死は救済か?自他の曲を紐解きながら、考えます。

※この記事はあくまで私の主観的な現時点での考えを綴るだけであり、人によって様々な価値観や死生観があって然るべきなので、特定の考えを否定する意図はありません。

regulusです。

僕は人に比べて非常に多感な人間で、感情の可動範囲が異常に広いような自覚があります。

また同時に、考えなくてもいいと言われるようなことでも、自分なりの答えを見つけられるまで深く深く考え込んでしまうような人間です。

季節の変わり目に、外出した際に吹いた風が今までのそれと違う温度で身体に当たる時、かつての景色がその温度と共に蘇り、涙が溢れる。

桜が咲く時、蝉が鳴く時、吐いた息が白くなる時、雪が頬に溶ける時、失った大切な時間を取り戻せないと気付き、涙が溢れる。

そういう人間です。

誰かが突然目の前からいなくなってしまった時、失った大切な存在を取り戻せないと気付き、「なぜ」とか「もし」とか、考えざるを得なくなります。

昨今、自ら死を選ぶという判断をした方が話題に上がることも少なくありません。背景はどうあれ、他殺でなければ最期に判断をしたのは本人です。

死は救済でしょうか?

キーワードは「我が儘」という言葉だと考えています。

結論から言うと、自ら死を選ぶということは、全ての手段の優先順位の一番下に、しかし、優先順位最下位には用意されておくべき手段だと、そう思います。

どのような状況であろうと、命を捨てることはすべきではないと、あるいは死んだら全て終わりだという考えを多くの方がお持ちでしょうし、実際に多く耳にしてきました。

しかし「終わらせたい」という考えに対してその意見は無力で、本来「終わらせたい」に行き着く前段階で止められる手段がなかったのかについて、周りは後悔すべきです。

もう既に「終わらせたい」に行き着いた人間に対して、「終わらせてはならない」を強要するのは、周りの我が儘です。

悲しむ人がいる、生きていれば良いこともある、本当に生きたかった人が生きられなかった今日を生きられている。それらも「終わらせたい」に対して同様に無力で、周りの我が儘です。

それらは周りから見て、その人に傍に居続けて欲しいから繋ぎ止めようとする文句でしかなく、場合によっては逆効果を生む可能性もあります。

逆に「終わらせたい」という考えも、本人の我が儘です。

自分が死を選ぶことによって悲しませる人がいること、何かしらの責任を現世に遺して身勝手に旅立つこと、旅立つ手段自体が人に迷惑をかけること。もしそれらを棚に上げて死を選ぶなら、「終わらせたい」という最後の希望を優先した、我が儘です。

本人と周りの我が儘のどちらが優先されるべきかなど、神でもなければ分かりませんし、この世にそれを判断できる神などいません。

しかし、余程特殊な人でなければ意味もなく死に憧れを抱く訳もなく、本人を追い込んだ原因があるはずです。その原因を取り除くことが到底できそうになかったと分かっても尚、最後の判断を尊重することができないのは悲しいことだと感じます。

「我が儘」という日本語は聞こえが悪いかもしれませんが、誰しも自分が主人公であるのは当たり前のことで、物事に主観的なフィルターを掛け、自らの希望に従った行動を取ることは咎められるはずもありません。

つまり、自ら死を選ぶという我が儘も、傍に居て欲しいと願う我が儘も、どちらも咎められるようなことではないということです。

しかしその一方で、まだ本人が行動を起こしていない段階であれば、周りの人間が最終手段よりも優先順位の高い位置にある手段のひとつとして、本人を追い込む原因を取り除ける可能性が残っているなら、それは明確に行うべきことだと断言できます。

本人が自ら死を選ぶ最期の瞬間まで周りが思い直させようとした上で、その制止を振り払って行動に移ったのならば、その判断を尊重すべきですが、本人を追い込む原因を取り除ける望みがあったのにも関わらずそれを周りが怠ったのであれば、それは明らかに咎められるべきことです。

なので、死にたい人は死んでもいいと、安易に言っているわけではないということは、強調しておかなければなりません。

最初に述べたように、他のあらゆる手段を尽くしても救われないなら、自ら死を選ぶことは一番最後に残された選択肢として用意されておくべきだというのが、個人的な考えです。

