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20231210学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第23章-1 コペンハーゲン大会[戦争反対の決議]

20231210
『三つのインタナショナルの歴史』

第23章 コペンハーゲン大会(1910年)

1910年8月28日から、第2インタナショナル第8回大会が、コペンハーゲンで開催された。シュトゥットガルト大会から3年、この間に軍備は大幅に増強され、戦争の危機も迫っていた。戦争が起こったらどうするか、増大する軍国主義とどう戦ってゆくのか、そうした重要な問題がこの大会を占めた。
植民地主義・半植民地主義諸国の国民の間には闘争が強まっていた。1905年のペルシャ(イラン)での革命はツァーリ制ロシア帝国主義への反対を目指していたし、1908年にはトルコで青年トルコ党の反乱によって何百年と続いたスルタンの宮廷支配が終わった。このような運動を支持する考えは、第2インタナショナルの右翼幹部にはなかった。そのため彼らは、ペルシャとトルコの戦士におざなりの祝電を送るだけであった。

[戦争反対の決議]

戦争に反対する万能薬はゼネラル・ストライキである。イギリスのケア・ハーディは、フランスのヴァイヤンと共同で、提案された決議案を次のように修正した。「大会は、労働者、特に必需品を供給する産業(兵器、弾薬、運輸など)における……のゼネラル・ストライキが、また国民の間に最大限の方法で積極的な扇動をすすめることが、戦争を阻止するために利用すべきあらゆる手段のうちで、もっとも効果的なものと考える」。
1909年7月26日に、スペインでは、バルセロナの労働者が、モロッコとスペインの戦争に抗議するゼネラル・ストライキを呼びかけた。この頃から、戦争反対のゼネラル・ストライキを目指す運動が力を増すようになる。このストライキでは、極めて戦闘的扇動が行われ、約30万人の労働者が参加した。ストライキは7月31日まで続いたが、8月2日に行われるはずだった二度目の全国的なストライキは、警察のテロルにあって失敗した。このとき、社会党とアナルコ・サンディカリスト労働組合の幹部が逮捕された。

ドイツのレーデブールは、ゼネラル・ストライキの修正案に反対する主要な人物であった。彼は中央主義者であったが、ゼネラル・ストライキに対しては、労働者の闘争性に反対するドイツの修正主義者と同様、「そんなことをすると社会民主党の諸組織に警察の攻撃を招き、致命的な結果になるだろう」という議論を持ち出した。

ゼネラル・ストライキ修正案は結局118票対58票で敗れたが、この問題は更なる検討が必要だとして国際社会党事務局(ISB)に委ねられた。

戦争反対の決議は満場一致で採択された。これはシュトゥットガルト決議の基本に沿ったものであった。
「議会に出ている社会主義者代表の義務として繰り返し述べられてきたことは、全力をあげて軍備とたたかい、軍備のための基金を拒否しなければならぬということである。この義務をあくまで守ることにより、大会は、これらの代表につぎのことを期待する。
a. 国家間のあらゆる紛争を処理すべき強制的な国際仲裁裁判所を、たえずくりかえして要求してゆくこと。
b. 最終的には全般的な軍備縮小をめざし、当面さしあたっては、海軍軍備の制限と海上における拿捕権の廃止にかんする会議の招集を目的とする諸提案を、たえずあらたにだしてゆくこと。
c. 秘密外交をやめ、諸政府間の条約や協定は現在あるものも将来むすばれるものもすべて公表するよう要求すること。
d. 諸国民の自決権と、武装攻撃や力づくりの抑圧にたいする防衛権を支持して力をつくすこと。」
そしてこの決議文の後には、「大戦争が起こったあかつきには社会主義を目指して戦うこと」と呼びかけたシュトゥットガルト決議の中の有名なレーニン=ルクセンブルグの次の二項が続いていた。
「もし、戦争勃発の危険がせまったならば、その国の労働者階級とその議会代表の義務は、国際(社会党)事務局の統一的な活動にたすけられながら、もっとも有効と思われる諸手段によって、戦争の勃発をくいとめるよう全力をつくすことである。そのような手段は、もちろん、階級闘争と一般政治情勢の度合いにおうじて、さまざまにかわるものである」
「それでも戦争が勃発したならば、彼らの義務は、戦争のすみやかな終結をめざして干渉するとともに、戦争がひきおこした経済的・政治的危機を利用して国民をたちあがらせ、それによって資本主義的階級支配の廃絶をはやめるよう全力をふるうことである」
この二項があることによって、決議案に不満がある者もこれを支持した。右翼は舌を出しながら決議案に賛成投票していた。すなわち、彼らが帝国主義戦争に対して社会主義革命をもって対抗する気がないということを表していた。

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