢侈を好まない生活を讃えるなど、実直な人柄が窺え、挙兵時より従う忠勤振りに全幅の信頼を寄せられていた事が分かる。
ただし大河では小物っぽく扱われているが、相模国西部を拠点とする中村党を率いる有力な武将であり、挙兵時より頼朝を支える宿老の一人として重きを置かれ、平家討伐軍では梶原景時と共に軍奉行の両頭として任じられるなど大幹部として記録に残る。

《佐々木一族》

・佐々木秀義(ささきひでよし)
康すおん。元は近江の豪族。頼朝の父義朝の家人。
歯がほとんど無い為に何を言っているか聞き取れずに、頼朝挙兵にいち早く駆けつけるも息子達の参戦の是非が上手く伝わず、頼朝をヤキモキさせた。
史実でも近江源氏として頼朝の叔母を正室とし、親族が奥州藤原氏に輿入れするなど血筋も良く、頼朝の父に従うも敗れ奥州に逃れる途中にて、土豪の渋谷重国に呼び止められ相模で食客として留まり、頼朝挙兵時に馳せ参じた。
平家との戦いで命を落とすも、子の佐々木四兄弟は頼朝に付き従い、論功行賞により近江の地を奪還した。

・佐々木定綱(ささきさだつな)/佐々木経高(ささきつねたか)/佐々木盛綱(ささきもりつな)/佐々木高綱(ささきたかつな)
元は近江の豪族。
佐々木四兄弟として有名で、頼朝挙兵時に駆けつけようとするも天候不順により手間取り、予定より参陣が遅れたが為に平家打倒の狼煙が1日遅れて、頼朝から叱責された。
しかし最初に火矢を射掛けた事は名場面として語り継がれており、大河でも採用された。
史実でも頼朝が流人の頃より仕え信頼されていて、平家討伐の際の軍事的な地位も高く、それぞれ講談でも見せ場ある戦いを記録で残し、活躍した。
長男の定綱は頼朝の側近として軍を率い、次男の経高は最初の火矢を放ち、三男の盛綱は平家との戦いで渡河戦を成功させ、四男の高時は先陣争いで有名で軍略も優れて後世の歌舞伎でも人気を博した。
ただし個人的には政治的な権力欲はあまり見られず、それぞれが一個の武人として重きを成していた印象が強い。

《大庭一族》

・大庭景親(おおばかげちか)
國村隼。相模の豪族。
相模の奉行と称し、平家の信任厚く国を跨ぐ勢力を誇り、頼朝の北条館への逃亡による伊東家と北条家の争いを仲裁するなど、地域一帯の統治に尽力し威勢を放った。
頼朝挙兵の鎮圧を任され一時は追い詰めるも、頼朝が阿波に逃れ上総と下総の勢力を迎合し舞い戻って来るや、圧倒的な兵力差により捕われ、斬首された。
しかしその最後は高らかと板東武者の未来を暗示して、堂々たる態度でもって毒突き果てた。
史実でも後白河院の命を受けて頼朝の父に従って戦うも、源氏色は薄く平家に見込まれて相模の在長官人として一大勢力を持つに至り、重きを成した。
しかし板東の反平家の心底は侮り難く、頼朝挙兵を合図に各地で源氏勢力支持の動きが盛んになり、組織統制が取れずに命令も行き届かず、平家の援軍も遅れ連携すべき勢力も敗れた事で孤立して、降伏した後処刑された。

・大場景義(おおばかげよし)
大河では登場無し。相模の豪族。
大庭景親の兄で、保元の乱では源為朝に脚を射抜かれ歩行困難になった為に家督を弟の景親に譲った。
しかし頼朝挙兵時には頼朝側として早くから加わり、その後も頼朝を支える宿老として重きを成した。

《長尾一族》

・長尾定景(ながおさだかげ)
大河では登場なし。相模の豪族。大庭景親の従兄弟。
大庭氏と共に平家政権に協力して力をつけ、頼朝挙兵時には三浦党と交戦し、三浦悪四郎こと岡崎義実の嫡男真田義忠を討ち取るも、敗れたのち捕らえられ義実に身を預けられる。
報復として斬首になってもおかしくない所を、幽閉先で読経する姿に心打たれた義実によって助命を嘆願され、以後は三浦氏の家人となり活躍した。

