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20230711学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第16章-1 右翼日和見主義者とのたたかい

20230711
『三つのインタナショナルの歴史』

【第16章 ブリュッセル・チューリヒ・ロンドン大会(1891-1896年)】

第2インタナショナルの第2回大会は1891年8月にブリュッセルで、第3回大会は1893年8月にチューリヒで、第4回大会は1896年7月にロンドンで、それぞれ開かれた。当時は、欧米で資本主義が急速に発展し、独占資本主義と帝国主義が支配的になろうとしていた。植民地政策や貿易など、諸大国の間では国際的な緊張が強くなり、階級闘争がますます増大した。それに伴い、第2インタナショナルも、また労働組合や協同組合や労働者政党も、急速に成長した。ドイツでは社会主義者取締法が制定されていたが、1890年1月25日に撤廃された。それまで様々な厳しい法律を犯して活動していたドイツの労働組合は、息を吹き返した。国際労働組織も活気を取り戻し、大きなストライキがいくつも起きた。
イギリスでは1893年に炭鉱労働者20万人が参加したストライキが起きた。アメリカでもその傾向は顕著だった。1892年のホームステッドでの炭鉱労働者のストライキ、同じく1892年ニューオーリンズのゼネラル・ストライキ、1893年の大炭鉱ストライキ、1894年のアメリカ鉄道労働組合の全国鉄道ストライキ、さらには西部の金属鉱山地帯ではいくつかストライキが起きていた。

[右翼日和見主義者の成長]

3つの大会の共通した特徴は、右翼的な傾向が絶えず増大していたことである。右翼的な問題で重要なものは2つあった。
ひとつは、国際メーデーの問題である。メーデーは、世界中の労働者にとって極めて重要なものであった。その重要なメーデーの日にちを、ドイツとイギリスの日和見主義者は5月1日とすることに反対し、5月の第一日曜日に変更しようというのだ。これは、労働者のデモンストレーションの闘争的性格をすっかり弱めてしまうことであった。ドイツの日和見主義者はついに、メーデーを祝う方法を各党に任せることとしてしまった。これに対し、フランスをはじめ他の代議員は激しく反対し戦った。

もうひとつの右翼的な問題は、無政府主義者との戦いであった。無政府主義者の問題はブリュッセルとチューリヒの大会の時には「争いの種」程度であったが、ロンドン大会ではついに彼らを締め出すことになった。マルクス主義者は、インタナショナルの加盟条件に「政治活動の承認」という項を入れる決議を採択したのだ。この決議によってアナルコ・サンディカリストの組合も除外できるはずであったが、大会は57対56で否決された。
第2インタナショナルは、無政府主義者や小ブルジョア極左分子に対しては垣根を高くしたが、右翼に対しては比較的門を広く開け放った。このことが、のちに重大な結果を及ぼすこととなる。1894年フランスにおいて、ブルジョア急進主義的国会議員30人が、第2インタナショナルに加盟することとなるのである。

[戦争の危険に反対するたたかい]

戦争の問題というのは、第1インタナショナルのころからほとんどの大会で取り上げられてきたことだった。そのころの戦争の危険性は主に民族戦争に対するもので、例えば1861年のアメリカ南北戦争にイギリスが巻き込まれたり、1866年のプロイセン=オーストリア戦争、1870年のフランス=プロイセン戦争などであった。第2インタナショナルの大会においては、これまでのような民族戦争ではなく、もっと重大な戦争の脅威、すなわち全ヨーロッパを巻き込むような帝国主義戦争が起こりうるという問題に直面しなければならなかった。
ヨーロッパの諸大国はますます帝国主義的となり、欲は深くなり、軍事同盟も作り始めていた。すでに1882年には、ドイツとオーストリアとイタリアが三国同盟を締結していた。1894年からはフランスとロシアとイギリスの三国協商をつくる動きが進み始め、1907年に締結された。このような状況のなか、ブリュッセル大会、チューリヒ大会、ロンドン大会では、戦争の危険性が大きくなっていることを重大な問題として取り上げた。ところがここでもまた、右翼日和見主義者は大会の方針に異を唱えたのである。

ヨーロッパ戦争の危険性についての決議は次のようなものであった。
ブリュッセル大会では、極めて革命的な言葉を使い、「労働者は戦争の脅威に反対して激しい抗議の声を起こさなければならない」「自分たちの国際組織を強めなければならない」と呼びかけた。
チューリヒ大会ではこれに加えて、「労働者は全般的な軍備縮小を目指して戦わなければならない」「議会に出ている代表は戦争公債に反対票を投じなければならない」と述べた。
ロンドン大会では、「常備軍の廃止」「人民の武装」「仲裁裁判所の設立」「戦争に関する国民投票」などを要求した。

これらの決議に対して、無政府主義者やアナルコ・サンディカリストは、「戦争の際にはゼネラル・ストライキを決行する」という決議案を持ち出した。自分の国で戦争が起きたら労働者は労働を放棄し、ゼネラル・ストライキを起こせば戦争は食い止められる、という考えなのだ。こうした彼らの考えは、第1インタナショナルのブリュッセル大会の採決に沿ったものだったが、そもそもマルクスはこれを空想的だと批判していた。ゼネラル・ストライキで戦争を食い止めることができるなど、明らかに誤りなのだ。
ゼネラル・ストライキを戦争反対の武器とすることは、三つの大会でいずれも大差で否決された。特にドイツの代表は激しく反対した。一般的に社会党の幹部たちは、戦争を利用してゼネラル・ストライキを行うことを、口を極めて非難した。そして、右翼日和見主義者も同じように、ゼネラル・ストライキを拒否したのだ。これ以降、ゼネラル・ストライキそのものを原則として拒否することは、右翼社会民主主義者の方針となった。しかし労働者階級は、この力強い武器を手放そうとはしなかった。1886年にはアメリカで8時間労働日ストライキが、1892年にはベルギーで労働者の選挙権を要求するストライキが起きた。さらにその後も、世界のいたるところでストライキは起きていったのだ。

[祖国防衛]

戦争反対の討議の中で、早くも「祖国防衛」の思想が形を取り始めていた。その考えというのは、「ロシアがフランスと同盟してドイツ攻撃に出た場合、ドイツは自らを防衛しなければならない」というものであった。エンゲルスはドイツ防衛を支持したが、ドイツの右翼社会民主主義者が参戦する理由は、ロシア解放の革命戦争として加わるのではなく、「ブルジョア・ドイツを排外主義的に防衛する」ためであった。


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