自己一致

どうも。関西住み教育学生 たい です。
だいぶ前にノリで作ったアカウントを、久々に思い出して動かしてみます。

もともと単独で動かす予定で作ったアカウントでしたが、最近みんなで交換日記したいみたいな話もちょいちょい聞いてて、僕自身部活で同じように共同アカウントで日記ブログみたいなのしてたんで、参加者募って動かしたいですね。
参加者増えるの期待してます。

一般公開はするけど、基本的には仲間内で読み会えるものにして行ければと思ってます。なんで、みんなペンネーム作って名乗ってから執筆してね。内容は教育でも今日あった事でもなんでもおけ。部活のやつは指名制で回してるけど、回し方は人増えたら考えよ。



アカウント説明はこんなもんで、本題です。
私、語りたい人間なのに最近拍車をかけて議論おじさんもとい議論お兄さんなのでご注意ください。

最近、教育相談に関する授業を受けました。
その中で心にぶっ刺さったのが、「自己一致」。
いきなりキーワード登場ですいません笑

自己一致とは、自分がありのままでいることって言ったら陳腐かもですが、そんな感じのことです。

教育相談、というか傾聴をする際は、アメリカのロジャーズさん曰く、
1.共感的理解
2.無条件の肯定的関心
3.自己一致
が必要みたいです。相手を受け入れて、共感して相手の気持ちにたって考える姿勢見せると相手も安心できるし、聞く側も理解深まる。うんうん。

んで、そこに至るに必要になるのが自己一致ってやつみたいです。
ご飯何食べたい?って聞かれて、これ食べたい!って言えるのは自己一致。寿司食べたいけど家貧乏なの気にしてサイゼ!って言うのは自己不一致。
どっちがいい悪いでもないですけどね笑
傾聴でほんとに共感しようと思っても、共感しなきゃ!で共感した気になるだけじゃ多分理解は深まりませんよね。心の底からうんうんって思えないといけないわけですよ。ほんとその通り。

で、この自己一致ってものを聞いた時に、めっちゃ大事な概念だなって思ったんです。だって議論というか、会話する時にこれがないと全然話って深まらないじゃないですか。今回するのはそんなお話。


部活で最近ちょっとした役職についちゃって、仕事してると部活、特に同学年の様子って何となく見えてくるんですけど、めっちゃ問題だと思うのが議論の薄さです。
これは、議論大好き先輩にもよく言われてて、この先輩、良くも悪くも思想が強いというか考えがしっかりしてるので、幹部なるまではそういう面もあるかもなってくらいにしか考えてませんでした。

けど、実際幹部として動いてみると、みんな割と思い込みで動いてるんですよね。これはこういうもんとか、これがあるのは個人的に気に食わんから変えたいとか。けど、個人として、あるいは小集団としてしか考えてないから全然周り見えてないんですよ。
実際僕自身そうでした。もう2年やってる(今3回生です)のに、あいつしっかりしてると思ってたやつが口がたつだけだったり、しっかりした意見持ってると思ってたやつが単に頑固なだけだったり。
そんな奴らで回してるから、やってること全部上辺だけでまわってる感じがして、問題が起きたらみんな人のせいにしてる感じがして。

お前らどこからもの言ってんの?なんでメタ視点にいるの?

って言ってやりたいことが多すぎて。
ほんでそんなこと思ってる自分自身がメタなとこにいて。やっぱ集団を動かすのって大変だなって思うこの頃です。


教育の方に戻りますが、これって模擬授業でも結構ありがちな話な気がします。子どもの実際を知らない大学生、特に観察実習とかがなかった我々コロナ禍の大学生は特に思い込みでものを進めがちなんかも。
模擬授業もほとんどは自分一人で議論もなくやってて、フィードバックも大して受けれてないので思考が個人を超えることができてない。めっちゃうわべ。

そんなんが嫌でボランティアとかめっちゃ手を出して経験積んで、授業も対面になって、やっと最近ちょっと深い議論出来るようになってきたかなって思います。先日やった授業とかは、気心の知れたやつらと合計10時間くらい行ったんちゃうかな?ってくらいに話し合って、喧嘩して、やっと納得いくもの作れました。

