赤い公園・津野米咲さんと僕⑰

32
その後もいろんな人から連絡が来たし、「あの人にだけは話をしなきゃ」と何とか奮起して自分でも連絡を取ることもあった。でも、なぜつのさんが亡くなったのかは誰も知らなかったし、そのたびに心がグラグラして、連絡したことを後悔した。久しぶりに話した、いつも現場でバカバカ言ってきた人は「あいつは本物のロックスターになったんだよ!ジミヘンとかカート・コバーンみたいに!」と言っていた。言われっぱなしだったから言い返してやる。バーカ。たしかにどっちも若くして死んだけど、それは音楽的に成功してからだろ。赤い公園はまだまだ成功してないんだよ。バーカ。他にも、仲のいいファン友達ですら発するいろんな声がうるさく聴こえてきて、繋がっていた他のSNSも辞めた。

何もやる気はおきなかったが、とりあえず、この自分の頭の中のグルグルを整理しなければ前に進めないと思った。そのためにも、ファンでもあり、友達でもあったあの津野米咲という人の人生を一度全部振り返ろう、あの人がどういうふうに生きてきたのか見直そうと思って、自分でメモを作り始めた。全く出なかったやる気が少しだけ出てきた。

まず作品のリリース日、次にツアーやライブのあった日を、最初はWikipediaで確認した。でも、リリース日はともかく、赤い公園のライブなんて誰も全部は記録していなかった。全部自分でやるしかないと思った。それから段ボールに大量に溜まってる雑誌のインタビューや連載の全てに目を通した。メモはだんだんと膨大な量になってきて、あの全曲考察をやってたnoteに書き留めることにした。つのさんの人生にこんなやつの感情は要らないと思い、機械のように事実だけをひたすら並べた。まだ途中段階ではあったが、生まれた時から最近まで、そこそこの津野年表が出来上がってきたので、それをネットに公開した。きっと誰かの役に立つ。誰の役にも立たなくても、少なくとも自分の役には立つ。つのさんの人生がネットに残る。自分みたいに何でもネットで調べるやつが、いつかここに辿り着くかもしれない。そう思って無我夢中で作業した。つのさんの全ツイートをさかのぼっているうちに、だんだんしんどくなってきて中断しているが、一応今でも更新中だ。

やがて、それまで赤い公園の歌詞を考察する人なんてほとんどいなかったのに、そういう人が何人か出て来るようになった。そのほとんどは、つのさんが亡くなったことをきっかけに赤い公園を聴き始めた人たちだった。良さに気付くのが遅すぎるよ、とも一瞬思ったが、何かを好きになるのに遅いなんてことはないし、何がきっかけであれ多くの人に赤い公園の音楽が広まるのはいいことだと思った。

だけど、つのさんから何度も直接話を聞いてきた自分からすると、それらの考察の一部は、家族関係のこと(特にお父さんとのこと)や、影響を受けたアーティスト、地元・立川という土地の地名や建物・歴史のこと、ひいてはジャケやアーティスト写真に使われている色とか、オカルトめいたみたいなことまで何でもかんでも楽曲に関連付けていて、少なくとも自分が知っている事実とはあまりにかけ離れた妄想ばっかりだった。たしかにつのさんは(どこまで意図していたのかしていないのかは分からないが)いろんなところにいろんな仕掛けを施した人で、それらを勝手に想像しながら読み解いていくのは楽しかったが、仕掛け以上にいろんな偶然が重なり合っているのも知っていたし、感情のまま作って出来上がったものもあっただろう。オマージュや引用も絶対ないとは言い切れないが、お父さんや影響を受けたアーティストの曲や歌詞を分かりやすく引用するなんてことはまず考えられない。「黄色い花」が出た当初、星野源っぽいというツイートが多くて悔しそうな顔をしていたのを見たこともある。誰かっぽい曲なんて作るはずがない。それに、亡くなった人だからってセンシティブな話題にばかり歌詞と無理やり結び付けたり、事実と妄想をごっちゃにしたり、自分の考えにそぐうように事実を捻じ曲げたりしている人もいて、それらはどう見てもやりすぎだった。捉え方が自由な楽曲についてはまだともかく、バンド名の由来についても事実とは異なる推測をしているやつもいた(そういうやつは、自分の名前を他人にあれこれこじつけられてもいいのだろうか?全部下ネタに結び付けてやろうか)。しかもそういうブログやツイートを読むと、本人たちの発言元ではなく自分の作った年表や考察が参考にされたりしていて、そんな言葉ばかりが後世に残ると思うと、つのさんに対してものすごく申し訳ない気持ちになった。誰かの役に立てば、とは思ったが、そんなことのためにあれを作ったんじゃない。以前適当なウソばかりついていたからブロックしたやつが、そういう新たな考察ブログに対して「自分がハマった理由を記録してくれている」みたいなことを白々しく言っているところまで目にした。世も末だと思った。