《梶原一族》

★梶原景時(かじわらかげとき)=平三
中村獅童。相模鎌倉郡の豪族。
感情を表にあらわさない冷静な現実主義者であり、板東武者には珍しく文字にも明るく被官者として積み上げた実務能力も高く、汚れ仕事も引き受ける忠義の臣として、頼朝に高く評価されて重宝され、侍所別当(≒軍事
警察庁長官)に抜擢される。
しかし板東武者の馴れ合いには加わらず、体制側として頼朝の手足となり上総介を粛清するなど非情な働きにより周りの心象はあまり良いとは言えず、頼朝の権威によって御家人の統制を図り、頼朝亡き後は嫡男の頼家を支えている。
講談では源義経の敵役として有名で、平家討伐の折に慎重に手堅い作戦を立案する景時と、一種無謀ともいえる奇襲によって即断即決する義経との激しい対立があり、結果的に義経の作戦が平家を撃ち破った事で景時は立場を失い、その私怨を梶原景時の讒言と呼ばれる頼朝への報告書にあげつらった事で、兄弟の仲が引き裂かれて義経は悲劇に見舞わられ、才無く人を妬み讒言により人を陥れる憎々しげな小人として人口に膾炙し、小悪党のイメージが定着していった。
確かに史実でも義経との対立は事実ではあり、報告書にも悪評を書き連ねたが、義経の軍神ぶりが異常なだけで、景時も戦場で猛烈果敢な活躍を見せる闘将であり、戦況分析や大局を見通せる政治情勢にも明るい能吏としての高い見識から判断した報告書の内容が、必ずしも感情的な曲解から生ずる悪評だけとは限らない為、近年では事務能力や実務能力の高い忠臣といった歴史的な再評価もされ始めていて、今回の大河の人物像にも大いに取り入れられた。
とはいえ頼朝の一の郎党(=御家人のトップ)として諜報活動に従事して、義経や上総介など頼朝に脅威を与えそうな政敵を葬るのに尽力したのは事実で、御家人の統制や治安維持といった忠誠に基づく責任感から生ずる動機があるとはいえ、警察権を駆使して御家人の動向を執拗に監視して謀議を疑い捜索する行為は、奢り高ぶった増長ぶりと併せて御家人達の反感を買っていた。
ただし和歌にも長じ教養もある景時は、京の公家達との関係は良く文化人としての一面も持ち合わせ、無骨な板東武者とは肌が合わなかっただけかも知れない。
個人的には最初平家方であった景時が、追討から逃れて隠れ潜んでいた頼朝の洞窟を発見したにも関わらず、命に背いて捕縛しない所か隠蔽した行為に疑念を覚え心中を図り兼ねていたが、吾妻鏡などの資料を読むと、頼朝挙兵時から源氏方に寝返る勢力が筍の様に散見されるので別段不思議では無くなった。

・善児(ぜんじ)
梶原善。オリジナルキャラクター。
元々は伊豆の爺様こと伊藤祐親の下で雑色をしていたが、汚れ仕事を平気でこなす内に、暗殺や密偵など裏仕事を専門的に請け負う。
伊藤祐親の密命により頼朝と八重の息子の仙鶴丸を溺死させ、義時の兄宗時を背後から刺殺し、職を失い梶原景時に拾われると、旧主である伊藤祐親と祐清親子を獄死させ、上総介暗殺時には事前に刀を掠め取り、義時が義経と手を結ばないか監視したり、寺に幽閉されていた頼朝の弟樺殿を誅殺するなど、謀事の手先として暗躍する。
宗時刺殺は別人と記録があるので誤りではあるが、その他はあくまでも手段として1人の人物に仮託されているだけなので歴史介入には当たらず、活躍し過ぎではあるが歴史ファンからも特に非難はされていない。

・トウ
山本千尋。オリジナルキャラクター。後半登場。
幼少期より善児に育てられた暗殺者で、演ずる山本千尋はジュニアの世界武術選手権で金メダルを獲得するなど演舞の競技者として卓越した技量を擁し、今回の大河では殺陣を存分に披露する役どころとして期待が高まる。

