『恋×シンアイ彼女』 感想

 一月ほど前、『アインシュタインより愛を込めて』並びに『アインシュタインより愛を込めて APPLLOCRISIS』をクリアした。抱いた感想としては、「シナリオライターの新島夕さんの魂みたいな部分がほとんどで、肉付けする気がないから万人に薦められるもんでもないなぁ。でも私は新島さんが好きなのでこの作品も好きです」というものだった。

 私は新島さんをかなり高く評価していて、なんなら10年代最強のシナリオライターじゃね?と思っている。アイ込めをやった後でその思いはより強固になった。なので、そんな最強のライターが書いた作品の中で私が一番面白いと思った『恋×シンアイ彼女』(以下「恋カケ」)について感想でも書いていこうかなと思う。ガッツリネタバレあるんで未プレイの人は気を付けてください。




 恋カケは面白い。音楽とかグラフィックも高水準なのだが、個人的にはやっぱり新島さん担当の彩音√と星奏√+last episodeの出来が素晴らしいと思った。なので、その2√を中心に話していく(他の2√も無難ではあるが丁寧な構成で、十分読んでいて楽しめるクオリティだったという事は述べておく)。


・星奏√+last episode
 インターネッツで話題になった例のアレ。地雷だの音楽に寝取られただのボロクソ言われているが、私はこの√好きですよえぇ(鋼の意志)。
何故なら、恋カケという物語の根幹にあるテーマは「恋、それに準ずる青春や日常」と「表現すること」だからだ。 

 前者は言わずもがな、そもそもエロゲという形態を取っている以上そりゃそうでしょって感じだが、ここで大事になるのは後者だ。
 そもそも、この物語の中核にいる三人は皆表現者である。彩音は服飾、星奏は音楽、洸太郎は小説という分野で自己表現を行っている。ストーリーでの紆余曲折の後に、彩音√では彩音がグロリアスデイズの衣装を制作し、星奏√及びlast episodeでは洸太郎は小説を書き、星奏は作曲の世界へ戻っていく。

 ただし、この物語における表現は両面性を孕んでいる。それは「表現って届くこともあるけど、届かないことあるよね」という、作品全体に浸透している考え方によるものだ。そして星奏√は、基本的に後者の目線から話が展開していく。洸太郎が初めて行った言語的表現である星奏へのラブレターは届かないし、その後に書いた小説も大して売れたというわけではない。星奏の作曲した曲も人の心を打つほどのものではなかった。表現は、届かない物として描かれている。

 そして、これらはそのまま恋というテーマに繋がる。「恋も表現と似通う部分があるんじゃないか?届く事もあるけれど、届かない事もあるんじゃないか?」という考え方が出てくる訳だ。ここの重ね合わせが恋カケにおける最大の妙技だと思う。「ヒロイン」との恋が基本的なゴールとされているエロゲという媒体でこんな裏切るような仕掛けを入れてきた時点でも面白いのだが、見事なのは「裏切り」の圧力に屈せず、コンセプトを徹底している所だ。星奏√やlast episodeにおいては、表現と同じく恋も届かない物として表現されており、洸太郎と星奏は幾度もの別離やすれ違いに直面する事になる。結局、星奏は物語の片方の柱である「恋(ヒロインであること)」を捨て、純然たる「表現者」であることを選択するが、前述した通り表現の部分でも大成する事はなかった。恋と表現は届かなかったという部分において、星奏√とlast episodeでは一切妥協をしていない。この妥協の無さが、物語としての高いクオリティを形成する骨子となっているなというのが個人的な感想だ。


・彩音√
 更にこのゲームが見事なのは、星奏√と対になる彩音√を置いていることだ。彩音も、徹底して「表現者」に殉じた星奏と対比される形で「典型的なエロゲヒロイン」として描かれる。表現=服飾を捨て、自身の恋心を行動理念として洸太郎に告白した彼女と、恋を捨て、洸太郎からの告白すら振り切った星奏の対比構造は些か単純とも取れるが、私は純粋で美しいと感じた。

 対比構造はそこだけに留まらない。この√では恋や表現が「届くもの」として描かれている。彩音から洸太郎へのラブレター(ここでも送り主と受け取り手が逆になっている所に丁寧さを感じる)は結果として届き、彩音と洸太郎の恋は無事成就する。彩音がグロリアスデイズのために作った衣装はコンペに合格し、苦し紛れでやった彩音と服飾科のコピーバンドも観客からは高評価を受けるなど、表現も基本的には他者に受け入れられたと描写されている。巧妙かつ丁寧にエロゲーの典型的な物語展開を抑える事で、前述した「恋」並びに「表現」の両面性を強固にする事に一役買っている、という意味では彩音√も非常に重要な√だと感じた。

 また、新島夕さんは日常パートやキャラクターの掛け合い、抽象的な心理描写と言ったエロゲーの基礎部分であるテキストのクオリティが非常に高いと勝手に個人的に思っている(反面、濡れ場や戦闘シーンなどの特殊な場面におけるテキストのクオリティは結構難ありじゃないだろうか......と思う)。なので、新島さんがこういうテンプレート気味の物語を真っ直ぐ描くだけでも結構なクオリティの文章が出てくる。そういった意味でも彩音√は楽しめる√だった(事実、私は彩音√だけ唯一再走していたりする。純粋に読み物としては星奏√と同じくらい面白いし、彩音ってヒロインが個人的にめっちゃ好みなんですよね。ツンデレぴゅあガール、良い!)。


・GLORIOUS DAYSと青春(過程)
 以上の考えには一応の反論が可能だ。それは「恋や表現が届いたり届かなかったりするとして、でも届かなかったら何も残らないよ」という物である。それに対するアンサーはlast episodeの終盤で成立されており、内容としては「恋にしろ表現にしろ、何かに向かって、全力であるべき物に対して全力である事が重要だ」というものだ。要するに結果より過程が大事で、その過程って青春と呼べるんじゃない?みたいな話だ。まぁシンプルというか素直な結論で、ここだけでもスッキリしていて好感が持てるのだが、恋カケはそこに留まらない凄味を持っている。
 それが「GLORIOUS DAYS」という挿入歌だ。いやもう、この曲が本当に凄い。私が作曲者のmeis clausonさんが大好きというのもあり、曲単体としてもかなりいい出来なのだが、もっと凄いのは歌詞だ。GLORIOUS DAYSは元々彩音√に流れることを想定して作られた曲で、歌詞の内容も彩音√をモチーフとして読み取れるようになっているのだが、なんとこの曲、何故か星奏√の内容にもオーバーレイしているのである。それだけでなく、前述した「過程にこそ意味があるんだよ」という作品全体のコンセプトすらも読み取れる歌詞にもなっており、「作品の解像度を上げる役割を担っている挿入歌として出来が良すぎるのだ。マジで。正直これまで聴いたエロゲソングの中では一番挿入歌として出来が良いなと思ったし、この曲の存在だけでもかなり恋カケというゲームの価値を跳ね上げているように感じた。


 という事で、恋カケに関して思った事を書き綴ってみた。プレイしたのが約半年前で、かつあまりにも夢中になって読んだという事で完走自体も3日くらいでしてしまったので、細かい部分では齟齬があるかもしれない。ただそれでも、恋カケは世間でアレコレ言われているほど酷いゲームじゃなくて、むしろ恋というものに真剣に向き合って徹底して表現し切った名作だし、それを可能にした新島夕さんの実力は本物だと私は思っている。DMMではそれなり以上の頻度で500円でセールになって売られていたりするので、気になった人は是非プレイしてみてください。

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