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名前が無くなる時間



このごろ頻繁に銭湯へ行く。
銭湯にはいつもわたしと同じく銭湯好きの弟と一緒に行くのだが、わたしたちはなかでも花巻南温泉郷にある「なごみの湯」という施設をとびきり気に入っている。



おすすめの時間帯は夜だ。晴れていれば広々とした露天風呂から美しい星空をゆったり眺めることができるし(この施設は暗い山奥にあるため、暗い星で構成された星座などもよく見える)、星空から地上へと視線を移せば、浴槽を囲むように植えられている木々や、その向こうに黒々とそびえる山の影を見ることができる。木々を渡ってきた夜風の匂い、かすかな葉擦れの音など、様々な感覚をはたらかせて楽しむことのできる最高の空間だ。個人的には浴槽に沈んでいる(置かれている?)岩に触れたり、凭れかかったりするのも好きだ。岩という、その存在にわたしより遥かに永い時間を内包しているであろうものに裸で触れていると、自分はたしかに今ここに存在しているのだという強烈な実感が湧いてきて、心の底から安堵できる。大袈裟なことを言う、と思われる向きもあるかもしれないが、他者との交流の乏しい生活を送り、自分が実在する人間であるという感覚すらも希薄になりつつある今のわたしにとって、この感覚は本当に貴重なものなのだ。自分が生きていること。此岸でたましいを所有していること。わたしを愛する死神はつねに隣にいるけれど、まだ触れてくる気配はないということ。



ところで、「なごみの湯」、ひいては銭湯の楽しみは露天風呂に浸かることだけなのかというと、そんなことは全くない。身体を洗う時間も楽しみのひとつ、というより、個人的には露天風呂に浸かっている時間と同じくらい大好きだ。鏡のなかの自分と向き合いながら、備え付けのいい匂いがするシャンプーやリンス、ボディソープで身体を洗う。無心になって洗う。家で身体を洗っているときは大抵暗い考えごとをしてしまうのに、銭湯ではなぜだかそれがない。瞑想をしているときのような明るい余白(とでも呼ぶほかないもの)が心を満たしていく。この時間のわたしには完璧に名前がない。銭湯で無心に身体を洗っているわたしを誰かが気に留めることはない。わたし自身でさえも。名前にはしがらみがつきまとう。本名には本名の、筆名には筆名のしがらみが。この時間だけはあらゆるしがらみから解放される。一分の隙もない、閉じきった自由がそこにある。




そういえば先日、宮沢賢治の『春と修羅』をぱらぱら捲っていたところ、とある詩に花巻南温泉郷の地名が出てくることに気がついた(松倉山・五間森)。賢治もこのあたりが好きだったのか、と思えば気分が高揚するとともに、言いようのないなつかしさが込み上げてきた。「風景とオルゴール」という詩だ。長いけれど最後に引用する。


風景とオルゴール
(宮沢賢治『春と修羅』より)


爽かなくだもののにほひに充ち
つめたくされた銀製の薄明穹を
雲がどんどんかけてゐる
黒曜ひのきやサイプレスの中を
一疋の馬がゆつくりやつてくる
ひとりの農夫が乗つてゐる
もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ
木だちやそこらの銀のアトムに溶け
またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら
あたまの大きな曖昧な馬といつしよにゆつくりくる
首を垂れておとなしくがさがさした南部馬
黒く巨きな松倉山のこつちに
一点のダアリア複合体
その電燈の企画(ルビ:プラン)なら
じつに九月の宝石である
その電燈の献策者に
わたくしは青い蕃茄を贈る
どんなにこれらのぬれたみちや
クレオソートを塗つたばかりのらんかんや
電線も二本にせものの虚無のなかから光つてゐるし
風景が深く透明にされたかわからない
下では水がごうごう流れて行き
薄明穹の爽かな銀と苹果とを
黒白鳥のむな毛の塊が奔り
   ((ああ お月さまが出てゐます))
ほんたうに鋭い秋の粉や
玻璃末の雲の稜に磨かれて
紫磨銀彩に尖つて光る六日の月
橋のらんかんには雨粒がまだいつぱいついてゐる
なんといふこのなつかしさの湧きあがり
水はおとなしい膠朧体だし
わたくしはこんな過透明な景色のなかに
松倉山や五間森荒つぽい石英安山岩(ルビ:デザイト)の岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
   (杉のいただきは黒くそらの椀を刺し)
風が口笛をはんぶんちぎつて持つてくれば
  (気の毒な二重感覚の機関)
わたくしは古い印度の青草をみる
崖にぶつつかるそのへんの水は
葱のやうに横に外れてゐる
そんなに風はうまく吹き
半月の表面はきれいに吹きはらはれた
だからわたくしの洋傘は
しばらくぱたぱた言つてから
ぬれた橋板に倒れたのだ
松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち
電燈はよほど熟してゐる
風がもうこれつきり吹けば
まさしく吹いて来る劫(ルビ:カルパ)のはじめの風
ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ
電線と恐ろしい玉髄(ルビ:キヤルセドニ)の雲のきれ
そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ
   (何べんの恋の償ひだ)
そんな恐ろしいがまいろの雲と
わたくしの上着はひるがへり
   (オルゴールをかけろかけろ)
月はいきなり二つになり
盲ひた黒い暈をつくつて光面を過ぎる雲の一群
   (しづまれしづまれ五間森
    木をきられてもしづまるのだ) 


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