《山内首藤一族》

・山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)
相模の豪族。母は頼朝の乳母山内尼。
父は頼朝の父義朝に従い母も頼朝の乳母であったが、頼朝挙兵の折には協力の要請を口汚く罵り追い返し、平家方として頼朝討伐に向け出陣した。
頼朝が勝利を収め捕らえられた経俊を助命すれべく山内尼は頼朝と面会したが、頼朝の鎧の袖に突き刺さった矢尻に経俊の名が記されているのを見せられた山内尼は声を失い、嘆願を取り下げた。
しかし頼朝は結局は赦し、その後は鎌倉幕府に仕えたが、弱い者には威張り強い者にはへつらう性格は終生変わらなかったようである。

【武蔵】

武蔵国は現在の埼玉と東京だが、当時の東京は未開拓の地で良馬と銅の生産地として埼玉を中心に栄え、その中でも最大勢力であったのは板東八平氏の流れを汲む秩父党であった。
頼朝の時代から3代ほど遡る秩父重綱(ちちぶしげつな)は国司の代理として全件委任された武蔵国留守所総検校職に就き一族は大いに発展し、頼朝の時代には畠山氏、小山田氏、河越氏、高山氏、江戸氏といった一族へ枝分かれして武蔵の地を繁栄させていた。
それとは別に源氏類代の家人として仕えていた比企掃部允(ひきかもんのじょう)と比企尼(ひきのあま)夫妻は、頼朝の流罪と共に武蔵の地に下向し、豊富な資産と朝廷との繋がりを強みとして武蔵国惣領格であった河越重頼(かわごえしげより)などの在地勢力と結びつき異彩を放ち、頼朝が挙兵を成功させた事で時代の波に乗った。

《比企一族》

★比企能員(ひきよしかず)
佐藤二郎。武蔵比企郡の豪族。叔母である比企尼の養子。
どこか人を食ったような飄々とした策士で、虎視眈々と権力の座を狙い小細工を弄する欲深い男で、武将として戦場で華々しく戦果を上げる事はないが、源氏一門や有力豪族などと政略結婚を結び、身内として後ろ盾となる事で強大な影響力を持ち、頼朝政権下においても頼朝へ最も早くから誼を通じ頼朝周辺の権力基盤に最も私的に食い込み立場を得た。
しかし北条家の政子が正室の座を射止め、家子(頼朝親衛隊)の専一として義時が頼朝の側で重用され始めると、北条家の台頭を許し、頼朝の長男の頼家の乳母を務めるだけでは心許ないと感じているのか焦り出し、権力の固執に熱がこもり始めた。
ただし優柔不断で臆病な性格は権力志向はあれど、正面から打つかる様な強引なやり方は取らず、他人の足を引っ張ったり、覚え愛でたくなるように出し抜いたりと、卑しく小狡いやり方を好み、国の行く末の舵を取ろうなどという気概は無く、目先の損得に躍らされやすい俗物として描かれる。
史実でもその豊富な資金力で比企一族として頼朝を流刑時代から支え続け政略結婚で権力基盤を固めたのは事実で、特に頼朝の嫡男頼家の乳母夫になってからは、その地位は盤石な物となり益々権勢を強めた。
ただし有力者を見定めて、一族繁栄の為に政略結婚を成立させていく路線を敷いたのは比企尼であり、男子に恵まれなかった為に甥である比企能員が猶子(≒養子)となった時、彼の運命は開けた。

・道(みち)
堀内敬子。比企能員の妻。源頼家=万寿(頼朝の嫡男)の乳母。
夫の比企能員といつも悪巧みをしているが政治情勢に詳しいわけではないので、時に過剰に心配し、時に過剰に悪ノリする、コメディーパートのパートナー。
史実では頼家の乳母になった事で、重要な立場に置かれた。

・比企尼(ひきのあま)
草笛光子。頼朝の乳母。
流人時代から世話になっていた頼朝の乳母であり、頼朝にとっては出会うと家族的な空気が流れて未だに頭が上がらない存在で、そういう関係もあって嫡男の頼家の乳母にも同じく比企氏を任じたり、比企氏自体を丁重に扱うなど、孤独な頼朝との信頼関係を築く数少ない一人。
史実でも頼朝の在京時代から夫が仕え、自身も4人いた乳母の中でも最も献身的に尽くし、頼朝が流刑されるや夫と共に下向して比企郡に移り住んで、以後20年間頼朝に経済支援を届け続け、京にいた頃の縁を通じて朝廷の動向を提供し続けた事が、頼朝が朝廷工作に優れた一因となった。
また長女の夫は頼朝のお側近くにずっと侍っていた安達盛長でおり、次女の夫は比企氏が移り住んだ武蔵の地を治める最大勢力の秩父党の惣領であった河越重頼であり、三女は伊豆の頼朝を幽閉していた伊東祐親の息子伊藤祐清(八重の兄)であり、3者にも頼朝に奉仕するよう言い含め、頼朝からは絶大なる信頼と感謝を得ていた。
また三女は夫亡き後に源氏一門の首座であった平賀義信に嫁ぎ直し、娘の娘、つまり孫まで含めると、戦の神に愛された源義経や、頼朝をいつも補佐した蒲殿こと源範頼、そして頼朝の嫡男頼家、家子の専一と言われた頼朝の親衛隊隊長とも言える北条義時と、それぞれ婚姻関係を結び、頼朝周辺を比企氏の繋がりで固めていた。

