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結婚式が現代で持つ意味について思ったこと

〜〜Facebook投稿より〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2024/7/14(日)に結婚式を挙げました!🎉

妻とは2年7ヶ月前の2021/12/10に入籍していましたが、今回、参列者40名と小規模ではあるものの、神奈川県・葉山にある元邸宅の式場で、結婚式を挙げさせていただきました。

家族・お世話になった方々・友人たちを呼びました。皆この会を通して仲良くなっていただけたようで、本当に開いて良かったと思える会でした!すごく楽しかったです!

用意できた席数が少なく、参列を前から予定していた人以外は今回お呼びすることが中々叶いませんでした。本当は声を掛けたかった方がたくさんいらっしゃいます。
お呼びできなかった方、来れなかった方ふくめ、これまで僕と玲奈の人生の大切な瞬間を共にできた皆さんへの感謝の気持ちでいっぱいです。

本当にこれまでたくさんの方々に支えられたからこその人生だと改めて実感する機会となりました。
引き続き夫婦ともどもどうぞよろしくお願いいたします!🙇

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●そして長い長い余談
(という名の本題)

「結婚式」が現代で持つ意味について

ここ最近、僕は最上和子先生の主宰される稽古場にて、舞の稽古をすると共に、現代で成り立つ"儀礼の姿"について日々探求させていただいています。

そんな日頃の関心があるため、結婚式は自分事でありつつも、今の日本で社会的に一番よく成り立っている"ハレの日"として、その"儀礼"の最後の生き残りのような結婚式自体への強い興味もありました。

今回は結婚式を挙げるにあたって、僕ら夫婦2人にとっての意味と、そして現代における一般的な意味と、両方を考える良いキッカケになりました。

その結果、僕らは僕ら2人なりに色々と試行錯誤して、2人にとってベストな式を実現できたという実感もあり、またこれは現代の結婚式の(ある意味で)本来の姿の1つの種類を、実現できたかも??という気持ちもあります。

具体的な演出として、最近の日本で一般的だった演出(新婦の嫁入り演出・クリスチャンでなくとも牧師さん登場の神前式等)をやらず、どちらかと言えばゲスト中心のアットホームなパーティに近い演出にしたところが進行の意図としては大きいです。しかし、そういった進行づくりのレベル以上に、何か言葉にならない深いレベルで、大切なものが表現される、そういう"場の流れ"や、"隠れた進行"が自然と生まれるようになっていたんじゃないか?と感じます

それが成り立つのは、参列者の方々のスタンスや、式場スタッフ陣のスタンス、そしてあの式場が持つ場の力があったからこそだと感じます。また、僕自身の要素としては、日頃の稽古によって練られてきた身体性(これまた解説が難しいですが)があったことも関係すると思っています。
その身体性を以って、特に式場のもつ"場の力"を強く感じました。なぜそれは感じるのか?を言葉にするのは非常に難しいですが、とにかく場の力が引き出され、会場とそこに集まった方々とそして"世界"から、祝福されていると感じるのでした。

細かいことを書き出すとキリが無いので、この話はまた興味を持ってくださる方とじっくりやりたいのですが、とにかく、良い会を開けて良かったという気持ちでいっぱいです。式の開催にあたっては、準備から当日まで、最上先生と稽古場の皆さんから学んだことがとてもよく活き、深く感謝しています。

また、せっかくの機会だったので、日本の婚姻史や世界の婚姻の習俗もいろいろ調べてたのですが、現代日本の"結婚"及び"結婚式"は、ブライダル産業の商業的理由によって歪つな慣習になりつつあることもよく分かってきました。笑

結論、現状の結婚式まわりの文化に対して僕が思ったことは、いろいろ工夫を凝らした演出(大体それは小手先感がつきまとう)以上に、ただシンプルに、そこに清らかな繋がりをもつ人が多数集まることの意味(その繋がりとは、純粋な祝祭性の最小単位と言っても良いかもしれません)、これを軸に据えつつ、自然な形でこのマツリを執り行うことが、重要ということでした。今後ますます地縁・血縁・宗教性という人間関係のこれまでの社会的な土台が薄れていく社会の中でも、式という儀礼が意味を持ち続け、開催される意味はそこにあると思いました。

儀礼だからということを額面通りに受け取って、真面目さ・厳粛さのようなものを"演出"するときには、その真正さ、すなわち意図を問われると思います。ここで小手先の演出を試みると、"文化"の土台が薄い現代では、虚しさもつきまとうことになると思いました。
どこかの文化的な装置を借りるより、身体自体や場の力自体からその厳粛さが引き出されることが、現代における真正な儀礼性を立ち上げることになるんじゃないか?と予感するのでした。

また、祝祭は、その楽しさと、あらゆる生命へのストレートな歓迎を象徴する時であるからこそ現れ得る 特定の神聖な瞬間 を持っていると思っていて、その朗らかな神聖さが現れ出る一瞬は、一瞬でありつつも、いつまでも色褪せないものであるんだとおもいました。

現代の結婚式は、上記であげたような祝祭性の本質のような瞬間が現れ出ることが成り立てば、(むかしむかしよりその重大さは減ったとしても)ひとまず、共同体においてその式が執り行われることの意味が成り立つのかな、と思うのでした。

最後までお読みいただきありがとうございます。もし何か響くものがあったり応援したいと思っていただけたらサポートいただけると嬉しいです!