身を挺した胡友平氏に見る残留孤児への「母性」

6月24日、中国で日本人親子が襲われる事件が起きました。襲われたのは母親と男児で、親子は事件当時日本人学校へ通うスクールバスを待っていたところ中国人とみられる男から刃物で襲われたとのこと。しかし母子共に命に別状はないとのことですが、母子を襲った男を後ろから押さえつけようとするなど果敢にも制止しようとした日本人学校の従業員とみられる中国人女性は刺され、その後死亡したとのことです。大変痛ましい出来事であり、親子を庇うように亡くなられた胡友平さんに心から哀悼の意を捧げます。

私は普段から中国のことを悪く書く機会が多いです。しかしノストラダムスの予言のように1999年7の月から法輪功の弾圧が始まり、遂には一部の者によって生体臓器移植産業にまで用いられるようになりました。それによって私腹を肥やす人間がいるこということは、人類が滅亡してしまうほどのインパクトのある、人の行い得る最も極悪な鬼畜の所業の極限であり、我々はそのようなことを看過したり許容すべきでないのは言うまでもないことでしょう。そういったことを看過することでもし人類社会でそんなことが普遍的に行われるようなことになるとするなら、それこそ「ツングースカ大爆発」や「チェリャビンスク隕石」のような災害が桁違いの大きさで人類に降りかかることでしょう。それこそ恐竜が滅んだようにです。

ただし我々日本人が知っておかなければならないことは、戦前に中国大陸へ赴いていた日本人が戦後の混乱のなかで帰国するにあたり、多くの日本人の子息が中国大陸へ取り残されましたが、それらの残された日本人児童を養ってくれた中国人がいたことです。このことは後に「中国残留日本人孤児」や「中国残留日本人」として、日本の肉親との血縁関係を確認したり、希望する者の帰国といった問題が当時連日報道されていたことで私はリアルタイムで見ていましたが、若い人は知らない方も多いのではないでしょうか。

では当時敵対していたはずの中国人が日本人の子と知りながらなぜ養父母となってくれたかです。子どもですので放っておけば到底生きられませんし、一部で人肉食文化のあった中国ではもっと恐ろしい事態を想像することもできますが、当時の中国人は残された日本人の子を放置して死なせるわけでもなくなぜ家族へ迎え入れてくれたかです。止むにやまれず子を残して帰国するしかなかった当時の現地日本人の心中は察するものがあり、そのあとの我が子の運命を気にかけない親などいなかったはずです。それが殺されたりすることなく現地の子と分け隔てなく育てられ、生きていた。普通は生存を諦めても仕方のないような状況ですから、感動もひとしおというものでしょう。

「南極物語」は1983年に公開された映画で、私は小学生の頃にテレビ放送で見たことを覚えていますが、南極へ赴いた越冬支援船が氷に閉ざされつつあったことで越冬隊は引き揚げることになりましたが、それは天候の悪化により時間との戦いとなり、基地と支援船を往復するヘリに載せられる重量に限度があったことでソリを引くために基地へ連れて行かれていた樺太犬を残さざるを得なくなった。当時南極へ向かった砕氷船である「宗谷」は元々は貨物船として使われていたところを砕氷のための改造を施された船であり、砕氷能力が限られていたことでアメリカ海軍の砕氷艦「バートン・アイランド」号の支援を受けていたが、天候悪化により氷海脱出が危うくなりつつあったという緊迫した状況下で、ついにはバ号艦長からの「脱出命令」が下されたという経緯があった。つまり支援船を含めた越冬隊や支援隊が完全に氷に閉ざされて脱出不能となってしまうか、樺太犬を見捨てざるを得ないかという究極の選択を迫られる状況は現実に起こり得ることであり、そのような緊迫した状況下で中国大陸から命からがら逃げ延びてきた人達を批判することの出来る者などいないでしょう。

そのようにして現地へ残された日本人子息ですが、ではそのように残された子が中国人の養父母によって育てられたことは、道徳的な要求や純粋な思いやりによるものなのかといえば話はそう単純なものではないでしょう。

中国人に引き取られた日本人子息は女児の割合が多かったようであり、以下のサイトにこのような記述。

当時、中国の農村で広く行われていた「童養媳」 (幼女売買婚)という婚姻習俗がその一因としてあったことが指摘できる。

https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/aa12781506vol4pp51-60_nw._?key=MJBDVT

「童養媳」とは

“童養媳”は、“待年媳(何年か待って嫁)”あるいは“養媳(養い嫁)”とも呼ばれ、”婆家(夫の家)”で赤ん坊あるいは幼時から育てられ、14~15歳の女として生理的に十分な年齢に達したら息子と結婚させて家の嫁にするというものだった。

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/101059/030800091/#:~:text=%E2%80%9C%E7%AB%A5%E9%A4%8A%E5%AA%B3%E2%80%9D%E3%81%AF%E3%80%81%E2%80%9C%E5%BE%85,%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82

というもので、現代では酷い話ということになりますが、農業技術がまだ未発達で度々食糧難に陥っていた当時は将来の働き手を確保し、そしてそのお嫁さんの確保が如何に難しかったかという時代背景があったことは確かであり、様々な技術の発達した現代の価値観では推し量れないものも多くあったろうことは想像に難くない。

そのように中国人養父としては息子の将来のお嫁さんとして孤児を受け入れたケースは相当数あったと思われるが、男児が受け入れられたケースもなかったわけではないようであり、例えば現地の中国人未亡人が将来の働き手として引き取ったようなケースも考えられますが、いくら将来の労働力に期待してのことであったとしても、敵であった日本人の子を他と分け隔てなく育てるということを「母性」なしに出来得ただろうかということを我々は忘れるべきでないでしょう。このような歴史は、日本人と中国人は決して遺伝的に敵対し合うものではないという重大な示唆を指し示してくれているように思えてなりません。

様々なことにより日本と中国は近い将来に再び戦火を交えることになりそうですが、そのことだけは忘れずにいたいものです。