・せつ
能員と道の娘。源頼家の妻。正室として迎えられる予定であったが、頼家が三浦義村の手配により、つつじという源為朝の孫娘に惚れ込み、側室にされてしまう。

・常(つね)
能員の姪。源範頼の妻。

・里(さと)
能員の姪。源義経の妻。義経に見染められ妻となり京に一緒について行くも、義経が静御前の虜になると捨て置かれ、義経の関心を引こうと悩むうちに正常な判断が出来なくなって愛する形が歪んでしまい、土佐坊昌俊という僧兵に義経と静御前の寝所を襲わせる。
その結果、義経は危機を脱したといえ兄頼朝の仕業と考えて、信じていた絆が壊れてしまい袂を別った要因となってしまった。
その後は義経に伴われて奥州藤原氏を頼るが、あくまでも随行させたのは比企氏の娘としての利用価値からで、静御前と義経は別れても心は通じ合っていたが、体は一緒にいるはずなのに義経の心はさとには無く、最期は奥州が滅びようとしている最中、義経に土佐坊昌俊の件を懺悔して、義経から心中に近い形で殺害された。

・比奈(ひな)
義時の妻。
※北条一族参照

《秩父党》

★安達盛長(あだちもりなが)=藤九郎
頼朝の従者。
流人時代から頼朝に仕える執事の様な爺的ポジションの家人で、頼朝の女癖の悪さや我儘に振り回されながらも、温かい眼差しで時に甘やかして、時に嗜める、頼朝が心を許す数少ない一人。
いつも頼朝の事を気にかけて心配性な為に、板東武者との関係性には気苦労も多く、義時とは頼朝を支える上で何かと協力をし合う。
頼朝が冷酷な本性を垣間見せた時も、鎮痛な面持ちにはなるも心が離れる事はなく、決して見捨てる事はなく頼朝を信じて寄り添った。
史実でも妻が比企尼の娘であり、流人時代に頼朝が公式に家人を持てない中、支援を受けながらそばに侍り続けて頼朝を支えた。

・安達景盛=弥九郎(やくろう)
安達盛長の嫡男。
幼き頃に戦災孤児の鶴丸をからかった事で義時の嫡男金剛(=北条泰時)と喧嘩になり、慌てて父の安達盛長が義時にお菓子を持って謝罪に来て、仲直りさせた。

★足立遠元(あだちとおもと)
大野泰広。武蔵の豪族。安達盛長より年長の甥。
頼朝が武装発起して鎌倉に拠点を構えた時に、得体の知れない人間が集まってくると嘆いておきながら、あなたが1番得体が知らないと突っ込まれていた優しげな武士で、政子や坂東武者達に京都の礼儀作法を教える事を申し付けられたり、御所の差配を命じられ、大姫にも優しく相談に乗ってあげていた地味ではあるが優雅な武士。
史実では元々は頼朝の父に仕えて平治の乱で戦った武将ではありながらも、唯一最初の公文所寄人に任命されるなど、京文化に精通し文官としての能力が高かった事が窺える。
ただし頼朝からは挙兵前に知らせを受け、武蔵に入った時にはいち早く待ち構えて所領安堵されるなど、頼朝との結びつきは強く、典雅な式典などに不慣れな坂東武者にとっては、頼朝の信任厚く歴戦の老武者であり同じ武士という身分である事から、おそらく頼りやすく有難い存在であったのであろう。

