20240518

大学の先輩が仕事で東京に来たついでに私にご飯を奢ってくれるという。ありがたいなと思いながら30分前には新宿駅につき、ルミネでふらふらと時間を潰す。15分前に「ビルの前にいるね」とLINEがきて、先輩を待たせていることに気がついたから慌てて向かった。

年末に会った時に児玉真美さんの『安楽死が合法の国で起きていること』を薦められたから、それを読み終えたと話す。一番最後の「一度引かれた線は動く」という一文がこの本から得たものだったと伝えた。

最近のアンガーマネジメントについて話してくれた。
新幹線の隣の席で、おじさんが動画を見ながらご飯を食べていたことにすごく腹が立ったという。そのおじさんにキレるとすれば「雑な姿勢で食事をするなんてけしからん」という文言が浮かぶ。だけど実際のところは「自分もお腹が空いていた」「匂いが充満して注意が妨げられた」というのが本心なんだろうな。そんなことを考えていたらおじさんは食べ終わっていた。

ちょっと議論パートになる気配がした。

「自分が何かに抱いた感情を言語化するのは是だと世間一般で捉えられているし推奨されています。けれど、そこで言語化できるものって、自分の脳の言語野のレンジを超えられないというジレンマも同時にあるんじゃないでしょうか。」
「確かにね。その時に自分が『xxxという理由で苛立った』と言葉にしてしまったら、それだけが記憶に残ってしまう。そしてそれをTwitterとかの外部ストレージに保管して自分の脳のメモリからは削除するから、余計にその効果が高まる。」
「本当は自分がこれまでに経験してきた過去の積み重ねが一つのアルゴリズムを作っていて、それを介在させた結果として苛立っているはずなんです。言葉にしなければ理解ができない、言葉にしてしまうとその範疇で理解が止まってしまう。そういうジレンマってどうやって解消するんでしょうか」
「語彙を増やすしかないね」

叙々苑で肉を前にする会話ではないなと我に返ったので、ここで打ち切り。
あとはオッペンハイマーが理学人間アベンジャーズだった話を小一時間して退店。
奢ってもらったので、薦められた本をとりあえず二冊買った。
今回は『成瀬は天下を取りに行く』と『人新世の資本論』。

夜、大学の同期から飲みに誘われて東京駅に向かう。
5年ぶりくらいに会う友人が席にいて本当に嬉しい。彼は私のボケが適度に刺さるようでケラケラ笑ってくれるんだよな。

「MBTI診断ってどう思う?」と聞かれたので、「大っ嫌い」と答えた。
人間をグルーピングするな。私のことは私が一番わかっているんだから、誰かの作った診断で型にはめられてたまるもんか。
と、常々思っていたことをぶちまけた。
「それを言われたら勝てないよ。だけどさ」
と、反駁が始まった。
あれは、少なくとも自分の理解とか他者の理解よりも、自分と誰かの関係性を理解するのには役にたつという。あの人とはなんとなく合わない。なんとなく波長が合う。という、その程度で止まってしまう理解のサポートになる。関係性の把握に基盤ができる。だから、より適切な言葉を選ぶことができるかもしれないし、嫌いな人をロジカルに嫌いになれる。人間って社会性で生きてるんだから。

うんうん。言いたいことはわかったような気もするよ。そうか、差分に着目してるのか。あんまり考えたことなかったから、今日は一旦受け入れることにしよう。

あとは色々雑多な話を。
親とか兄妹よりも自分が作った関係性が一番愛おしいに決まっているけれど、親からしたら子供って自分が作ったものだから愛おしくなるのも仕方ないよな。みたいなことを話したけれど、久しぶりにビールをひたすら飲んだからもうあんまり覚えていない。また話そうと約束して、終電で帰った。
酔ったことを言い訳にして、Amazonで保留にしていた単焦点レンズを注文した。駅に停めていた自転車を引きずって帰る道はいつもよりも少し長かった。





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