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20230919学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第19章-3 アムステルダム大会でのプレハノフと片山潜の熱い握手

20230919

『三つのインタナショナルの歴史』


「アムステルダム大会における左翼の勝利」


1904年は、日露戦争が始まった年である(日露戦争:1904年2月から1905年9月)。日露戦争は、アムステルダム大会(1904年)の重要な問題となった。帝国主義の時代における最初の大規模な戦争であり、ロシアの社会党と日本の党(当時は社会主義協会)は、革命的な立場からこの戦争に強く反対した。アムステルダム大会のクライマックスは、ロシアのプレハノフと日本の片山潜のあたたかい握手であった。戦争に反対する共通の闘争での連帯を誓い合った。

戦争の場合におけるゼネラル・ストライキは否決された。これは以前からであるが。


アムステルダム大会の主要な関心は、なんといってもベルンシュタイン主義という焦眉の問題であった。ドイツの党がこの闘争の先頭に立ち、修正主義に反対してマルクス主義路線を守ることに徹した。ベーベル、カウツキー、プレハノフ、レーニン、ルクセンブルグ、ゲード、デ・レオンらがこの戦いを指導した。

ドレスデン=アムステルダム決議がこのときに採択されたが、これは1903年のドイツ社会民主党ドレスデン大会の決議と実質的に同じもので、ゲード派がこれをアムステルダム大会で再提出したからである。修正主義と大臣病を鋭く非難し、階級闘争の政策を戦闘的に支持した。


「ドレスデン=アムステルダム決議」


決議文

「大会は、あらんかぎりの力をこめて、修正主義者たちの努力を否認する。彼らの目標は、階級戦にもとづくわれわれの試練ずみの勝利にかがやく政策を変形することであり、ブルジョアジーへのやむことを知らぬ攻撃により政治権力を奪取するかわりに、既成の社会秩序に譲歩する政策をおきかえることである。

このような修正主義的戦術の結果は、ブルジョア社会をもっとも急速に社会主義社会に変革するため努力している党──したがって、ことばのもっともただしい意味で革命的な党──を、ブルジョア社会の改良で満足する党にかえることになるであろう。

この理由から大会は、修正主義的傾向とは反対に、階級対立がよわまるどころか、たえず激烈さをましていることを確信し、次のように宣言する。

(一)党は、資本主義的生産にもとづく政治的・経済的条件のもとでは、いかなる種類の責任をもすべて拒否し、したがってまた、支配階級を権力にとどまらせるに役だつようないかなる措置をもだんじて支持しない。

(二)ブルジョア社会のもとで、社会民主党が政府に参加するため努力するようなことはけっしてありえない。この決定は、1900年、パリのインタナショナル大会で可決されたカウツキー決議と合致するものである。

大会はさらに、ブルジョア諸党との了解をはかる目的からふかまりゆく階級対立をぼかそうとするすべての企図を否認する。

大会が社会党の議員グループにかける望みつぎのことである。すなわち、議員グループは、そのメンバーの数と、これを支持する選挙民の大量の獲得とによってつよまった力を活用しなければならない。社会主義の最終目標にむかってその宣伝をたゆみなくすすめなければならない。われわれの綱領にそって、万人に平等の権利をかちとるために、労働者階級の利益と政治的権利の拡大、強化をもっとも断固としてまもらなければならない。軍国主義に反対し、植民地主義と帝国主義政策に反対し、あらゆる種類の不公平と搾取に反対するたたかいを、これまで以上に力づよくすすめなければならない。そして最後に、社会立法をととのえ、労働者階級の政治的・文明的使命の実現をはかるために、力をかたむけて奮闘しなければならない。」


アムステルダム大会で左翼と中央派は勝利を勝ち取ったが、これで右翼日和見主義の敗北が決定的なものになったわけではなかった。この後も、ベルンシュタイン修正主義者たちからインタナショナルは苦しめられ、ついに最後の不幸を迎えるのである。


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