温かい言葉を、取り戻すために。
どうしても、書き残さなきゃならない。
未来の自分に、現在の自分の内側で深まった世界の一部を、贈り届けなければならない。
どんなに言葉に書き残したとしても、言葉は抜け殻のようになってしまうこともある。それでも、身体の感覚は移ろいゆき、心許ない。だから、すべて掬いきれなくても、なんとか言葉に留めておくしかない。
この1週間で、目の前に立ち現れた出来事たちは、その多くが繋がっていた。1ヶ月前には感じ取っていなかったことが、この1週間で確かに感じられるようになった。
それは、ずっと前から、自分の前に現れていたのかもしれない。自分がただ捉えられていなかっただけなのかもしれない。けれどもいま、いままでになくはっきりとした輪郭を携えて、でも掴みがたく、目の前に佇んでいる。
はっきりとは言葉にならない。けれども確かに、ここにある。
言葉にしようとすると、掴みかけていたものが、離れていってしまう。そんな気がする。淡い白霧に手をかけても、掴めないように。朝陽に照らされた雲海が、物事を明らかにせんとするその陽光によって、空気の中に溶け込んでしまうように。
昔の自分は、大切なことをわかっていたような気がしてくる。本も読んでいなければ、学校のなかに閉じ込められていたあの頃のほうが。あの頃の自分に、羨ましさすら感じてしまう。
言葉をたくさん得たところで、それが一体、何になるというのだろう?
体温のない軽い言葉を、ただ継ぎ接ぎしていないだろうか?
言葉を冷徹なメスにして、世界を切り刻んでいないだろうか…?
頭で考えることが、すべてだと勘違いしていたのかもしれない。わかっていたはずなのに。言葉にできないことは「ないもの」として、軽蔑すらしていたのかもしれない。自分の知らないところで、多くのひとを傷つけてきたのだと思う。その中には、きっと自分も含まれている。
他者が作り出した概念を「正解」や「理想」と勘違いして、それをあたかも自分の武器のように使って、現実を否定することばかり、躍起になってはいなかっただろうか?
どんなに緻密に整然と正論を重ねても、現実はびくとも動かない。その自分の無力さに、いま、打ちひしがれている。動かそうとしている現実そのものを否定して、自分の見たいように世界を見てしまっているのだから、当然だ。
そんな自分の醜さを、最後の最後にはっきりと突きつけてくれたのが、この本だった。
まだ、真意は理解していないだろう。でも、確かに自分のこころに響くものがあった。囚われていたものが、少しずつ解けて、自分の「肚」の中に、わずかに温かさが戻るような感覚があった。うんうん、こんな感じだったな、って。
過去を、現在を否定したり美化するために用いてしまってはいけない。過去を拠り所にすがってもいけない。現在のすべてを投げ捨てるわけではなけれど、いつしか手を離してしまったそれに向かって、再び手を伸ばしてみたい。自分の身体は、確かに過去の自分を記憶している。「思い出す」という営みは、自分を肯定することでもあり、自分を癒すことでもあるように思う。
温かい言葉を、僕は取り戻したい。
いまなら、過去と現在、そして未来をつなぐことができそうだ。その架け橋のヒントをくれた仲間に、心からの感謝と、恩返しを誓いたい。
2022.12.18
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