苦しみから解き放たれるという意味では、最も残念な方法として、死は救済だと言えるでしょう。


次に、僕の大好きなアーティストの曲を二つ、僕の曲を一つ取り上げて話をさせてください。

まず、KOKIAさんの「大事なものは目蓋の裏」という曲です。

※紹介のため動画を貼りますが、可能なら正規に配信されている方法で聴いてください。

この曲を初めて聴いた時は、自ら死を選ぶ人に対して死んではダメだと歌っているものだとばかり思っていました。

しかしそう思い込もうとするものの、この曲を聴く度に、一番最後の二行に引っ掛かりを覚えました。

ごめんなんて 謝る私を許して…
幸せに堕ちてゆく

ダメだと言っている側の人間が、「幸せに」堕ちてゆくなどと言えるでしょうか?

つまり、この曲で表現されているのは片側だけの視点ではなく、自ら死を選ぼうとする人と、それを引き留めようとする人の両方で視点の切り替えが行われているのではないかと考えられるのです。

サビは概ね引き留めようとしている側であることは分かるのですが、例えば冒頭部分はどちらか分かりません。

あなたの前に何が見える?
色とりどりの魅力溢れる世界?
大事なものは目蓋の裏
こうして閉じれば見えてくる

死のうとしている人に対して「死後の世界が魅力的に見えるのか?大事なものは目に映る景色ではなく、自分の中にこそある」と言っているようにも受け取れるし、死のうとしている人から「まだあなたにはこの世が魅力的に見えるのか?もはや大事なものは目に映る景色には見当たらない」と言っているようにも受け取れます。

いずれにしても、以下のように必死に引き留められていたにも関わらず、最終的に許して欲しいと言い残し、堕ちてゆく訳です。

黙ってはだめ 黙ってはだめよ
夢のつづきはその目で見ればいい
逝ってはダメよ 逝ってはダメよ
楽園なんてどこにもないわ

そもそも、歌詞全体を通して妥当に判断するのであれば、時系列的にこれから死のうとしているのではなく、既に行動を起こした結果即死できず生死を彷徨う人のもとで、まだ諦めなければ助かるはずだと声をかけている状況だと考えられるでしょう。

更に背景として、現世への執着は少なからずあったということも読み取れる箇所があります。

点滅してる光の中でも
あなただけは消えなかった
大事なものは目蓋の裏
そうして大事に覚えてる
迷子の私は出口を探して
我ム者ラに茨を歩く
流れるこの血は溢れた感情
どうしてこんなに焦っているの?

しかしそのような現世への執着や葛藤を経ても尚、「終わらせたい」という我が儘が最終的には優先されたということになるのでしょう。

謝る私を許して、という感情はやはり死を選ぶということ、生を諦めるということに対して罪悪感を持ち、自分の我が儘を優先することを許して欲しいというニュアンスでの発言だと考えざるを得ないような気がします。

所謂、メリーバッドエンドと呼ばれる、本人は幸せなつもりでも客観的な事実としては不幸な結末を迎えている様子を描いている曲で、どこにも絶対的な正解はないという想いが伝わってきます。


次に、宇多田ヒカルさんの「真夏の通り雨」という曲です。

初めてこの動画を見た時、このMVによってとてつもない量の涙を流させられました。曲単体で聴くのと、また違った感情を動かされます。

同じく宇多田ヒカルさんの「桜流し」という曲もそうですが、これらの曲は既に先立たれてしまい、後に遺された人の目線での曲だと考えられます。

歌詞全体を通して大事でない部分がないのですが、この記事で話していることと強く関連していると思える部分が、この一言です。

自由になる自由がある

可能性として、遺された側もいつまでも故人に囚われずに自由になることもできる、と言っているかもしれませんが、十中八九そうではないと思います。直前に、月日が巡っても変わらない気持ちを伝えたいと言っていますので。

では、自ら死を選ぶことが「自由になる」ことだとするならば、束縛している何かから解放されることで「自由になる」ということです。そしてそのような行動をとる権利があるということです。

その直後に以下のように表されている通り、自由になる自由があると理解している傍らで、簡単に受け入れることもできなければ別れを告げることも容易ではないということなのでしょう。容易ではないと言うか、不可能です。

