見出し画像

【4月1日】自動手記人形とデカルト

 アニメおよび劇場版(「外伝」を含む)『ヴァイオレット・エヴァーガーデン。
 筆者はアニメーションというかたちで鑑賞した。「手紙」がキーワードになっているが、作品設定は(架空の世界とはいえ)第一次世界大戦終結後と第二次世界大戦開戦の、私たちのいうところの「戦間期」という時代を描いているものといえた(もっとも、米国における南北戦争後を設定世界とすることも可能だろうが、とりあえず筆者は欧州における「第一次世界大戦」を前提とした)。
 「いえ『た』」。この文末表現を用いたのは、ロシア・ウクライナ戦争(2022年2月24日正午頃・日本時間)といわれる主権国家どうしの軍事戦争勃発によって、1919年から1939年を「戦間期」とよんできた私たちの歴史観が一変してしまうかもしれないという想像を前提にしているからである(ヴェトナム戦争や中越戦争や湾岸戦争やイラク戦争と、ロシア・ウクライナ戦争がどのように異なるのか。「ロシア・ウクライナ戦争は『2014年』をもって開始年とするべきだ。なぜならば、サイバー空間における『戦争』は起きていたのだから」という反論を排除するものではない)。
 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の作品設定の中では、おそらく「第二次世界大戦」は勃発していない。第一次世界大戦終結後の外交交渉や講和条約をへて、「危機の二十年」の展開により第二次世界大戦勃発に至ったと日本の高校教科書に記述されているような諸条件を排除して(このことはアニメで描かれた講話文書のセリフで想像可能である)、アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の地上派放送は最終回を迎えている。あれらの諸条件を作品の中で「修正」すれば、「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では『第二次世界大戦』を迎えることなくデイジー・マグノリア(第10話のアンの孫)がヴァイレット・エヴァーガーデンのゆかりを求める旅(2020年公開『劇場版』の設定)に出ることができる」。こうした世界観はフィクションやファンタジーの世界観となってしまったのかもしれないが(M.ウェーバー『職業としての政治』にはそれをほのめかす表現もあるが)、作品には作品の世界観を共有しようとしながら向き合いたい。
 
 2024年4月1日。
 このような前書きを朗読したら、どこかの会社か学校の校長先生の長い話のように思われるかもしれない。しかし、本日は、エイプリルフールである。「4月1日」といえば不思議な経験をしてきた筆者であるが、エイプリルフールくらいは、まじめにウソをつきたい。

 2020年1月24日のことである。
 筆者は、2003年4月1日に入社しながら同年8月6日に早期退職をするという、まさに人生を棒に振るような「履歴」をつくってしまったが、その日、筆者は東京駅から少しく離れた会食会場で、同期会の場にいた。生命保険会社だったので、アクチュアリーという専門職採用(保険数理専門職)の同期もいる。Eというアクチュアリー採用の同期に決意表明をした。
 
「俺(神谷:かみたに)は、『数学』。それも中学・高校数学からやり直そうと思う」
 
 「文系と理系」という言葉は受験業界を中心に使われているが、筆者が学部を卒業した2003年にはそうなっていたように、2020年はすでに、経済学や社会学ばかりではなく、国際政治学や政治学など、「『数学』を使って説明する(論文を書く)」ということが珍しくなくなっていた。筆者(1980生)は大学受験数学(国立大文系)を最後に、数学を体系的に学ぶという努力はしていなかったが、大阪府警外事警察の協力者(いわゆる「『公安』のスパイ」。2006-2018)をする上では、「数学」ができなければ(数学という言語で書かれた論文を理解することができなければ)やっていけなかった。
幸いにも家庭教師という稼業に従事していたので、高校課程カリキュラム編成や大学受験の出題傾向を通して、「数学」のキャッチアップは行っていた。文系クラスの生徒さんを担当している時でも、学校のカリキュラムによっては(高校課程における)理系数学を担当することもあったし、統計数学や、AIの理解に必要な行列(線形代数)はもちろん、筆者の高校生時代には文系数学に配当されていたベクトルも少しは理解できる。少なくとも、解答を読んで、生徒さんが正解に至る道筋を説明することはできなければ業務遂行できない、という環境には身を置いていた。
 
だからこそ、紫式部のように「時代をこえて読み込まれてきた文学」とはいえなくとも、いわゆる「文系」の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を題材にエイプリルフールを祝いたい。素人による座興で申し訳ないが。
もちろん、アニメおよび劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の制作には、アニメーションや撮影のどの行程や技術をとりあげても、その背景には数学や物理のような「理系」の営為が反映されている、ということは「エイプリルフール」に免じてご寛恕いただきたい。
「文系」と「理系」。
 正直なところ、筆者は両者の区別をするのは、日本の大学受験入試という「業界用語」にすぎないと考えている。たとえば、デカルト。彼を「哲学者」をとらえるならば、日本の大学では文学部哲学科(文系)で学ぶことができるのだろうと考えるであろうし、デカルトを数学者ととらえるならばそれは「理系」になるだろう(反論は可能である。たとえば東京大学1・2年次の数学のカリキュラムは文科と理科と目安が示されている(東京大学公式サイト・2024年3月アクセス))。
 
