見出し画像

部長就任。男子校部室のエロ本を処分した話(1995)

 特殊詐欺の報道で、わからないことがある。
 
「ウエからの指示でやらされているだけで、罪悪感はなかった」
 
 「やっている」と、「やらされている」の違いが、わからない。
 
 筆者は、高校1年になった時に文化系クラブの部長に就任した。
 LGBTQの概念が(おそらく)市井に共有されていなかった、1995年の男子校。
 部室には、エロ本(など?)を収納した「danger」と名付けられたロッカーがあった。中高一貫の男子校。中学2年でその部に入部した時には、当然その存在を知らされていた。
 
 しかし、筆者は、一度として手を触れることがなかった。
 いまでいう、中二病(厨二病)の発症と思われていたのかもしれない。
 いずれ、自分が部長に就任すると予感していたからだ。
 男子校では部員募集に苦労する、弱小文化部・英語部。
 クラスでも副級長になるキャラだったし、やる気だけはあったので、消去法的に自分がなるものだと思っていた。
 
 もはや持病と従業員なしの個人事業主ということで「喪男」になっているが(正確にいえば2003年5月25日に社会的生命を投げ捨てたので「異性交際をしたい」とか「結婚したい」という意思を捨ててしまっていたが)、20代・30代になって、知らない間に「合コン」や「婚活」をセッティングされていたり、知らない間にお見合い話を進められそうになったり、といったことも経験した。
 数こそ少ないが、「知らない間に話を進められていた」としても、自分に関することは自分で責任をおうものだと小学生の時から自覚していた。その自覚の念を理解したのは、後年のこと。
 
高校1年生の春(1995年4月)。
部長に就任してまっさきに筆者が手がけたことは、部室の「不適切な資料」を処分することだと思った。筆者(男性)は異性愛者である、と当時(1995)は考えたこともなかったが、2010年代になって「LGBT(Q)」という概念が報道で特集されるなどして市井に浸透した今(2023)になっても自身を「異性愛者」だと思っている。
 しかし、自分が部長をつとめている部活の部室に「エロ本」がある、ということは「部長」の筆者が責任をおわされると思った(1995,1996)。他の部室にも「不適切な資料」が蒐集されていたであろうことは、想像にかたくない。
 
「『みんな』やっている」
「なぜ自分だけが罰せられなければならないのか。不公平だ」
 
 今(2023)から思えば、このように考えるのが「フツー」かもしれない。
 自分の知らないところで「監督責任」を問われるならば、自分自身で全容を把握する必要がある。この(世間で通用しないような)「責任感」のツケは、後年におっている。
 
 これには、小学生時代の環境も影響している。
 
 筆者の場合は、何か問題があれば、責任をおわされていた。
 たとえば、地元の公立小学校の集団登校。小学6年生(1991)の集団登校では班長になった。小学5年生の二人組男児と、小学3年生の三人組の男児が班長の筆者のメンツをつぶすように、列から離れて後ろを歩いていた。
ガソリンスタンド前の信号では、筆者と(列の前方の)下級生が信号を渡った後、わざと次の信号まで待つことで集団登校を「分断」されることは日常茶飯事。小学2年生の女児の母親が「遅刻」に厳しく、筆者が集合場所に到着していない児童の家のインターフォンを押して登校を催促している間に小学5年生を先頭に立たせ、先発させることは日常茶飯事。小学6年生の筆者に人望がないことは、誰にでも明らかだった。
 
「小学6年生」。
 
 笑ってしまうが、「最高学年」として「学年相応」の実力を求められる。
 集団登校の班長として「自責の念」にかられていた。
 
 隣の幼なじみのI.A君。
 数十メートル離れたマンションから班長として班をまとめて登校していたが、自分の班をまとめられず(列を組めず)になんとかしようとしていた筆者には、まぶしかった。さすが、I.A.君。幼なじみの親友。小学生の時に彼が獲得した新森バッティングセンターのホームラン賞。筆者は1998年にとったよ。
 
 こんな思い出もある。
 避難訓練。
 筆者のクラス(6年1組)の避難が他のクラスにくらべて遅れた。
 
「しっかりせんか!」
 
 担任のベテランのK先生は、先頭の筆者の腕に学級名簿をたたきつけた。
 あの時に筆者の頭によぎった感情はなんだったのだろう。
 
 責任感?
 屈辱感?
 
 おそらく、両方だ。
 幼稚園の頃から警察・消防に憧れていたので、交通安全・避難訓練などへの「意識」はかなり高かったと、われながら思う。
 
「自分でなんとかしなければ」
 
 男女混合の体育。毎年の体力測定で「客観的数値」で最下位を多くの「種目」で獲得していた筆者だったが、年に一度ある学年全体のマラソン大会で学年最下位になったことがない、ということは覚えているほどの運動能力と記憶力。しかし、後者の「記憶力」という点は、30年たった今でないと実感できない能力だ。
 もっとも、たとえ体力測定の記録が残っていたとしても個人情報保護の観点から、個人を特定できる形では「記憶力」を証明することはできないだろう。マラソン大会にいたっては、タイム測定どころか各児童の順位も記録されていなかっただろう。もっとも、小学校校外を含む近隣を児童が安全に走ることができるように、地元との調整に労力の多くがさかれていただろう、と今にして思う。