・畠山重忠(はたけやましげただ)=次郎
中川大志。武蔵の豪族。
義時の地元仲間で、知恵あり武勇にも優れ人と人とを結ぶ器量もあり、清廉潔白で慎み深く思慮分別もあり、顔立ちも良く音曲をも嗜む、正に坂東武士の鑑と評される武蔵の豪族で、義時を陰に陽に手助けする。
しかし頼朝挙兵の時は一族の判断に従い平家方として義時とは敵対し、三浦党との戦いでは三浦義村と和田義盛の祖父である三浦党の当主三浦義明を討ち取った。
そしてこの事から和田義盛とは確執が生じ、事あるごとに打つかるも、謀反の陰謀を阻止する際にはそれを逆手に取って解決に導いた。
史実でも人情に厚く、礼儀正しい智勇兼備の武将として坂東武士の鑑と称され、後世の講談でも模範的で立派な人物として人気を博した。
ただ筋が通らない事には断固抗議する剛直な男らしさや、鵯越の逆落としで愛馬が怪我をしては不憫だと背に抱えて駆け降りた怪力無双のイメージなどは、大河では若干スマートに描かれている。
とはいえ戦場での活躍は言わずもがなで、反乱の芽を摘む為に仲裁したり、敗者に対しても礼を尽くしたり、血気に逸る荒武者に悠々自適に対処したりなど、人情深く謹直な気高い精神は当時の人間からも尊敬の念を持って迎えられ、頼朝からも最初は敵対していたので猜疑心の目で見られてはいたが、やがては信用され頼りにされ、武蔵国一の勢力を誇っていた河越氏が没落して失った所領を譲り受けるなど勢力を拡大させた。

・ちえ
福田愛依。畠山重忠の妻。北条時政三女。
※北条一族参照

・稲毛重成(いなげしげなり)
村上誠基。武蔵の豪族。
史実でもドラマでもあまり登場する機会は無いが、要所要所で事件に関わり歴史に名を残す。
中でも特筆する事は亡くなった妻である北条氏の四女の為に相模川に橋をかけ、その完成を祝す落慶供養を行う法要に頼朝が参加し、その帰り道に頼朝が落馬し暫くして亡くなったという記録が資料に残っており、今回の大河でも取り入れられた。
史実では武蔵を席巻していた秩父党の系譜として、当初は小山田と名乗っていたが後に稲毛に改称した。
武蔵ではさほど力があったわけではないが、他人の土地を虚偽により手に入れたり、没落した坂東武者の所領を下賜されたり、讒言により他人を陥れたり、と妻に対する思いやりとは別の性格として、大きな勢力の小間使いとして小狡い振る舞いが目につき、もしかしたら小心者だったのかもしれない。

・あき
尾崎真花。稲毛重成の妻。北条時政四女。
※北条一族参照

・河越重頼(かわごえしげより)
保元平治の乱では頼朝の父義朝に従い、敗れし後も秩父党の総領として武蔵国一の隆盛を保持し、頼朝が流罪となった折も正妻が比企尼の娘であった縁もあり頼朝の支援を続けた源氏の後ろ盾の一人と目されるも、後白河院に荘園を寄進したり、実質的な平家最期の棟梁である武蔵国司であった平知盛とも上手く付き合うなど、比較的他の板東武者よりも格式高い扱いを受けていた事もあり外交戦略には長けていた様で、頼朝挙兵の際にも当初は同族の畠山氏や江戸氏と共に平家方につき三浦党を潰走させた。
しかし頼朝が房総半島経由で力を蓄えて再び武蔵国を訪れた際には頼朝の傘下に入り、以後御家人として重用され、戦場の働きと共に比企尼の娘である妻が頼朝の嫡男頼家の授乳の儀式に呼ばれたり、娘が義経の側室となるなど頼朝との結びつきを強めていった。
しかしその義経との蜜月関係が仇となり、義経と同じく頼朝の許可無き朝廷からの任官で怒りを買い、頼朝と頼経が対立するや所領を没収され誅殺された。
流刑時代から頼朝を支えるも全方位外交のビジネスライクな交流は却って頼朝の信用を得られず、武蔵国一の勢力を誇る力は警戒され続けて冷遇され、頼朝は上総介と同じく然るべきタイミングで力を削ぎ、武蔵国は畠山重忠に任せようとしていた節がある。

・豊島清元(としまきよもと)

・江戸重長(えどしげなが)