 アニメーションで表現された『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、数学という「言語」を使ってどのように記述することができるだろうか。筆者は、ここで、「ヴァイオレット・エヴァーガーデンが『伝えたい概念を言語化することができるようになる』という習得過程についての考察」に、数学的帰納法を用いたい。
 ヴァイオレット・エヴァーガーデンが「自動手記人形」という職業を選択したのは、「『愛している』という言葉の意味を知りたかった」から。エリカは、「なぜドール(自動手記人形)になりたかったのか」と問いかけるとヴァイオレットは本段冒頭の言葉を口にするが、エリカは小さな声で「普通は、その言葉(愛している)の意味がわかるから、ドールになるのだけど」とつぶやく。
 ここから、ヴァイオレットは帰納法によって「愛している」を理解しようとし、エリカ(たち)は演繹法によって「愛している」という言葉を使うという、思考法がわかる。
 では、日本の中等教育の中でもっとも有名な「帰納法」である、数学的帰納法を用いるのが定石といえるだろう(「数学的帰納法」は、推測された結果を証明していくための演繹法という学術的思考を展開する能力は筆者にはないが、ツッコミやブーイングは歓迎したい)。
 
 ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女が、手紙の送り主の中にある伝えたい思いを言語化するという能力を、どのように習得することができたか。すなわち、その能力がゼロから1になり、さらに成長するまでに何があったのか。
 彼女はアニメ第1話・第2話では、その能力がゼロだった(ことが描かれていると仮定する)。語彙力や表現能力といった数値化できる要件や、文献を読む能力はあっても、伝えたい思いを言語化することはできなかった。言葉の定義に苦しむところではあるが、「言語」にはできたとしても「手紙」という形でアウトプットすることはできなかった。養成学校の級友のルクリアが戸惑ったように、教官が記章を与えなかったように。もっとも、「記章を与えなかった」という教官の当初の判断をくつがえさせる物語が起きたことが、番外編の歌姫の物語のきっかけになるような解釈も可能だろうが。
 
 では、「n=1の時」は、作品内ではどこにあたるのだろうか。
 ルクリアの、兄への思いを代筆したこと【A】。
 アイリスの、家族への思いを代筆したこと【B】。
 しかし、【A】および【B】は「n=0」の領域を脱出するまでの課程と解釈するのが妥当だと思う。なぜならば、選ばれた者にしか与えられない(運や天命によって、すなわち、創作者という、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語をつむいだ「神」によってしか与えられない)機会がなければ、「『はなし』にならない」からだ。本稿でいえば、「数列」にならない。
 選ばれた機会とは、何か。
 アニメBlu-rayBOX限定なのかもしれないが、番外編がある。Blu-rayBOXブックレットではアニメ第3話から第4話の「間」にあった出来事として記されているが、番外編(歌姫の歌詞を「代筆」するエピソード)が、【A】および【B】から『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が別の「数列」を構成することになる、という解釈はいかがであろうか。
 すなわち、「n=1の時」は、前段に定義した「ヴァイオレット・エヴァーガーデンが『伝えたい概念を言語化することができるようになる』という習得過程についての考察」を構成する数列にはなりえないが、大学受験レベル(文系)の数学的帰納法でいう、「n=(or>)2の」時に条件をみたす数列が存在する、というものである。
 
 そうすれば、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの習得した能力によって、n=(2)3,4,5,・・・・・・N という数列{An}を定めることができる。
【Q.E.D.】。
 
 いかがだっただろうか。

 「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品を『数式』で表現することはできない」という批判は当然にあがると思う。だったら、エイプリルフールに便乗して(数式ではないが)数学という言語をもちいて、表現練習をやってみた次第である。
 筆者はいわゆる文系の学位しかもっていない。ひょっとすると、痛々しい致命的な誤解を含んだ記述をしているかもしれない。また、上記の「数学的帰納法」にしても、「nが2(3)以上の時に成り立つ数列」とはいっても、まだまだ不安である。
「私は高校課程までの数学(理系)しか学んでいない素人なので恐縮なのですが、高校課程数学で、『連続しているかどうか』は数学III・Cで学びませんでしたか」。こういう具合に、もっともらしく書いた筆者の知る「高校課程数学」でも、おかしなところはある。数列が「連続」するかどうか、「連続」するのであればそれは関数というものではないか。これらの質問に答えるすべをもたない。
 
 だが、やってみなければ、わからない、ことがあるかもしれない。少なくとも、「数学的帰納法」を実際にやってみて、「連続」という概念に思いが至った。デカルトが代数学と幾何学を組み合わせたように、筆者には微積分(数学III)に思いをいたすことなく数列をもちいて「数学的帰納法」という方法論に惑溺していたということに気づけたのは、学びだった。
 
 不惑に達して4年を経た筆者だが、俺はやる。
 ひょっとしたら、上記の「数学的帰納法」というアプローチを重層的に重ねれば、作品世界を(階差数列のように)法則性を見いだす、すなわち、「数学という言語で説明する」という、40の手習いが、いつか、きっと、あると信じているから。
 
 最後に、なぜ冒頭の写真を使ったのか。
 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品は、劇場版(2020)で、完結した。「『終わり』の『始まり』を伝えた」い、という筆者の思いを『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に沿って表現するならば、小田急町田駅構内の公衆電話がふさわしいと判断したからである。
 
比較参照作品:アニメ『理系が恋に落ちたので証明してみた』(1・2期)
 
2024年4月1日





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?