津野さんが亡くなってしまった

津野さんが亡くなってしまった。

津野さんが作る音楽は、とにかくすごかった。カッコいいし、かわいいし、激しいし、壮快だし、変だし、共感できるし、泣けるし、笑えるし、おもしろいし、落ち着くし、興奮するし、いつも創意工夫に満ち溢れていたし、いつも「なんじゃこりゃ」って思ったし、こんな音楽は他になかった。J-POPを変える人だと思ってた。パフォーマンスもすごかったし、言動とか人柄もすごい人だった。

ファン活動をしながら、そんな津野さんの音楽に対して自分ができることは何だろうと思っていた時に、津野さんが体調を崩して赤い公園が活動休止になった。その時に、またいつ何が起こるか分からないから、と思っていくつか自分の中で決めごとをした。ひとつは、赤い公園のことを追いかけ続けようということ。もうひとつは、津野さんの曲をもっとちゃんと聴いて自分の感じたことを書こうということ。それからもうひとつは、少しでも多くの人に津野さんの音楽の良さを知ってもらうために、発信しようということ。

それからはいろんなことがありました。楽しいこともあったし、正直イヤなこともたくさんあった(いやお前の追いかけすぎが原因なんだよ、とも思います)。行ったことがないようなところにも行けたし、普通に音楽を聴いてるだけじゃ会えないような人たちにも出会えたし、誰もしたことがないような貴重な体験もたくさんした。たくさんの思い出があって、そこにいつも津野さんの作った音楽がありました。

そもそも、こんなに「知りたい欲」が出たきっかけは、赤い公園の黒盤と白盤にあった謎のインタールードでした。最初はあれが何なのかを知りたかった。それで当時の雑誌やメディアを全部調べたけど、あれが何なのかはどこにも書かれていなかった。じゃあ津野さんに聞くしかないじゃんってことで、いろんなところに出没しては津野さんに話しかけまくって、津野さんと仲良くなって、こんな言い方は失礼かもしれないけど、ファンとアーティストというより昔からの友達同士のようにいつも気さくに接してくれた。ここでは書けないような話もたくさん教えてくれた。今でも半分はファンだけど半分は友達みたいな気持ちです。(だから「猛烈リトミック」が出た時はインタールードの謎が解決されてすごく感動した。)

その「知りたい欲」がきっかけで、赤い公園みたいな素晴らしい音楽が世の中にたくさんあるのに、それを解説する人とか、なんでこんな作品が生まれたのか聞く人とか場所が全然足りないなと思って、自分がそれになることにした。でも、プロになることとファンでいることの線引きっていうのは結構難しくって、ファンではいつつもちゃんとプロになるために、ファンのTwitterアカウントは消すことにしました。いつかゆうパラで「いつか赤い公園にインタビューしたいです」って送ったメールが読まれたけど、ついに津野さんにプロとしてインタビューすることは叶わなくなってしまったな。

今はすごく複雑な気持ちです。悲しいとか、寂しいとか、なんでとか、バカヤローとか、そういう気持ちもあるけど、やっぱり一番はありがとうかな。いつだったか「『木』っていう曲が好きすぎるから、俺が死んだら葬式で『木』を演奏してよ」って冗談を言ったら、笑いながら「私いろんな人から葬式で演奏してって頼まれてるから一番長生きする」って言ってたのに、それも叶わなくなってしまいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?