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20230725学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第16章-2 左翼の戦い

20230725
『三つのインタナショナルの歴史』

[革命的イデオロギーにたいする改良主義]

1890年代は資本主義が急速に拡大し、労働者の組織も力を増し、プロレタリア革命が起こるような兆候は見られなかった。主要な課題は、労働者の当面の要求をめぐる日常闘争だった。第2インタナショナルは右翼的な傾向を強め、マルクス主義イデオロギーも社会主義の革命的な目的も否定してしまった。
インタナショナル大会では、一般的な政治方針の討論は「戦術」という項目で行われた。指導的な立場にあったドイツは「戦術的」な問題は各国の党の権限に属することとして、徹底的な討論には反対した。チューリヒ大会(1893年)では、目前の要求に重点を置き、社会主義的目標などはほとんど無視された。
ドイツ社会民主党の内部では、右翼日和見主義と改良主義への傾向がますますはっきりと表れていった。『共産党宣言』のような文献は背後に追いやられた。
1891年のエルフルト綱領はカール・カウツキーが書き、全世界の社会党の手本となった。この綱領は、革命的な分析を含んではいたが、革命とプロレタリアートの独裁という基本問題を曖昧にしていた。また、ドイツに共和国を打ち立てる要求も入ってなかった。
ゲオルグ・フォン・フォルマールが唱えた日和見主義的な方針は、部分的な要求を漸進的に勝ち取っていくことが社会主義への道だというものであった。彼は、党と農民の同盟を提唱し、三国同盟を平和の保障だと称え、ブルジョア諸党との連携を支持した。

1895年3月にエンゲルスはマルクスの『フランスにおける階級闘争』の序文を書いた。この中でエンゲルスは、近代軍事技術発達のために、革命達成の伝統的手段とされてきた市街地のバリケード戦争が以前よりも難しくなったことを強調していた。ところが、『フォルヴェルツ』の編集長であったヴィルヘルム・リープクネヒトが、印刷する前にこの序文の重要な部分を削除してしまったため、エンゲルスは(右翼と一致して)革命における武装闘争の見通しを捨てたという意味合いの内容になってしまった。このことは、ドイツの運動で改良主義的傾向が増大していることの証であった。その後長い間、このひどく歪められたエンゲルスの序文は、改良主義者たちによって左翼への反対に効果的に利用された。
削除された重要な部分とは以下のとおりである。
「ではこれは、将来は市街戦はもうなんの役割も演じないという意味なのか? けっしてそうではない。それはただ、1848年以来いろいろな条件が民間の戦士にとってずっと不利になり、軍隊にとってずっと有利になった、というだけのことである。だから、将来の市街戦は、こうした不利な事態をべつの要因でうめあわせないかぎり、勝ちめがない。だから、市街戦は、大革命のはじめにおこるより、その後の経過のあいだにおこるほうが多いだろうし、もっと大きな兵力をもってこれをくわだてなければならないだろう。だが、そのような大きな兵力があれば、たしかに、あのフランス大革命の全体をつうじてそうであったように、また1870年9月4日や10月31日にパリでなされたように、受動的なバリケード戦術よりも公然たる攻撃をえらぶであろう」
ブルジョアジーの軍事技術がいくら進んでも、立ち上がった革命的人民に対しては決定的な防衛力とはならない。立ち上がった人民が軍隊の大きな軍事力を、自分の側に引き入れることができるからである。

[左翼のたたかい]

インタナショナル内部では、右翼と左翼の格差は広がるばかりだった。右翼は戦闘力を上げ、綱領と組織を発展させていった。それに引き換え左翼は、相変わらず自分自身の明瞭な綱領も持たず、しばしばマルクス主義としての重要な教訓を忘れたりしていた。ベーベル派、カウツキー派、プレハノフ派。そうした者たちは、主要な点ではまだマルクス主義にすがり、自分たちは「正統派」マルクス主義者だと誇ってもいた。しかし、そのころ徐々に伸び始めていた中央主義的な傾向に対して、自分自身をはっきりと区別することもしなかった。中央主義は動揺的なので、革命的な左翼はここから区別しなければならなかったにもかかわらず。彼らはまだ、本当に厳しい革命的な仕事や闘争にぶつかったことがなかったためかもしれないが。結局彼らは、革命闘争にぶつかったときに否応なしに右翼との同盟に引き込まれていったのだった。第2インタナショナルの著名な「正統派」指導者たち、カウツキーやゲード、プレハノフなどは、その後も決して共産主義者となることはなかった。
当時の国際的な左翼は、まとまりのないものだった。半日和見主義者や、改良主義者、真の共産主義者など、さまざまだった。このまとまりのない集団が、のちに極右翼の成長という大きな危険を生むことになる。例えば、イギリスのフェビアン派、ドイツのフォン・フォルマールの支持者のような勢力がその代表例である。マルクスもエンゲルスも、その危険性を早くから指摘し、ゾルゲやベルンシュタインに手紙を送っている。

[フリードリヒ・エンゲルスの死]

1895年8月5日、フリードリヒ・エンゲルスがイギリスで死んだ。享年75歳。死因は咽頭がんだった。死体は火葬され、海に散骨された。海に散骨するのはエンゲルスの望みだった。エンゲルスは死の直前まで政治的活動を続けていた。エンゲルスの死の知らせに、世界の労働者は大きな衝撃を受けた。
1883年にマルクスが死んでからの約11年間、エンゲルスは『資本論』の第2巻と第3巻を仕上げることに費やした。マルクスの残したおびただしい数のノートをまとめあげた。また、エンゲルスは第1インタナショナルの歴史を書こうとしていたが、これにはとりかかることができなかった。
エンゲルスは、国際労働運動に、実践上でも政治上でも日々指導を行った。世界社会主義運動の指導者と仰がれ、世界中の社会主義諸党とも交流を持った。アメリカでは、長い間アメリカ社会主義運動の助言者であった。エンゲルスはマルクスとともに、国際プロレタリアートの記憶に永久に残るであろう。

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