大学生の授業ってやっぱ単位のためにやってるとすごいうわべなものになりやすくて、いくら指導要領見ても、それに沿ってても、目標腑に落ちてないといいものって出来ないみたいです。
この、目標が腑に落ちる、この感覚が、授業づくりにおいて必要な自己一致なのかなって思います。これって文章で読んでも話聞いてもしっくり来るもんじゃなくて、経験でしか本当に実感できんものだなって思うから、合理主義の人も多い部活でどうやって実現しようかなって考えたり、子どもには是非これは伝えないとなって思ったりする今日この頃です。


で、自己一致マスターしました的なこと書いてきましたが、言いたいのはここからで、自分って自己一致してないなって話を聞いて欲しいんです。

振り返れば「やりたい」より「やらなきゃ」で生きてたことが多い人生を歩んでいる気がします。前に出るのは嫌だけど、怒られるのはもっと嫌。だからみんなが嫌な「人の前に出る仕事」を進んでするようになって、内申のためと思って価値付けてどんどんやるようになっていました。けど、就活のための自己分析で分かるのは保守的で伝統継承主義な自分で、今まで感じてたけど見て見ぬはフリしてた「変化が嫌いな自分」を突きつけられました。人の前に立つ人間は今の時代変化を求められるわけで、それをやってたつもりが自分はそれ向きの人間になれてなかった。変わったつもりが変われてないんだなって激萎えしました。


僕がおはスタで一日をスタートするっていうのは仲間内では有名な話で、でもそれは昔からの習慣って訳じゃないんですよね。
きっかけはコロナ初期の自粛期間に見たやまちゃん卒業スペシャルの映像。10年以上朝一で子どもに向けて情報を発信してきたやまちゃんが、最後に子どもに向けて語った言葉。それは、

「思いやりのある人になってください。」

思わず涙が出ました。声上げて泣いたの久々でした。

昔、自分は優しい人になりたいと思っていました。けど、それがなぜかだんだん「真面目な人」に変化していって、気付けばルールにがんじがらめになってしまっていた。それに気付いたのは中3のこと。めっちゃ病んだ。

高校ではそれを脱しようと意気込んで学校生活を開始。けど、結局染み付いたものは拭いきれなくて、高二のころには大きな失敗をして自分も他人も傷つけました。でもその時に「真面目」に戻ってることに気付けなくて、「やさしさ」が自分の中で自分の望まない方向に行ってるのに気付けなくて、時間が経っていきました。

やまちゃんの言葉には、そこに再度戻らせて貰いました。「やさしさ」って「思いやり」だよな。やらなくちゃいけない「義務」じゃなくて、やらなくていいのにやること、やらなくてもどうにかなるけど、やることで相手がちょっとでも精神的に楽になる、そういうのが「思いやり」だよなって思って。
純粋な感動、今の自分との乖離、後悔、なんかいろいろ混ざって出てきた涙なんかなって思います。

でも、それから2年経った今を考えると、また義務感人間になってます。やりたいじゃなくてやらなきゃで動いてる。自己分析が心に来たのも、こうして何回もやりたい、なりたいに立ち戻ってるのに、「やらなきゃいけないことをやりたいことだと置き換えて無理して、それに自分で気付けないことがある」っていうのをズバリ言い当てられたことにあるんだと思います。

生涯の進路として大きな岐路に立たされている今、自己一致ってほんとに大事にしないといけないことだなって思います。先日話を聞いたシリアの活動家も、お世話になってるボランティアの代表の方々も、たくさんの時間をかけて「やりたい」に向き合っていました。一方で恐らく「義務」で選んだ役職に時間と精神を削られて自分の「やりたい」と向き合えずにいる自分。なんかすごいもやもやする。

べつに解決出来たから書いてるブログじゃないんで話はここまでですが、こんなこと考えてるからこそ、みんなの思ってること聞きたかったりするんですよね。日頃ゆっくり語り合えるのって、課題に切羽詰まって現実逃避にモラトリアムしてる時だけなんで笑

てことで、初回でぶっ飛ばしちゃってすいませんでした。400字とかでも全然いいので、たくさん更新して行けるといいなと思います。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました!

たい

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