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「私の視界」の話

※写真やイベントの仕事とは無関係の、個人的な話です。
 
人間の目も耳も「選択通過制」なんだって
教えてもらったのは17ぐらいのときだった。
人間は自分の見たいものしか見ないし、見えない。

今年6月ぐらい。
明治通りの広尾あたりを歩いていたら、ホームレスがいた。
普段、広尾にはあまりいない。
50〜60才ぐらい。髪も肌も服も黒く汚れた小柄な彼は、
ゴミ置き場にしゃがみ、
白いコンビニ袋からカラスが破ってこぼれたような、
白い残飯を、一粒一粒より分けていた。

私は仕事の帰り、郵便局に寄る途中で彼を見かけた。
時間はランチタイムで、
恵比寿で働くOLやサラリーマンが大勢、
財布片手にランチに向かっていたけど、
誰もおじさんに目を向けもしなかった。

おじさんが見える位置、5m程度のところに、
歩道に椅子とテーブルを張り出す形の、
フレンチレストランのテラス席があり、
そこで、小学生ぐらいの娘と
コースのランチを食べている親子がいた。
その母親のほうの視界には、明らかにその、
残飯の前に座り込んでるホームレスは見えていたはずだった。
たった5m先にいるのだから。 

ホームレスの大半が知的障害者や精神障害者であることは、
きっとまだまだ知られていないだろう。
私の息子は自閉症と軽度の知的障害がある。
だから私は、ホームレスを目で追わずにいられない。

そのとき、私のiPhoneには、
知人からの、他愛もない恋愛相談のラインが
絶え間なく届いていた。
でも、私は時間が止まったような心地で、
そのホームレスの横を歩き、
機械的に郵便局に行って、仕事の書類を投函し、
その際に財布の中を見た。
帰りにまだいたら、話しかけようと思った。 

おじさんは残飯から白い米粒だけをより分けていた。
私が近くにかがんでも気づかない。
季節は6月で、もう気温が高かった。
私はおじさんに5,000円札を1枚差し出して、
「おじさん、おなかこわすから、やめな?」と
声をかけてみた。
「これで、何か買って食べて?」と。 

瞬間、私は、ああ失敗したと感じた。
彼はお札に目を向け、一瞬わからないような様子で、
ゆっくりそれを手でつまんだ。
「はい」と小さく答えたけど、
彼は、声をかけられてやめなさいと言われたことしか、
わかっていないようだった。
よく考えたら、
こんな汚れた格好で、コンビニやお店に入る訳がない。
私は、この場合、すぐ食べられる食べ物を買ってきて、
渡すべきだったんだ。
おじさんは、
5,000円札が分かっていない可能性があるぐらいの
「重い」人だった。認知症なのかもしれなかった。

彼らと出会ったところで、救うことなどできやしない。
今日も部屋に戻ってやらないといけない仕事がある。
顔を上げると、
レストランの親子は楽しそうに食事を続けている。
パリっとした店員が笑顔で珈琲を運んでいた。 

ふと見ると、
すぐ近くに、訪問介護サービスの車が止まってた。
入浴介助をする人たちで、
エプロンをした数人の若いスタッフさんたちが、
専用車から車椅子を乗せられるリフトを下げていた。
これから利用者を迎えに行くのだろう。
3人のスタッフさんの顔は、とても疲れているように見えた。 

同じ日、同じ場所にいても、
ホームレスや、介護の仕事の疲れた若者の姿が、
見えていない人がたくさんいるのは知ってた。
人間は自分の見たいものしか見ないし、見えない。
この日の光景はただ、
私にとって象徴的な光景だったにすぎない。
レストランの親子にとっては、
なにかお祝いすべき特別な日だったのかもしれないし、
ホームレスに気づいていても「どうすべきか」なんて、
考えること自体、学校で教えられていない。
誰も別に悪くない。

そもそも、働いている人は、納税していて、
それだけで社会にはすでに貢献しているのだから、
必要以上に彼らの視界に割り込んで、
弱者の痛みを訴えるべきかというと、
私はそれも違うと思っている。 

ただ、私は、私が死んだあとに、
息子がホームレスにならない方法を探して、
調べて、勉強して、毎日を生きている。
世界中の社会福祉状況を調べて生きている。
だから、ホームレスや、障害者と出会ったら、
時間が止まったように、彼らの様子を見てしまう。
介護福祉の仕事の人の様子をつぶさに見てしまう。 

iPhoneには、恋愛相談のラインが届き続ける。
それは「平和の国の住人」からのラインだ。
誰にも、悪気などはない。
それを別に疎ましく感じたりもしない。
世界はそういう形だと随分前から知ってるからだ。 

でも「私の視界」は、こうなんですよと、
同じ時間に生きている友人たちに、話してみたくなった。
見えているものが違う。
いや、見たいものが違う。 

おじさんは、残飯をそのままにふらふらと歩いていった。
次に会ったら、おにぎりやパンを買って渡そうと思った。
そう思って帰るしかない。
帰って仕事して、少なからず納税や寄付をするしかない。 

半年経ったけど、あのおじさんには会えていない。

これは1つの例。
子供に障害があると、世界はこういう視界になるという例。
 


 
※補足
私的な情景の話を、読んでくださってありがとうございました。
ホームレスについては、
「福祉の専門家でもないのだから、やれることはない」
「中途半端では意味がない」
と思っている人が多いかもしれませんが、
社会福祉とは、
自分の目の前に来たとき、数百円程度でも差し出せるものを差し出す、
その積み重ねで良いものなんです。
 
今日の分のおにぎり。今日銭湯に行ける小銭。
そんなものでいいと私は思っています。


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