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20231224学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第23章-2 ブルジョア民族主義とのたたかい

20231224
『三つのインタナショナルの歴史』

[民族主義的労働組合運動]

第2インタナショナルの解体の原因となったのは、ブルジョア民族主義である。各国の党や組合の幹部は、労働者階級の利益よりも自分たちの民族主義的な偏見や政策を優先し、第一次世界大戦を防ぐことができず、そのため第2インタナショナルも崩壊したのだ。

ロシアは多民族国家であり、これはロシアの党と労働者階級にとって根本的に重要な問題であった。この問題を解決すべく、レーニンはプロレタリア政策を作り出した。これにはスターリンの密接な協力があった。
政策は二つの基本的なものからなる。
第一に、「ロシアの社会主義者は全て、本当の国際主義の精神に沿って、一つの社会民主主義政党に属すべき」ということ。
第二に、「党と各民族とは、被圧迫諸民族の自決権を、分離の権利まで含めて、かたく主張すべき」であること。
この二つがレーニンの示した基本的な政策であったが、第2インタナショナルの主だった党を支配している社会民主主義的日和見主義者は、こうした政策を受け入れようとはしなかった。それは彼らが、民族主義者、帝国主義者であったからである。また、多民族国家であるオーストリアでは、一部の中央主義者の幹部、ヴィクトル・アドラー、オットー・バウアー、カール・レンナーなどよって、被圧迫諸民族の「文化的=民族自治制」を求めるという日和見主義的な命題が作り出された。その結果、労働運動は分裂し、労働者の間には民族主義的偏見が広がることとなってしまった。

スターリンはこのことについて次のように述べている。
「1896年まで、オーストリアには単一の社会民主党があった。この年に、ロンドンの国際会議ではじめてチェコ人が個別的代表権を要求して、これを得た。1897年に、ウィーン党大会(ヴィンベルグの)で、単一の党は正式に解体し、それにかわって六つの民族別の『社会民主主義グループ』の連合体が設立された。ついで、これらの『グループ』は、独立の政党になった。これらの党はすこしずつ相互の関係を断っていた。党につづいて国会議員団も分裂し、——民族別の『クラブ』がつくられた。つぎにきたのが労働組合で、これまた民族別に細分された。事態は協同組合にさえおよんだ」

ロシアでは、日和見主義者のユダヤ人指導者ブンドが「文化的=民族自治制」によって、ロシアの全ユダヤ人に対する管轄権を主張したが、党は一貫して退けた。

コペンハーゲン大会は、労働組合の国際的な連携を強め、労働組合運動の統一に努めなければならないとしたが、これはほとんど受け入れられなかった。分裂を招いている真の病気は、各国のブルジョア民主主義であり、そしてプロレタリア国際主義の水準の低さであり、更に日和見主義幹部たちのやる気のなさにあり、害悪は更に大きくなった。

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