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「言葉」の奴隷になっちゃいけない。

「自分を語る」ということ。
とりわけ、自分語りが「言葉として残る」こと。

その意味を、最近、なぜかよく考える。

かく言う自分はかつて、よく自分のことを語っていた。

だが、ある時を境に「自分を語る」という営みに、底知れぬ恐怖を感じるようになった(noteのアカウントも持っていて、何本もポストしていたのだけれど、アカウントもろとも削除してしまった)。

書いている時は、自分の「真実」が言葉となって現れていると、信じて疑わない。

けれども、時間が確信を徐々に揺さぶり、そして跡形もなく奪い去ってしまう。

目の前に横たわる言葉の残骸を目の前にして、言いようのない気持ち悪さに襲われてしまう。

疑いようもなく「自分」が吐いた言葉だけれども、その存在を認めたくないような。

* * *

「自分を語ること」が容易くなったと言われる。

言うまでもなくインターネットとSNSの言語空間の発達に伴ってのことだ。

同時に「自分を語ることは大切だ」とも、喧伝されるようになった。

自分は何者なのか?
どんな価値観を持っているのか?
何を大切にしているのか?
これまでどんな経験をしてきたのか?
人生のミッション / ビジョンは何なのか?

大学生だった頃(3〜4年ほど前)、自分も「自分を語ること」に躍起になっていた。

過去を掘り起こし、自分に与えた影響を言語化していった。

その影響を並べて、意味づけ、ひとつの連なりとして──つまりは「物語」として──整えていった。過去の延長線上に、現在の自分はいて、この道の先に目指す未来があるのだ、と。

いま振り返ると、こう思う。

なぜ、自分を語ることに、あんなに一生懸命だったのだろう?

きっと、怖かったのだと思う。
他者から、自分の人生に「意味がない」と思われるのが。

その他者には無論、自分も含まれている。

そうやって、意味を何十にも纏って、その綻びを幾度となく手直しし続け、自分という存在をなんとか保っていた。

「意味が通っているか」が一番重要だった。

「意味」は強い。他者に自分の人生を納得させることができる。
その他者には無論、自分も含まれている。

言葉にならないことは「存在しない」ことと同義だった。
そして言葉を重ねる傍らで、何かが置き去りにされていった。

* * *

置き去りにされたもの。

それは一体、なんだったのだろう?

言葉で自分の内部を埋め尽くして、その言葉が自分から流れ出すたびに、言葉を注ぎ継いでいった。

それでも時折、自分が空っぽになるような感覚に襲われた。

その度に、意識は自然と、自分の内に向いた。

自分は何を見失っているんだろう?
何を置き去りにしてしまったんだろう?

何を見つけられるわけでもない。

けれどもその時間は、自分にとって何よりも重要な時間なんだ、ということだけは、よくわかった。

そもそも「自分」は、さまざまな場面によって現前する、仮面の集合体でしかない。どれも「自分」であり、どれも「自分」ではない。

その前提に立った上で、他者に自分を「伝える」ということ。
さらには「言葉」で伝えるということ。

二重の漏斗をくぐり抜けて現れる「自分」という存在。

どんなに細やかな言葉を操れたとしても、零れ落ちてしまうものがある。

自分を自由にするはずの物語が、自分を苦しめていた。
自分でつくった物語を、自分で生きようとしていた。

いま振り返ると、そう思う。

それは、よく言われる「レールに乗った人生」と、何が違うのだろう?
自分が引いたレールを、自分で生きようとしていただけじゃないか?
そのレールは、本当に自分が望んだ道だったのか?
そもそも、人生にレールを引かなければいけないなんて、誰が決めたのだろう…?

自分を言葉で綺麗に整形しようとすることほど、苦しいことはない。
言葉にならないことの中にこそ、真実が眠っているはずだ。

物事はすべてそんなに容易に掴めるものでも言えるものでもありません、(中略)、たいていの出来事は口に出して言えないものです、全然言葉などの踏み込んだことのない領域で行われるものです。
『若き詩人への手紙』(L・M・リルケ、高安国安訳、新潮文庫、P.13)

自分にとっての真実は、言葉にしなくたって、他者に伝えなくたって、いいと思う。

「言葉」の奴隷になっちゃいけない。

自分という混沌とした存在を、言葉に預け過ぎてはいけない。

* * *

人類史上、最も「言葉」が溢れ出ているであろうこの時代に、人間は人間と、どう向き合うべきなのだろうか。

自分がまずは、大切にしたいこと。

「言葉の不完全性を受け容れる」ということ。

「言葉」は、すべてを語り得ない。

「言葉」とは、人間が認識し得えない複雑な世界を、抽象化して切り取った産物でしかない。

一方で(だからこそ)、言葉は、1番ミスコミュニケーションが少ない道具でもある。

誰でも操ることができ、かつ大方は(社会の秩序を保つ程度には)正確に意思の疎通を実現できる。

けれども、語り得た言葉には、他の言葉として現れる可能性があり、かつ言葉として語り得なかったものが、間違いなく残る。

「言葉は不完全である」という前提を持つこと。

言葉の奥の奥まで、覗き込むしぶとさを持つこと。

自分にできることは、それしかないんだと思う。

* * *

ここに書き残したことも、時間が経てば、気持ち悪さを感じさせるのかもしれない。

それでも、いまこの瞬間に感じたこと、考えた「真実」として、自分を信じてあげるしかない。

自分は変わり続ける。言葉も移ろい続ける。その繰り返し。

しばらく、書くことが怖かったけれど、また少しずつ、書いていこうと思う。

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