(結局人類滅)オレがもし対人ゲームでチーターだった場合の思考


Apex LegendsだったりフォートナイトだったりPUBGだったりバトロワやらFPSやらに限ったことではないけれども対人ゲームにおいてチート行為は後を絶たない。こういったチート行為に運営各社も頑張って対応しているがいたちごっこだったりクライアントがチート対策で重くなったり萎えてゲーム辞める人が出てゲームとして成り立たなかったり、昔から問題がいろいろありますけれども。

チート行為禁止を訴える前に、なぜ人はチート行為に走ってしまうのか、それを考える際に、もし相馬怜治という人間がゲームにおいてチートを使うならどんな気持ちで、目的で使うのか、自分自身と対話してみた結果を踏まえながらそれとなく話をまとめていきたいと思う。


・相馬怜治は自身の衝動を抑えられない

オレがゲームに求めるものがもしウデを磨いて強くなりたいという思考であったならば恐らくはチート行為は使わないと思う、実力を身につけたい場合には不要な力ですしね、いわゆる努力することを自身が肯定できている場合。

努力することを肯定できないゲームを求めるとき、それはオレに例えるならゲームを快楽殺人の代替行為として使いたい場合だろうなと考えている。

こう言っては何だがオレは人が人を殺したい、痛めつけたい、ひどい目にあわせたい、精神的苦痛を与えたいなど他人を傷つける衝動を基本的には否定しません。たぶん誰しもが一度は思ったことがあるだろうし今まで世界、社会、人間関係から受けてきた苦痛を自分で受け止めてそのまま自分で昇華できるほど人間出来ていない、受けた分の怒りや憎しみ、ストレスはなんやかんやで他人にぶつけたりしないと解消できないと思う。

法律、道徳、人生観、などさまざまな社会的要因で殺人やら犯罪やらができないだけで、世界がもっとバイオレンスな道徳観の世界であったならオレはたぶん平気で殺人を犯すし他人にありとあらゆる苦痛を与えたい。つまりは破壊衝動、暴力衝動による快楽を得たい。

今から十数年前の相馬怜治のその衝動を解消する代替行為が言うなれば厄介イベンター、迷惑イベンター行為だったわけです。幼少期に貯めに貯めたイジメなどのスクールカースト下位における精神的苦痛、自身の私生活が成熟しなかったストレス、そこから生まれる鬱憤、妬み憎しみ。そういったものを成人した20代、自分より弱いものにぶつける、今までいじめられた分を晴らすかのようにね。。。相馬怜治は自身が受けたものを、負の連鎖にしてしまったわけだ。結局、止められなかった。


・まず目的が違う者が同じゲームにいる問題

快楽殺人の代替行為をゲームに求めた場合、NPCをさんざん倒すゲームはストレス解消にはならない。思考としては意思のある人間を殺して傷つけて苦痛を与えて初めて快楽を得られるのだから

上記のことを踏まえたうえで、バトロワやFPSで快楽殺人の代替行為がしたい場合相手が強かったらどうする?ってところに行きつくわけです。

相手を殺す快楽のために血のにじむような努力ができるか?快楽を得るためにわざわざ苦しい経験したいか?オレはしたくない。余談だがそのために歯を食いしばりながら努力できる怪物が家族にいるからそういう人間が世の中にいないことはないけどオレのような自身の意志が弱い人間は恐らくはそのために腕を磨くとかはできないだろう。

そこで現れるのがチートとかそういうズルをする(ラクをする)行為なわけです。こちとらまともにゲームをゲームとして楽しむわけじゃないしスポーツマンシップなんか知ったことではない。オレはゲームを楽しみたいんじゃない、肉入りの意思のある人間を殺す倒す疑似体験をしたいだけなんだ。

↑みたいな人間にルールを守れといったところで守るわけじゃないしそもそも目的が違うのだから従うわけがない。

ちょっと話題がズレるけどエンジョイ勢とガチ勢の意識の違い

同じゲームをやってるのにそれぞれが違う目的、思惑、意識でやってるのだからそりゃトラブルだって発生しますよ。


・共存はできるのか?

まずもって無理だと思う。意思が違う者同士で住み分けできるようなシステムを作れればいいだろうけど簡単にはいかないだろう。

チーターを減らすという意味においてはチートを使って快楽を得るものに対する代替快楽(未来的な話をすれば電脳世界が確立できればマトリックスよろしくそういう人間に現実と思わせる夢を見させる(いわゆる現実からの隔離))とかあればいいだろうけどそれ言うなれば犯罪者を隔離するのと思考が変わらんので何の解決にもならない。

そもそも個人の意識が違うのが最大の問題なので個々の意思を統一して一つの思考に変えれれば同じゲームを同じ意思でプレイできる。でもこれは個人の意思を否定する=人間に意思があることを否定するので人間の存在意義を失うことにもなりうる。

やはり人間は意思を持っているだけでトラブルは終わらない、問題は解決しない。

そこで二つの選択肢がある。

1、人間が問題を起こすのは仕方のないことだと容認して、今後も我々人類は人と人がぶつかり合い、ときに愛するこの混沌の世の中を一人一人が受け入れるのか。

2、秩序を手に入れるために人類が己が意思を放棄する、静かなる世界のために人類をこの世界から浄化するか。

ぶっちゃけ人類はこういう観点から見ても滅亡させることは手っ取り早く解決できる行為だなと相変わらず思う。


あとがき:何回かnoteでいろいろ書いてるけど相馬怜治を語るにおいて重要なキーワードがわかってきた。

「快楽」

趣味的にも暴力的にしても性的にしてもオレの行動原理の中心にあるものが快楽、承認欲求を解決したいといったもののオレの根底にある快楽を求める衝動がなくならない限り承認欲求を求める行動は無くならないだろう。

自らの内に秘める快楽を渇望する衝動をうまく向き合える世の中をもし仮に万が一にでも作られたのなら、オレのような人間をひょっとしたら減らせるかもしれない。

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