……でも、誰が何を参考にして何を考え、何を書き記したって自由なわけだし、ネットに間違ってる情報なんていくらでもあるし、そもそも考察なんてことを始めたのは自分が最初じゃないか。自分の書いたnoteを読み返したら同じようなこじつけの妄想ばかりだし、オマージュについて言及しているものもあった。結局は自分もあいつらと同じだ。考察がなけりゃ「誰もやってない」、誰かがやり始めりゃ「分かってない」。そんなの、また自分のエゴじゃないか。

きっとつのさんが生きてたら、タバコをふかしながら大爆笑して「いいよいいよ!私の音楽なんて好きに聴けばいいんだよ。それよりさ~」なんて言うだろうと思ったが、つのさんみたいな人より自分の方がいなくなってしまえばよかったのにと思った。


33
2020年11月25日、シングル「オレンジ/pray」がリリースされ、「オレンジ」と「pray」それぞれのMVが公開された。赤い公園の曲を久しぶりに聴いた。「オレンジ」も「pray」もカップリングの「衛星」もすごく良い曲で、「THE PARK」がなぜああいう変化を遂げたのか、少しだけ理解できた気がした。でも、聴くのがきつくて何度も繰り返しは聴けなかったし、MVは結局1回しか通して観られなかった。

鹿野さんが「ゆうパラ」を引き継ぐというので「オレンジ」をリクエストしたら、番組で真っ先にそのコメントが紹介された。

「以前鹿野さんは、ある音楽番組(2013年3月22日放送「エトワール音楽院」)に出演された際に、あるバンドのことを『世界一のガールズバンド』だと紹介してくださいましたね。その『世界一のガールズバンド』の最新曲がちょうど今日リリースされましたので、是非番組でかけていただければありがたいです。よろしくお願いします」

NHKなので他局の番組名が読まれないことは分かっていたが、あえて記しておいた。7年前の番組に鹿野さんが出演していたこと、ましてやメンバー以外の発言なんて、誰も、下手すりゃ本人でも言われなきゃ覚えていないだろうから。こういう時だけは、すべての番組を録画して実況していた過去の自分に助けられた。

ジャケットの古塔つみさんの絵が素晴らしかったので、同じ景色が撮れる場所に行った。まだ聖地巡礼のくせが残っていた。直後に行ったニコニコドライブインやリバーストーンは休みで誰もいなかった。フェリーは寒かった。CDと一緒に届いたデカジャケは業者に頼んで額装した。遺影みたいに黒の額をお願いしたが、店員は「この絵ならこういう額はどうでしょう」と頼んでいない黒以外の額も持ってきた。オレンジ色だった。

また歌詞がどうこう言う人が増えた。自分にできることは、仕事で、このシングルに対してきちんとした原稿を書いて紹介することだ。それがより多くの人に赤い公園の音楽を聴いてもらえるきっかけになるし、つのさんに贈る最後の言葉にもなる。そう思って、何度も何度も推敲しながら書いたが、自分も歌詞をどうこう言ってる人と大差ないような気がして、結局うまく書けなかった。あの追悼コラムとだって何が違うんだよ。原稿は今でもずっと読まれ続けている。