【阿波】

・安西景益(あんざいかげます)
猪野学。安房国の豪族。
頼朝が挙兵時に敗れた際に逃れた先が安房であり、頼朝を手厚く保護した。
史実でも頼朝とは幼馴染で、敗れた頼朝に頼られた際には危急の折りとはいえ慎重さを欠くべきではないと頼朝の身を案じた。
その結果、平家方であった安房の豪族長狭常伴の襲撃計画を退け、阿波に留まりつつ両総の支持を取りつける為の段取りを付けた。

【下総】

・千葉常胤(ちばつねたね)
岡本信人。下総の豪族。上総介の又従兄弟。
頼朝からは父同然と頼られる板東武者の重鎮で、頼朝挙兵時より協力し平家に反旗を翻し、頼朝が房総半島に逃げてきた時には全力で保護した。
しかし頼朝が平家打倒を急ぐあまり、板東の備えを疎かにしている状況に不満を抱えていた板東武者を糾合し、頼朝排除の動きを見せるも計画は上総介を始めとする頼朝の支持者によって阻まれて、以後は再び忠誠を誓う。
武士の世を作るという理想を理解出来ずに、土地にしがみつく旧態依然とした考えの持ち主として描かれる。
しかし上総介粛清の時期は資料が欠落しているので断定は出来ないが、個人的には頼朝に反旗を翻す様な関係性とは思えず、上総介の領地は千葉常胤が譲り受け両総を束ねる大勢力となった事からも絶大な信用をされていた事が窺え、平家の世にあっても源氏の落とし胤を密かに匿い育てるなど、頼朝の父から付き従う忠義の侍として良好な関係性を維持していた可能性が高い。

・葛西清重(かさいきよしげ)

【上総】

・上総広常(かずさひろつね)=上総介
佐藤浩市。上総の豪族。頼朝の父義朝の家人。
上総を地盤とする大豪族で、平家の世にあっても反独立国の様相を呈し、頼朝挙兵を受けて平家と頼朝を天秤に掛けて値踏みするなど、自尊心が高く傲慢に振る舞う癖を持つ。
しかし一旦これと見込んだ人間には誠実に尽くし、首を垂れて頼られたら見過ごす事の出来ない性質で、難事であっても引き受けた以上は体を張って、矢となり盾となり意地を通す剛直の士であり、危急の時には手を差し伸べる情け深い兄貴分肌の豪傑で、頼朝の挙兵が成功したのは上総介が味方になった瞬間からであった。
その後は頼朝と邂逅し絆を深め、頼朝の先走った西国平定に板東武者の不満が鬱積して謀反の企みがあった時も、大江広元に頼まれて迎合する振りをして集いの中核となり、その発言力をもって内部から説得して発起を思い留まらせるなど、危険を省みずに頼朝の力になった。
しかし上総介の謀叛への介入は、頼朝と大江広元の企んだ罠であり、謀反の中心人物として梶原景時に満座の前で惨たらしく誅殺された。
その大兵力を頼りにされ頼朝を救った男は、その大兵力を危ぶまれ頼朝から始末された。
上総介の粛正は板東武者を震え上がらせ、頼朝に逆らうと誅せられ、その土地は頼朝に協力した者に与えられると知り、頼朝に隷従せざるを得ない関係性に絶望し、頼朝はここにおいて独裁者となった。
資料でも頼朝挙兵時に両天秤に掛けたと伝わるが、上総介はこの時平家と領国支配を巡って揉めており危うい立場に置かれていたので、頼朝の父に付き従っていた縁で初めから頼朝と連絡を取り合い支持していたと近年では考えられ、その大兵力に奢って無礼な振る舞いも多く、組織運営として邪魔になったので、頼朝から粛正されたと考えられる。
ただし上総介の惨殺の時期は公式文書で欠落していて、板東武者の謀議は創作の域を出ない。
とはいえ梶原景時に謀叛の咎で満座の前にて粛正されたのは事実で、その死後頼朝に対する忠誠と誠意の籠った約定が寄進先の手紙より見つかり、頼朝が後悔したと記録には残る。
個人的にも全視聴者にも、頼朝の変貌と上総介の悲哀溢れる最期は衝撃的だった様で、大河史上においても語り継がれていく歴史的名シーンとなった。

