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20231105学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第21章-3 ドイツ社会民主党と政治的大衆ストライキ

20231105
『三つのインタナショナルの歴史』

[政治的大衆ストライキの問題]
第1インタナショナル、および第2インタナショナルの全期間を通じて、大会ではゼネラル・ストライキに訴えることを支持せよという要求が出されたが、1968年の第1インタナショナルの大会でただ一度採択されただけで、その後は全て否決されてきた。

ドイツ社会民主党は第2インタナショナルの基本的な組織であったが、ここでの大衆ストライキの問題は階級的な選挙制度を廃止し「普通・直接・平等・秘密の選挙権」を獲得することであった。労働組合は階級強調を旨としており、政治的大衆ストライキが自分たちの方針にとっていかに危険なものであるかを認識していた。

1905年9月にイェーナで社会民主党大会が開かれたが、大衆ストライキに対する意見はさまざまに分かれた。
ベーベルは、ゼネラル・ストライキは防衛的武器であるとするべきで、大衆的政治ストライキを警告した。
ローザ・ルクセンブルグなどの左翼は、政治ストライキを支持するマルクス主義的な演説を行った。
中央派は動揺するばかりであった。
右翼は、ゼネラル・ストライキを「全面的(ゼネラル)ナンセンス」だと非難し不可能だと主張した。
大会は、圧倒的多数でベーベルに賛成。大衆的政治ストライキを一定の範囲内で支持する決議を採択した。

決議は次のとおり。
「普通・平等・直接・秘密の選挙権に対し、あるいは結社の権利に対して攻撃が加えられた場合には、攻撃を退けるのに適切なあらゆる手段を行使するのは全労働者階級の義務である。党大会は、労働者階級に対するこのような政治的犯罪を阻止し、あるいはその解放のために絶対欠くことのできない諸権利を獲得してゆくうえで、最も有効な手段の一つは、できるだけ広範に大衆的な労働放棄を実行することであると考える」

ゼネラル・ストライキにたいして非難と支持という、全国労働組合と党大会の立場の違いは、ドイツ労働運動に危機を生み出すものであった。強大な労働組合を支配している反動的官僚主義者と、党を押さえ急進的に傾いている小ブルジョア的インテリゲンツィアのグループ間における、激しい戦いの頂点となった。

1906年2月、マンハイムにおいて、党の中央委員と労働組合の総委員会とが秘密会議を開いた。この大会で党の幹部は大衆的政治ストライキの企図を捨てることに同意した。さらに、今後労働組合に対してこの問題を討議するなという、労働組合幹部からの最後通牒を受け入れた。こうして、ベーベル=カウツキーの党指導部が日和見主義的労働組合官僚に降伏した。これによって右翼日和見主義者の立場は途方もなく強くなり、労働組合幹部の党内の勢力はますます優勢となった。対して中央派と左翼の立場は弱くなり、これはドイツ社会民主党の歴史に一時期を画する悲劇的な一里塚となった。

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