出演予定だった「COUNTDOWN JAPAN 20/21」は中止になった。当初は、ここから再出発をするかもしれないなんて淡い期待もあったが、それも無くなった。

2021年1月。当たり前だが去年つのさんが言ってた通り、今年は結成記念日に「もぎもぎ」がなかった。毎年立川で新年祝いと結成〇周年祝いをするのが恒例になっていたが、ライブがなければ友達にもスタッフにもメンバーにも会うことはない。別に友達には会おうと思えば会えるが、やはり赤い公園がいなければ会えないのだ。ファンクラブは全く更新されなかったし、こんな考えを持ってるやつはファンでも何でもないと思い、せめて1月の自分の誕生日に来るであろうコメントを見たら退会しようと決めていた。届いた映像で理子さんが「素敵な一年をお過ごしください」と言っていたが、すでに開始からして素敵な一年になるとは思えなかった。つのさんを含め、4人とも笑顔で手を振っていた。

何度か友達から連絡も来たが、適当に切り上げた。
無だった。


34
3月1日。5月28日の中野サンプラザでのワンマンライブ「赤い公園 THE LAST LIVE 「THE PARK」」をもって赤い公園が解散するということが発表された。驚きはしなかった。「何としてでも活動を続けてほしかった」とか「話題だからって興味本位でチケットを申し込むのはやめて」みたいな自分勝手なツイートをまた見かけたが、それはちーちゃんの脱退、つのさんの訃報の時と全く同じ光景だった。ほとんどの人がみな自分勝手で、そういうやつこそ戦争やだね平和がいいねとか言ってんだ。〈ほんのわずかな気持ち それだけで大丈夫 優しい世界を交換こし続けよう〉という歌詞を100回読んで意味を理解しろ、と思った。自分が一番自分勝手で、一番優しくない世界にいた。

最後のライブは誰にも会いたくないし、当落に一喜一憂したくないから配信で観ようと決めていた。それにどうせまた関係者が優先で関係者席ばかりになるんだろう。せめて会場に花でも送ろうと思ったが、それも禁止されていた。


つのさんとビバラで共演したアイナ・ジ・エンドがインタビューで、「津野さんが亡くなった日に亀田さんとミックスをしていて涙が止まらなくなった」と話していた。

あるバンドにインタビューをしたら、新曲の中に「消えるな」「消さない」という歌詞が出てくるのは、赤い公園の「消えない」という曲があったから、と言っていた。「まいさちゃんが亡くなったのは去年の音楽界の一番の損失」とも言っていた。相手も自分が赤い公園を応援していることは知っていて、そういう話は自分が相手だからこそしてくれたんだろうと思って少しうれしくなったが、後でそこの部分はカットしてくれと言われた。

占い師に今月オススメの曲を聞きに行くという取材に行ったら、突然YUKIの「風来坊」をオススメされた。まさかつのさんが作曲していた曲を勧められると思わなかったのでビックリした。また久しぶりにつのさんが作った音楽を聴いた。良い曲だったが、やはり少し不思議な、変わったところがある曲だった。そういうところが良かった。

でも、つのさんどころか、赤い公園と仕事をするという夢ももはや叶わなくなっていた。「NOW ON AIR」に登場する主人公は〈夢も希望も遠い〉って言ってたけど、遠くても夢や希望があるだけまだマシだよな、と思った。〈追いかけて掴めなくても 笑えることもある〉っていう歌詞もあった。笑えるだけマシだよな、とも思った。まあ、こんな小さなやつの小さな夢なんてどうでもいいか。


つのさんが、とあるライブハウスにギターを預けていると言っていたのを思い出し、それを見せてもらいに行った。店長は「ああ、それならたしか、そこの黒いエレアコがそうですよ」と言ってピカピカのギターを指差したが、つのさんはお祖父さんから受け継いだギターだと言っていて、そんな最近のギターであるはずがなかった。その2本後ろにあった、6~70年代製と思われる弦も張ってないボロボロの古ぼけたアコギがそれかもしれないと思って、確証は持てなかったがそこに手を合わせた。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?