人の上に立って神に成り代わろうとしている人達には知恵の木の実やバベルの塔の逸話を理解できない

アメリカにおける奴隷の歴史は1600年代に始まりましたが、当初は4年から7年といった一定期間を働けば解放される「年季奉公」という制度だったそうです。しかし奉公人は解放されたあとに自由に生きられたかというとそうではなく、大半の人は貧しい生活を送ったそうです。そういった不満から1676年に「ベイコンの反乱」が起きており、彼らは農場主にとって危険な存在とみなされるようになりました。なおルイジアナ州では交通機関から公園からトイレまであらゆる公共施設が白人専用と黒人専用に分けることが州法によって法的根拠を持つことになった。そして最高裁により1896年に白人と黒人専用を分けることが合憲とされた「プレッシー判決」が出ている。そういったものが撤廃されるのは1964年に成立した公民権法の成立まで待たねばならなかった。(社員と派遣のトイレが分けられる必要がどこにあるのか。やはり支配者には日本から出て行ってもらわねばならない)
話を戻してそういった反乱などにより貧しい下層民(アフリカ系)が農場主にとって危険視されるようになり、次第に終生労働を前提とした奴隷として見なされるようになった。また奴隷は動産とも見なされるようになった。
ということで当時のアメリカ人は本来であれば同じヒトであるはずのアフリカ人を奴隷にしたが、これは対等であるはずの人を下に見るという行為の極致であり、逆にに表現するなら自分を「人の上」に置く行為にあたり、これはバベルの塔の逸話のように天にも届かんとする塔を建てる行為に等しい。しかし人はあくまで人であり、神たりえず、聖書の言葉を借りるなら「神に挑まんとするサタン」的な行為ということになります。そしてアメリカが今どうなりつつあるかを見れば、バベルの塔を建てることがどのような結果になるかは明らかです。
奴隷解放宣言をしたリンカーンや公民権運動を推進したケネディらはいずれも暗殺されており、彼らの取った行動は私流に表現するなら「キリスト」的であると言えます。逆にそれに反しようとした者は極めて「サタン的」であると言えるでしょう。このように我々の世界はキリスト的な部分とサタン的な部分が玉石混交としており、我々はサタン的なものを排していかなければならないでしょう。という文脈で、十分に人権が認められているとは言いがたい実習生の制度は日本とアジア諸国の人との間に禍根を残すものであり、我々はもしかするとサタンに唆されるアダムやイブのように振る舞っているのではないか。知恵の実とはリンゴや果実そのもののことではなく、してはならないと知っていることをやって何かを享受したり利益をあげたりすることです。なおアダムとイブは知恵の実を食べたことを知った神により楽園を追い出されたのでした。確かにアメリカはディストピアとなりつつあります。もうなってるか。
人手が足りないのであれば大半の人が文句なく働けるように労働時間や環境を法規制することもできます。でなければ自由競争社会で利益を追求する企業は同業他社との競合のため最後には被雇用者の利益を吸い上げなければならなくなるでしょう。いわゆるブラック企業問題です。
そうでなければ、実習生は日本人と同じように人権が保証されて然るべきです。私は彼らの多くは日本に馴染める人達と考えており、子どもが日本の学校へ通ってくれさえすれば違和感のない隣人として働き手になってくれるのではないかと思います。反対に絶対に日本人とは馴染めず必ず最後には排除しようとする人たちもおり、私はこちらの方がよほど重大な問題と捉えます。イスラエルとパレスチナの関係を見れば明らかです。イスラエル人は自分自身で自分達を人の上、つまり神の高みにまで上げようとするバベルの塔を建てるに等しい行為をしている。