【常陸】

・佐竹義政(さたけよしまさ)
平田広明。常陸の豪族。常陸源氏。平家方。
坂東武者が西国へ遠征するのを拒絶していた最大の理由として挙げられたのが、留守にしている時に後背を突かれ領国が占拠されるという心配であり、その不安を取り除く為に平家討伐を一旦後回しにして常陸国の最大勢力であった佐竹氏を滅ぼそうと計略を練り、
上総介が門前にて交渉を促し、話し合いで相対した佐竹氏の嫡男義政の意志を確認だけして臣従する気配が無いと見るや、開戦の狼煙として一刀のもとに切り伏せ、宣戦布告と成し佐竹氏を服従させた。
史実では切り伏せた後に金砂城に立て篭った次男の秀義は奮闘したものの、内通者を通じて開場され降伏させられ、秀義自身は奥州に逃れ、京にいた当主の隆義と共にその後も抵抗を続け、臣従したのは頼朝が全国の平定を終える奥州合戦の直前くらいまで掛かったのではないかと予測されている。

★八田知家(はったともいえ)
市原隼人。常陸国の豪族。
前半ではぶっきらぼうにいつも胸をはだけて重低音の落ち着いた声で存在感を放ち、空虚な政治談義よりも現実的な仕事が出来る人物として、頼朝から道路工事を命じられたり、偽物の鹿をこさえたり、孤児を義時のもとに連れてきたりと武将として活躍している場面よりも雑事で頼られる事が多いが、他の豪族とは群れずに孤立を恐れない独立心の強い性格として描かれる。
史実では元々下野国最大の豪族である小山氏の流れを汲む血脈であり、父の代より常陸国にも縁があるも単なる土豪に過ぎなかったが、頼朝の乳母4人の内の1人寒河尼を姉に持ち、自身も頼朝の父義朝に付き従い保元の乱を戦った源氏方の武将でもあった事から地道に実力をつけていたものと思われる。
そして頼朝挙兵時早々には駆けつけ下野の宇都宮領を安堵してもらうが、板東の後ろを脅かす常陸国の平家勢力を一掃した後には領土を常陸国に移し、源氏方の坂東武者が平家討伐に専念出来るように備えた。
また一説には頼朝の父義朝のご落胤ともされる。

・志田義弘

【下野】

・小山朝政(おやまともまさ)
中村敦。下野の豪族。
大河では特に目立ったシーンは無し。
父の後妻として頼朝の乳母である寒河尼がおり、下野における最大の勢力を誇った。
頼朝挙兵の折には隣接する常陸の志田義広が数万の大軍を率いて頼朝を討とうと誘ってきたので、協力すると偽り兵を伏せ襲撃した。
そうして戦端を開き合戦となったが、最初の勢いが効果的に影響して志田義広を敗走させ、常陸、上野、下野で頼朝に反旗を翻した勢力の土地は収公され朝政は恩賞を得た。

・足利義兼
※源氏一門参照

【上野】

・新田義重(にったよししげ)
上野荘は摂関家の荘園領であり河内源氏累代の拠点でもあったが為に、義重は開拓事業で国を富ませると共に土地を継承して上野に覇を唱えた。
しかし国を接する信濃の木曾氏、武蔵の秩父氏、下野の足利氏とは武力衝突を含む緊張関係にあり、河内源氏で東国に拠点を置いていた頼朝の父義朝や、甲斐源氏の武田氏、信濃源氏の平賀氏とは協力関係を結ぶなど、地盤固めには余念がなかった。
頼朝挙兵時には平家方におもねり一時は日和見主義を決め込んだが、頼朝の威勢を目の当たりにして慌てて帰参するも、時すでに遅しで頼朝の不信感は終生拭えず、源氏の名家として敬意をもって遇されるも、幕府内での立場は微妙なものであり、この事が後代同族の足利氏よりも後塵を拝する要因となる。

【信濃】

・木曾義仲(きそよしなか)
※源氏一門参照

・平賀義信(ひらがよしのぶ)
※源氏一門参照

【甲斐】

・武田信義(たけだのぶよし)
※源氏一門参照

・一条忠頼(いちじょうただより)

・安田義定(やすだよしさだ)

【駿河】

・橘遠茂(たちばなのとおもち)
駿河国の目代で、頼朝が挙兵して早々潰走させられた相模の大庭景親の命により派遣された俣野景久と共に、以仁王の令旨を受けて立ち上がっていた甲斐源氏を討つべく進撃するも、安田義定や武田信義に敗れ捕われ首を刎ねられた。