 徳育と体育では無能力。最後は学力?
 筆者は、「代表委員」(クラス委員)に選出されていた。
 班行動でもクラスでも筆者と仲の良いクラスメートと、そうでないクラスメートにわかれていた。女児からはさほど嫌われていなかったので、クラスメートの一人からつけられたあだ名は、「女たらし」。
 不思議なことに、筆者とアンチだった男児グループの「ボス」だったK.Y.君とは仲が良かった。小学3年生になる始業式の時に初めてのクラス替えがあったが(1988)、K.Y.君に
 
「ヒデ。お前とクラスが別になるかもしれんから、今、握手しとこう」
 
 と言われたのを覚えている。
 ちなみに、筆者はファーストネームで呼ばれることを嫌う。「カミタニ・ヒデクニ」を「Hidekuni KAMITANI」と記入するのも苦痛だ(さすがにクレジットカード名義として入力するのには慣れたが)。筆者をファーストネームで呼ばれても嫌な気持ちにならないのは、ごく限られた時期に出会った友人や、おおむね「尊属」(と従兄弟とその配偶者)に限られる。
 
 中学受験をへて、中高一貫の男子校に入学。
 
「自分のことは、自分で責任をとる」
 
ということは、当然に指導される・・・・・・までもなく、当たり前だ。
 
 もっとも、中学1年の時に「(仮)入部」(←正確にいえば中学1年生に適用される範囲で「校則違反」だった時期があったが)した演劇同好会で高校3年生しかいない先輩たちに、「責任」というものをみっちりしこまれた。
 
 学年があがる。中学2年と、(高校受験のない)中学3年。
 どうにもならないのが、「思春期」である。
 休み時間に不適切な資料持ち込みを「摘発」されて、没収処分をくらうクラスメートは何人もいた。
 
 筆者が高校1年生に内部進学した時のクラス編成は、そういう「摘発事例」を何度も経験を共有してきた、男子高校生ばかりである。筆者が部長をつとめる部室に、「不適切な資料」があることを、内密に誰に伝えればよいのか。わかりきったようなものだった。
 積極的に「情報発信」していたクラスメートを部室に誘い、「danger」と書かれたロッカーにあるものを全て持って帰ってもらうだけである。
 部の運営に必要な「資料」など、あるわけがないだろうし、おそらく、なかったのだろう。クラスメート達は、「不適切な資料」を全て持ち帰ってくれた。
 
 筆者がなぜそのような行動に出たのか。
 
 「組織的に『不適切な資料』を部室で蒐集していた」
 
ことが判明すれば、中学時代から入部している、現・部長の筆者がその全責任をおうと予想できたからだ。
 
 なぜ、「持ち帰ってもらう」ことにしたのか。
 「不適切な資料」を部室外に持ち出して、たとえばゴミ捨て場に行こうとすれば、「現行犯」になるだろうと思っていたからだ。
 
 「不適切な資料」を全て「処分」した筆者。
 その件については、(高校3年生の前部長に怒られた程度で)責任を問われることはなかった。
 
 高校1年生の時(1995)は部長個人としての不備を英語部顧問教諭に毎日のように職員室で叱責され(註:当時は「生徒を思う教員は、生徒を厳しく叱る」という認識が一般的だった。そういう時代だった)、
 
 高校2年生の時(1996)は、部長個人のことで顧問に叱責をうけた記憶はあまりないが(さすがにゼロではないが)、部員の監督責任を毎日のように職員室で叱責をうけていた。
 
 おかげさまで、弁論部の顧問教諭と、教室使用の権利をめぐって職員室で堂々と渡り合ったこともある。結局、力ずくで押し切られた。今(2023)に回想しても、「理」は筆者にあったと思う。
 
「これは、私の責任だ」
 
 思い詰める筆者は、自分の所属する英語部の顧問教諭に経緯を説明した。
 
 小言一つ言われなかった。
 
 なお、筆者の卒業後、職員室で「議論」をした弁論部の顧問教諭は、校長に就任した。100年の歴史をもつ母校において、歴代初の、神父ではない校長の誕生だった(母校の中高一貫校は、カトリック系のミッションスクールだった)。
 筆者は、はたソロモンの道を追う「優秀な生徒」だったかもしれないが、職員室での「オトナの事情」を、誰にも教えてもらえなかった。
 
 ・・・・・・
 ・・・・・・
 ・・・・・・
  
 さて、ここまでお読みいただければ、筆者が「恵まれた未成年時代」を過ごしてきたことがおわかりいただけると思う。

【CM。拙著です。特殊詐欺は警察内で生活安全とよばれる部門の管轄だと思われますが、拙著は警備部門の小集合である公安と外事のうち、外事です】

 
 「特殊詐欺」。
 
 筆者がNHKドラマ(2018)『詐欺の子』を視聴した時に感じたのは、「『貧困』や『格差』」というものだった。これに関しては、筆者(1980生)は不自由をした経験は、少なくとも大学(学部)を卒業するまでは、なかった。
 
 しかし、わからない。
 
 自分より(たとえば)年上の他人の指示で「やらされた」ことでも、自分自身が責任をおうことを教えられなかったのだろうか。
 昭和生まれの古い人間の一人として、思う。
 
 ただし。
 職員室で堂々と「正論」を論じてしまう筆者であるから、結婚をして自分の家庭をもつことはなかった。「守るべきもの」をもたない、いわば、「無敵の人」になってしまった。
 つまるところ、子どもの頃に「責任感」を追い求めるあまり、大人になったら「責任」を与えられなかった、という寓話のようなオチになった。
 
 写真:JR町田駅から小田急町田駅に向かう工事中の回廊に掲示された作品


 下記より、拙著をご購入いただけます。
 いわゆる、「公安のスパイ」(2006-2018)でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?