立ち尽くす 見送りびとの影

突如勢いよく降り注ぐ真夏の通り雨が、通り雨なのにずっと止まないまま。

愛してます 尚も深く
降り止まぬ 真夏の通り雨

(そうではないですが)まるで批判的に僕が「我が儘」という言葉を使うのも、遺された人に止まない通り雨を降らせ続けることなどを踏まえても、「終わらせたい」という希望を優先するなら、身勝手だということです。

しかし同時に「自由になる自由がある」訳ですから、その自由を奪うことも同じように我が儘だし、身勝手です。

そもそも、悪を決めるのであれば、それは自由になりたいと感じさせてしまうような束縛している何かであって、それを度外視した議論を展開したところで、生まれるのは遣る瀬無い気持ちと、答えの出ない問いだけです。

あくまでも理想的なのは、自由になろうとしなければ自由ではないような状況自体にならないことですが、そのような極論を言ったって本人に非があるわけでもないのなら無意味だし、どうしたって運もあると思います。

運悪く、解放される必要がある状況に陥ってしまった人を救う最後の手段は「自由になる」(=自ら死を選ぶ)ことであると認めなければならないと思うからこそ、冒頭で述べたような結論を出しました。また、安楽死も選択できるべきではないかと考えます。


僕が2014年に発表した「Euthanasia」という曲の話をします。

タイトルの単語は、「安楽死」という意味です。

この曲は、生きて欲しいと声をかける人間は常に光の当たる場所にいて、結局のところ本当に死を望む人の立場に立ってその気持ちを知ることはできないのではないか、というような内容です。

何故命は生まれ終末を迎えるの
何故苦しみながら生きねばならないの
その光が欲しい誰もが手にしている
何故等しく照らしてはくれないの
描いた夢はもう忘れてしまったの
見えない明日をただ待つことしか出来ず
笑っていたい ただそれだけのことなのに
生きてだなんてもう要らない
誰も私のこの痛みも知らないで
生きてなんて言うの もう耐えられないの
せめて自分のことだけは決めさせてよ
何故命を失くしてはいけないの

しかし忘れないで貰いたいのが、「その光が欲しい」と、「笑っていたい」と明確に表していることです。「大事なものは目蓋の裏」でも話しましたが、現世への執着を本当は見せている反面、光が強く射す場所から差し伸べられる声はあまりに眩しく、引き留めようとするその光を避けるかのごとく、せめて自分のことだけは決めたいと願うのです。

「何故命を失くしてはいけないの」という問いに答えられる人って、いるのでしょうか。それらしい綺麗事を言うことしか叶わず、「私の命をどうするかは、私が決める」という意思を引っくり返すような解答を僕は考えることができません。

「貴方だけの命ではないから」と言うのが一番しっくり来るような感じもしますが、やはり冷静に考えれば、その人の命はその人だけのものです。だってそれって、「あなたが必要だから」と言っている訳で、それこそ本人の自由を束縛する柵(しがらみ)に他なりません。

逆に、他の誰のものでもない命を勝手に奪うことが、どれほど罪の重いことなのかというのがよく分かります。直接的であれ、間接的であれです。

安楽死というのは、「自由になる自由がある」ことを認める際に、苦痛なく行えるようにする為に必要だと思います。推奨しているわけではありません。選択肢として用意すべきだということで、それがないとただでさえ苦痛から逃れようとしているのに、その最後の手段すら苦痛でなければならないのですから。

ただし何度も言うように、自ら死を選ぶという解決方法は、あらゆる手段の中で最悪なものであり、そうなる前の可能な限りの努力を怠るべきではないという前提のもとでの考えです。

以前の"WORSHIP"の記事で語ったように、もうどうにもならないと感じた時でも、心が壊れそうに、ボロボロになった時でも、その心に拠り所はあるのだということを僕は伝えたいのです。

「終わらせたい」という考えに行き着く前に、その心の拠り所を本人が見つけることさえできれば、最悪な解決方法によって救済される必要などないのですから、余計に悲しむ人間を生むこともないでしょう。


長くなってしまいましたが、このような文章を書いたのは僕自身の中で感情が渦巻くような出来事があったこと、作品を作っていく中で今までもこれからもこのような価値観を持って臨んでいることを知ってもらいたかったことなどが理由にあります。

なかなか取り上げづらい話題ですが、そのような考えを持つ人間もいるのだな、程度に思ってもらえればいいかなと思います。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

2020.07.20 regulus

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