【京吏(京出身の文官)】

★大江広元(おおえのひろもと)
栗原秀雄。
冷静沈着で権謀術数に長けた政治家であり人並み外れた能吏で、智謀においては他の追随を許さず、卓越した政治手腕により頼朝の政務や財務、行政面での補佐を司り、政所別当(≒司法行財政立法府長官)に抜擢される。
元々は京の下級公家であったが頼朝の要請で鎌倉入りし、以後は頼朝の政局に関わる謀略には全て関わり、政権掌握を成さしめる。
史実でも日本屈指の宰相の器として名を残し、中でも広元が献策したとされる守護地頭の設置は鎌倉幕府の支柱となり、東国に独立した武家政権を磐石とする為の力の源泉として後々まで多大なる影響を与えるなど、史上初の幕府機構の設立に大きく関与した。
また成人してから涙を流したことがないという逸話を持ち、人に仕えるのでは無く機関に忠誠を誓い、行動原理を自身の能力を最大限発揮出来るような国家建設に見い出し、権力や権威よりも国の形を創り上げる組織運営に没頭し、政治に取り憑かれたように生涯を捧げた非情なる宰相。
幕府の中枢に絶えず参画し、頼朝を始め最高権力者の意思決定に影響を与え続けるも、位階は頼朝に次ぐNo.2だが、自身の動員兵力が殆ど無いに等しく謀反による挙兵などを疑われる事は一切無かった。

★中原親能(なかはらちかよし)
川島潤哉。下級公家。
頼朝が京から呼び寄せた文官の公家で、大河では京へ上洛する武士団に随行し、朝廷との政治工作を担う使者として後白河院に拝謁するなど、政治能力の無い坂東武者とは全く別の役割で頼朝の力になり、義経が後白河院から検非違使任官の誘いを受けた際にも、義経に考え直すように進言した。
史実でも大江広元の実兄として同じく政務能力に長けるも、頼朝に常に付き従う広元と違い、朝廷との全権交渉の窓口になったり、各地で転戦している武士団の撫民政策や会計処理を含めた政務全般を随行して取り仕切り、政治面での頼朝の代理として東西各地を駆け巡った。
広元と共に文臣の双璧として、数理に明るく辣腕の行政官として鎌倉幕府を支え、全国に膨大な荘園を持つ事で財産家として栄えた。

★二階堂行政(にかいどうゆきまさ)
野仲イサオ。下級公家。
頼朝が鎌倉に呼び寄せた文官の公家で、大河では特に目立った活躍の機会は無いが、平家政権下において租税を管轄する主計寮に仕えており、鎌倉幕府においても予算の編成や、決算の作成、会計帳簿や租税率の計算などを滞りなく叩き出せる優れた人材は限られ、主計允として財政管理を取り仕切り、鎌倉幕府の財政基盤を支えた。

★三善康信(みよしやすのぶ)
小林隆。下級公家。
流人となっていた頼朝に逐一書状を送り都の情勢を知らせていた下級公家で、以仁王の令旨を放たれた各地の源氏勢力全てへ平家からの追手が送り込まれると頼朝に伝えた事が、頼朝挙兵の一大決心に繋がった。
しかし割と慌てん坊でおっちょこちょいに描かれるのは、この時の平家からの追手を差し向けるという計画が近年の研究では誤報であった可能性が高く、それが結果的に平家没落の端緒となった事に奇縁を感ずる研究者が多い為であり、本来は書記官としての家柄から有能な文官としての能力を有していたと考えられる。
名前は伝わっていないが叔母が頼朝の乳母であり、頼朝からは信頼され大江広元など智謀溢れる能吏を頼朝に推挙したのも三善康信の功績であり、鎌倉幕府創設の際には政務を司る公文所の寄人になり、情報を精査して公平な判断が求められる裁判を取り仕切る問注所の初代執事となった。

・藤原邦通(ふじわらのくにみち)
下級公家。大河では登場無し。
頼朝の初期右筆。
有職故実に通じた文官で、頼朝が挙兵する前より仕える秘書として右筆に任じられ頼朝を補佐した。
鎌倉幕府に政務を司る公文所が創設された際には、初代別当として宰相に任じられたのは大江広元であったが、それに次ぐ大臣クラスの寄人の1人として中原親能、二階堂行政、三好康信、足立遠元、と同じく藤原邦通も名を連ねた。
しかし大江広元などに代表される能吏が本格的に活躍し出すと、後事を託して引退した様である。






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