丁寧な生活という欺瞞について
床に置いたままやると中で捻れたり縦横を間違えたりするので、私は中に潜り込み立ったまま布団にシーツの紐を結ぶ。外から見ればハロウィンのお化けのようだが、やっているこっちからすれば関係ないし、洗い立ての柔軟剤の匂いが心地よい。少し変だけど。
私は丁寧な生活が好きだ。とても好きだ。
これから長々説明するが、こんなに恥ずかしいカミングアウトはなかなかない。
だってそうだろう。
本当は俺だって金があればフラッと海外に行って本場のフォーだけ食べてパッと帰りたいし(もちろんビジネスクラスで)、できることならギターを弾いて新しい曲を歌ってみたい。そういうのを趣味っていうか、好きなこととしてやっていたい。
丁寧とかじゃねぇ派手な暮らしをしたい。
だけど俺って人間はそんなことできないので、自作味噌で作る味噌汁を一番美味しい〜みたいな顔して啜って、買ってきた200円のラナンキュラスをどう飾ろうかって花瓶をコロコロしてる時にクリエイターみたいな顔をしてる。
これを丁寧な生活って呼んで、「自分こういうのが一番好きなんすわ」 って自己表現してる。
ほんとはこんなの違うなって、もっと贅沢で派手な楽しみが欲しいし、ほんとは何者かになりたいなって思ってる。賞賛されて、世界に足跡を残したいって。
でも新しく何かを始めようとかは無理。最近ずっと眠いし無理。すぐ疲れるし。
てか、これまで生きてきて何もできてないし。
だからそういうのは無し。
俺の自由な休日は家事をして終わる。家事をやらないことには生活は行き詰まるし、毎日外食できるほどの稼ぎもないので自炊をする。それだけの2日間。なんの生産性も向上もない。
(あの頃夢に見た)大人の俺のクリエイティブという憧れは漫画や小説なんて書いてみることではなく、見たことない野菜を使って、食べたことのない料理を作ることを指すようになってしまった。
ぬか床の発酵具合とか、梅干しの漬かり具合、買ってきた花が徐々に萎れていく様を見て、変化と成長のない日々を誤魔化してる。
多分その内プランター菜園とか始める。
友達もあんまりいないから、不意にまとまった時間ができたら図書館に行ってる。
どうだろう。これが俺の言う丁寧な生活、多分世の中の丁寧な生活ってこういうのだろ?
情けなくは見えないか?
どうだ?
こういうのって丁寧じゃなくて、精一杯の贅沢って呼ぶんじゃないか?
と、ここまで色々言ってきたけど、俺はこういう人生に満足している。
そりゃあ、体力も能力も金も人望もあってさ、さっき言ったみたいにこの世にないものを生み出して、珍しい経験をできた方がずっといい。絶対いい。
でも、豆腐屋さんでおまけしてもらった厚揚げを魚焼きグリルで焼いたり(そんで塩で食べてみたり)、新しい洗剤を試したり、季節の花を2本ばかり瓶に挿したりすることも幸せだと感じる。
日々をどうにか豊かにしようって営みって絶対悪いもんじゃないし、こういうのってじんわり楽しい。
何より、この程度の幸せを普通に幸せだと感じられる自分が好き。
幸せって人と比べてどうとかじゃなくて、そう思ったもん勝ちじゃない?
大量の消費もなく、慎ましく一人の人間が生きるだけの負担で、人様に迷惑をかけずに贅沢もせずに幸せを感じられるって素敵じゃん。優しさじゃん。いいことじゃん。
丁寧に生きて、献血に行って、毎月募金して、自分を好きになるためのことを必死でやってる。優しくあるために頑張ってる。俺は優しい俺が好きだから。
だってそうじゃん。それしかできないし、誰にも褒められなくても、やるじゃん自分って自分を褒めていきたいじゃん。
なんか、「我思う故に我あり」みたいな、自分だけは疑いようもないんだよ みたいなのあるじゃん。
それなら疑いようのない自分が愛してくれればもうそれでいいじゃん。
丁寧な生活ってダサくて、しょーもないことだけど、俺の優しさが世界を変えたぜって干したての布団の中で眠れればそれでいいじゃん。
そんな日に歌う、メロディーよ。
メロディーよ!!