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20230612学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第12章-2 インタナショナル解散する

20230612
『三つのインタナショナルの歴史』

[マルクス主義者とラッサール派]

セクト主義との戦いの中の一つに、ラッサール主義との戦いもあった。プルードン主義やブランキ主義はアメリカでは既にごくわずかとなっており、バクーニン主義も問題にならないくらいになっていた。その反面、非常に数の多かったドイツ人移民労働者の中にはラッサール主義者が多く、これはインタナショナルのアメリカ支部内の重大問題であり、深刻な対立のもとになった。

インタナショナル第1支部、ニューヨーク・ドイツ人労働者総連合は、もともとはラッサール派が組織したもので、「賃金鉄則」に従い労働組合を無益であるとして反対した。ラッサール派は政府から補助金を受ける生産者協同組合を組織し労働者の解放を目指すものであり、労働組合に重きを置くマルクス主義者と激しく対立した。ゴンパース(AFLの会長となる人物)はマルクス主義者に賛成し、ラッサール派が労働組合を軽んじるのに反対した。
インタナショナルは、1874年の全国大会で労働者階級の政治活動を強く支持していたが、「インタナショナル・アメリカ連合は、かなりな力を発揮できるほど強くならないうちは、本当の政治闘争や選挙運動には入らない」と宣言した。その裏には、ラッサール派の日和見主義的な政治観があった。この、マルクス主義者とラッサール主義者の戦いは、絶えずインタナショナル全体を脅かし、いずれ崩壊させるものとなった。

[内部の危機と政治的発展]

1874年になると、インタナショナルは内部分裂が深刻なものとなっていった。総評議会に会費を納めているのはアメリカ、ドイツ、オーストリアだけになった。アメリカの会員数も次第に減り、支部はニューヨークとシカゴに分裂した。この分裂によって新しい組織が生まれた。
・「イリノイ労働党」シカゴ:1874年1月設立
・「北アメリカ社会民主主義労働者党」ニューヨーク:1874年5月設立
ただ、この二つの組織はラッサール派の影響下にあり、成果を上げることはできなかった。

1874年4月11日から、インタナショナル・アメリカ支部第2回大会がフィラデルフィアで開かれた。この大会では、連合評議会の職能を総評議会に委譲し、新たに総評議会を選出した。総評議会は事実上アメリカの委員会となった。
大会は、内部分裂の解決に向けて努力したが、大会後、内部の争いはますます激しくなった。1875年3月には『アルバイター・ツァイトゥング』は訴訟事件から発行禁止となり、加えて総評議会はインタナショナル内最大のニューヨーク第1支部に活動停止の処分を下した。これによりニューヨーク第5支部と第6支部が脱退。内部闘争を収めようと、ゾルゲは1874年8月12日、総評議会を1年間休止することとした。しかし、1875年7月の再開で内部闘争は再燃し、9月25日にはゾルゲが書記長を辞職、代わってカール・スパイヤーが書記となった。
 1875年にはインタナショナルの勢いは盛り返し、会員数も支部も増えた。にもかかわらず、インタナショナルの全般的な下り坂傾向は、食い止めることができなかった。1876年2月には、総評議会は解散を密かに決意していた。この時にはもう、インタナショナルは国際的な組織とはいえなくなっていた。インタナショナルから社会主義に移ろうという者が多くなっていたのだ。マルクス主義者は、イリノイ労働党や北アメリカ社会民主労働者党などで政治的指導権を再建しつつあった。そして1875年5月、ドイツのゴータ大会でマルクス派とラッサール派が合同すると、この流れは一層強くなった。

[第1インタナショナルの解散]

1876年7月15日、フィラデルフィアのジャーメニア・ホールにおいて、インタナショナル第7回大会が開かれた。この大会が、インタナショナル最後の大会となった。総評議会は代議員の出席に力を尽くしたが、外国から出席したのはドイツ社会民主党代表たったひとりだった。他の10名の出席者はアメリカ人だった。
大会では、インタナショナル解散の手続きが粛々と進められた。
・国際労働者協会総評議会は解散する
・北アメリカ支部連合評議会は現在の国際的なつながりを維持し発展させる権限を委ねられる
・連合評議会は条件が整ったときは国際大会を招集する権限を持つ

1876年7月16日から19日にかけて、インタナショナル北アメリカ連合も大会を開いた。17の支部と635名の会員を代表して出席した代議員は、13名であった。この大会は、数日後に開催する予定の社会主義者統一大会への代表者を選出した。そして、北アメリカ連合も解散した。

1876年7月19日から22日にかけて、フィラデルフィアの同じホールで、予定通りさまざまな社会主義の諸派が集まり大会を開いた。ここで、新しいマルクス主義団体である「アメリカ労働者党」が結成された。この主な土台は、解散したインタナショナルの勢力とラッサール派の勢力との組織的統一にあった。
さらに、マルクス主義政党の組織が固まり、「社会主義労働党」(1877年結成)、「社会党」(1901年結成)と名前を変えながら存在し続け、今日の共産党に至る。

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